正しい後悔の仕方~Their angle~

スカーレット

第1話 その男は元妻をも怒らせる

――暗い。

 もう何日も変わらない光景。

 ライフラインの閉ざされたこの部屋で、僕の命は消えようとしている。


 時期的に少しまだ肌寒く、しかし着込むほどでもない気候のはずなのに、財布の中身も心も冷え切ったこの状況。

 つい数か月前まではまだ、僕は普通の生活を送れていたはずだった。

 離婚歴があっても、愛娘にはたまにしか会わせてもらえなくても、この三十五年という人生はそれなりに楽しく過ごせていた。


 それが今や落ちぶれて仕事もお金も失って、ただただ命の灯が消えるのを待つという始末。

 水が止まったあの日、僕は死ぬということを覚悟して、それでも何とかその運命には抗おうとしていた。

 深夜に人目を忍んで水を公園まで汲みに行ったりもしていた。


 何日か持つ様に、と浴槽に水を溜めることにして、タンクにその水を入れることでトイレだって流せた。

 しかし、水だけあれば人間は生きていけるわけではないということをすぐに思い知ることになって、最初のうちけたたましく鳴り響いていた腹の音も、痛みと共に次第にその動きを止める様になった。

 動くことすらも億劫になって、それでもトイレと水を口に含んで少しでもその生命を永らえる為の措置だけはとってきたつもりだったが、そろそろ限界が近そうだ。


 助けてくれる様な友達もなく、元妻もたまに様子を見に来てくれたりしていたが、最近は連絡もない。

 もちろん通信手段さえも止まっているこの状況で連絡など取れるはずもなく、動くだけの体力もないのではもう、八方塞がりというやつだ。

 近所付き合いもまともにしていないし、最近じゃそんなのは別に珍しくもない。


 隣人の顔も名前も知らない、なんていうのは別に今の世の中では普通だ。

 そんな人たちの助けを求められるほど、僕は図々しくなかった様だ。

 過ぎた空腹を前にして、頭は通常よりもクリアになっている気がした。


 感覚がより研ぎ澄まされた気がして、廊下でたまに聞こえる程度の足音がいつになくクリアに聞こえる。

 そしてその足音が僕の部屋の前で止まり、何やらごそごそやっている音が聞こえたと思ったら、今度はドアをノックする音が聞こえた。

 こんな僕を訪ねてくる人間がいるなんていうことが、この人生で最後の驚きにになるのだ、と思った。


「開けるわよ」


 聞き覚えのある声と共に、ドアの施錠が解除される音が聞こえる。

 そしてドアが開き、息を呑む声が聞こえた気がした。


「ちょっと……あんた!? どうしたのよ!!」

「……ああ、やっぱり君だったのか……」


 朦朧とする意識の中、はっきりと見えた元妻の驚愕した顔。

 どうやら愛娘は一緒ではない様だ。

 最後に一目会いたかった、なんてセンチメンタルなことを考えてしまうが、それももう叶わない願いなのだと思った。


「何よこの惨状……生活、どうしてるわけ……?」

「ご覧の通りさ……もうただ、死ぬのを待つだけの状態だった」


 僕の言葉に、彼女は怒りを露わにする。

 こんな顔をさせたのは……離婚を決めた時以来か。


「死ぬのを待つだけの状態だった? 何寝ぼけたこと言ってんのよ……! 自ら死にに行く様なの、認めないから! 由衣に何て説明すればいいのよ!! 勝手なこと言わないで!!」

「ただの冷静な分析なんだけどね……癇に障ったならすまない。その由衣は今日、一緒じゃないんだな」


 由衣というのは先ほどから少し挙がっている、愛娘の名前だ。

 パパ、パパ、と可愛い娘だった。

 離れて暮らすことが決まった時は三歳かそこらだったはずだが、最近は大きくなって友達なんかも出来ていると聞いている。


「置いてきてる。友達と遊ぶって言ってたから。それより……もしかしてこの家、ライフライン止まってない? 物音一つしないじゃない。何も食べてないんじゃないの?」


 彼女は何故、こんな人間を気にかけてこんなにも怒るのか。

 それが不思議で仕方なかった。

 彼女は立ち上がって、水道を捻る。


「本当に止まってる……水が止まるって、相当だと思うんだけど。どうしてこうなったの?」


 そう言いながら彼女はカバンを漁る。

 そのカバンから出てきた小袋のスナック菓子を、僕に放って寄越した。


「とりあえずそれ食べなさいよ。少しでも動けないとどうしようもないでしょ」


 どうにも体に力が入らない。

 正直こんなものを食べたら体がびっくりしないか、なんて考えていると、彼女は更に怒りを顔に滲ませた。


「早く食べなさいって言ってるの!! 出かけるわよ!!」


 なかなかどうして、世間は僕の方から関わりを絶とうとしても放っておいてはくれない様だ。

 僕は死に損なってしまった。

 楽になれる、なんて思っていたのに。


 しかしこうギャンギャン喚かれると、彼女が高血圧になったりしないか心配になる。

 今日は置いてきていると言っても、彼女は由衣の母親だ。

 何としても彼女には由衣を頑張って育ててもらわなければならない。


 なので、僕は観念して受け取ったスナック菓子を食べることにした。


「ありゃ……もうなくなっちゃった」


 食べ始めると止まらなくて、あっという間に袋は空になってしまう。

 そんな僕を、彼女は涙目で睨みつけてきた。


「何で報告してくれなかったの? 怒られるとでも思った?」

「……いや、報告しなきゃ、って思った日に携帯が止まったんだ」

「仕事は? あの店にいなかったからおかしいとは思ったけど」

「……辞めた。僕は社会不適合者だから」

「は?」


 信じられないものを見る様な目で、彼女は再度僕を睨んできた。

 元々それなりのネームバリューのある会社の系列の店で僕は働いていたが、それももう大分前のことだ。

 つまらないことでその仕事を失うことになった僕は、職探しをしていなかったわけではないとだけ言っておく。


「仕事、探してなかったの?」

「いや、探していたよ。だけど、こうなる前に見つからなかった」

「通信も全部止まってるんじゃ、もう手詰まりじゃない……こんな状況になるまで放置って、それ自体が異常なんだからね?」


 そう言いながら彼女は何やら考え込んでいる様だ。

 ここへきて、何を考える必要があるというのか。

 そもそも離婚した時点で僕と彼女……杉崎ゆかりは他人で、助けてもらう義理なんかなかったはずだ。


 それこそここで野垂れ死んだところで由衣が悲しむ理由はあっても、彼女が悲しむ理由なんかないのだから。

 もちろんそんな風に考えていたこともゆかりにはバレていそうだし、言ったらまたとんでもなく怒りそうだから言えるはずもないんだけど。


「まずは食事するわよ。こんな美人とご飯食べられるんだから、生きててよかったでしょ」

「……いや、それはそうなんだけど……僕はお金持ってないからまた今度」

「バカ!! 奢ってやるって言ってんの!! さっさとついてきなさいよもう!!」


 こうして僕は、彼女から助けられてしまうこととなった。



「……ご馳走様でした」


 空になった食器の数々。

 外食なんて何か月ぶりだろう。

 ゆかりが僕を引きずる様にして連れてきたのは、近所のファミレスだった。


 ハンバーグが売りの店で、個人的にはなかなか美味しかったと思う。

 もっともゆかりはあんまり気に入ってない様だったが。


「すごい食べっぷりね……お腹壊さない? 何日食べてなかったの?」

「最後に食事したのって、いつだっけな……何食べたっけ……」

「ああ、もういいわ……ここ何日も、ってことなんだろうけど……よく生きてたわね本当……」

「君が来なかったら、多分明日か明後日には死んでたんじゃないかな」

「何よ、助けてあげたのに不満なの? まさか死にたかったなんて言うんじゃないでしょうね」


 またも僕はゆかりに睨まれる。

 今日何度、僕はゆかりに睨まれただろうか。


「もちろん、そういうわけじゃないよ。ただ、もう諦めて受け入れていたって言うのかな」

「…………」


 ドリンクバーの紅茶を飲みながら、ゆかりは僕にじっとりした目を向けてくる。

 昔はこんな目を向けられても、可愛いやつだな、なんて思えたのに今はそんな感情も湧いてこない。

 月日って残酷だよな。


「とりあえず、ご馳走になった分は返したいところなんだけどね……出世払いとかで」

「それ、返す気のないやつのセリフでしょ……。現状文無しのあんたにそんなの期待してないわ。それより界人、あんたこれからどうするつもりなの?」


 界人というのは僕の名で、僕は中村界人と言う。

 ゆかりも結婚していた頃は中村ゆかりだったが、離婚して杉崎ゆかりに戻ったというわけだ。

 そしてこれからどうするのか、と言われても今日は日曜だ。


 職業安定所なんかも休みだし、ネットも繋がっていないんじゃ職探しどころじゃない。


「どうせあんたのことだから、何も思いつかないんでしょうけどね」

「まぁ、そうなるかな」


 呆れた様な目で、ゆかりは僕を見る。

 懐かしさを感じる視線だ。

 昔からゆかりは変わっていない。


 いや、変わっていないのは僕の方かもしれない。

 昔から、自分のことは案外どうでも良かったし、この状況にあって尚、僕はこの状況を他人事の様に思っている節がある。


「とりあえずこれ、持ってなさいよ。一円も持ってないんじゃ、どうしようもないでしょ」


 そう言って彼女が財布から諭吉さんを取り出して僕に押し付けてくる。

 食事まで振舞ってもらって、更にお金までもらうなんてこと、正直できない。

 そう思って諭吉さんをそのまますっとゆかりに押し返すと、ゆかりの顔がまたも強張った。


「……何のつもり?」

「受け取る理由がないから。それに一円も持ってないわけじゃないよ。大体、こうしてご飯をご馳走になることだって、本来なら……」

「ならいくら持ってるのよ、言って見なさいよ」

「……十六円」

「バッカじゃないの!? 大体ね、あんたになくても私には理由があんのよ!! くだらないこと言って意地張ってないで、持ってなさいよ!! あげるんじゃなくて、貸すの!! いい? ちゃんと生きて返すのよ!!」


 日曜の夕方近いファミレスに、ゆかりの怒号が響く。

 何事かと、周りがざわつくのが見えた。


「……どうしても返したいなら、いつか生活が何とかなってから返してくれたらいいから。そのお金で、今日はネカフェにでも泊まったらどう? ああいうとこなら有料だけどご飯も食べられるし、電気も使える。携帯も充電できるしWi-fiが使えるらしいじゃない。飲み物も大体は飲み放題なんでしょ?」


 昔何度か行ったことはあるが、確かにそういう施設ではあるという記憶はある。

 だがどうしてゆかりは、ここまでしてくれるんだろう。

 それが僕には理解できない。


「駅前にあるでしょ、確か。ちょっと遠いけど、そこまでは連れてってあげるから」


 お言葉に甘えて今日をネカフェで過ごすことについては、特に異論はない。

 もちろん後ろめたさの様なものは徐々に芽生えているが、こうして助けてくれようとするからには何かしら意味があるのだろうと思う。

 ただ、思ったのは返さないといけないわけだから、死ぬわけにもいかなくなった、ということだった。



「明日、また来るわ。ちょっと心当たりあるところもあるし、一緒にそこ行くわよ」

「デートかい?死にかけの男とデートしたいなんて、変わってるな」

「……はぁ。まぁ、今言っても仕方ないから明日のお楽しみってことで。だけど色気のあるとこじゃないとだけは言っとくわ」

「そうか、面倒かけるね」


 駅前のロータリーで車が止まり、僕は車を降りた。

 明日は平日だというのに、会社はいいのだろうか。

 ゆかりは確か会社勤めをしていたはずだけど。


「そんなにほいほい助けてあげることは出来ないけど、導いてあげることは出来るから。今日のことは運命だった、とでも思うことにする」


 そう言ってゆかりの車は走り出した。

 ネカフェは案外すぐ近くのビルの中にあって、探すのに苦労をしなくて済んだのはありがたい。


 明日、ゆかりは十時くらいに迎えに現れると言っていた。

 おそらくは僕の家にまた来るということなのだろう。

 準備するものを頭の中でメモして、僕はネカフェに入って行った。


 何があるかわからないから出費は最低限で、ということで宿泊用のパックの申し込みをして、僕は与えられた部屋で携帯を充電する。

 しばらく電源が切れた状態が続いていたので放電されてしまっていないか心配になったが、ちゃんと充電ランプが反応したのを見て安堵した。

 今日は空腹などに邪魔されることなく、ゆっくり眠れそうだ。

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