狐のお面を被った女の子に、僕は救われた。

桐沢もい

第1話「狐のお面を被った転校生」

 高校3年D組、僕のクラスに転校生が来た。


 女の子だ。


 彼女は登校初日、担任の先生に導かれるまま、40人余りの生徒が着席する教室へと足を踏みいれた。教壇に立ち、こちらを向く。


 背が低めで、華奢な身体つきをしている。髪は肩の高さよりも少し長めで、さらさらとした質感が、一番後ろの僕の席からでも見て取れた。


「オトガオサクラです。よろしくお願いします」


 彼女は氷のように冷えきった声で、自己紹介をした。

 担任の先生が黒板に大きく「乙顔さくら」と書いた。


 彼女は、狐のお面を被っていた。



   ※



 僕は人間が理解できない。生物種としては僕も人間に含まれるはずなのに、同じ種のことを僕は理解できない。

 他人と話すとき、それを顕著に感じる。

 会話を交わしても、相手の言っていることを理解できている実感がない。同じように、僕の言ったことが相手に伝わったと感じたことは一度もない。

 いつも会話は表面的で白々しい。ただ、お互い単語を並べ立てているにすぎない。言葉は宙に浮き、誰に受容されることもなく消えていく。もちろんお互い何らかの意味を込めて発言しているに違いないのだが、相手に伝わっていなければ同じことだ。

 はじめは、きっと皆もそうなのだろうと思っていた。だからそれを確かめるために、いっとき、僕はよく他人同士の会話を注意深く観察していた。しかし、どうやら僕以外の人同士だと会話が上手く回っているらしかった。

 ひとりが相手の発言に対して適切に反応し、適切な言葉を返す。すると、相手からも期待通りの答えが返ってきて、ふたりは共鳴しあうように笑う。そういうふうに見えた。やはり、僕だけがおかしいのだという結論に至った。

 そんなふうに考えて生活していたら、いつの間にか友達と呼べる人はいなくなっていた。



   ※



 当然、乙顔の姿を見たとき、クラスの皆が驚いたような、訝しむような表情を浮かべた。自分のクラスに転校してきた生徒が、登校初日から狐のお面を被って現れるなんて状況は、誰も経験したことがない。経験したことがない状況には、誰しも少なからず身構えるものだ。

 乙顔は先生に促され、前の方の空いている席に座った。お面を外す様子はない。そのまま、鞄から教科書やノートを取り出し、授業の準備を始めた。

 どういうわけか、先生からもお面について言及はなかった。先生自身、特に驚いている様子もない。おそらく、乙顔かその家族の意向を事前に聞いていて、お面のことには触れないようにしているのだろう。そうでないとおかしい。明らかにひと言でも言及が必要な状況である。

 いったいどんな事情があって、乙顔は狐のお面なんか被っているのだろう。何か隠さなければならない致命的な傷痕みたいなものが、彼女の顔にはあるのだろうか。


 僕は気になってしかたがなかった。


 それは僕にとって驚きの事実だった。僕は普段、他人にはほとんど興味を示さないのだ。僕にとって、他人は理解不能な別次元の存在だった。理解できないし、理解してもくれない。だから、僕は他人のことを知りたいとも思わなかった。思わなくなっていた。

 でも、今後このクラスで乙顔がどうなっていくのか、そんなこと僕にとってはどうだっていいことのはずなのだが、どういうわけかとても気になった。

 マイノリティーのシンパシーだろうか。あるいは、乙顔が今後このクラスに溶け込み、上手く立ち振る舞うことができたら、それを僕にも当てはめてみて、僕自身の状況を改善できるのではないかと期待しているのかもしれない。


 まあ、でも。


 きっと乙顔も、このクラスで排斥されるだろう。

 僕みたいに。



   ※



 僕は、自分が他人とは違うということに気付いてから、ほとんど人と話さなくなった。相手に通じないとわかっている言葉を発してもしかたがない。理解できない他人の言葉を聞いてもしかたがない。そんなふうに考えて、どんどん自分の世界に閉じこもっていった。

 皆は僕のことを気持ち悪いと言うようになった。話してもよくわからないことを言うし、いつも俯いて暗い顔をしているから気味が悪いと言った。

 しかし、僕に言わせれば、皆の方がよっぽど気味悪かった。皆、同じような言葉を喋り、同じような表情をし、物事に対して同じような感想を抱く。人の顔色をうかがって、気分を害さないように、考えぬいた言葉を発する。巧妙に自分を隠す。まるでお面を被るように。


 ――お面?


 乙顔は狐のお面を被っている。皆はいわば透明なお面を被っている。僕は……?



   ※



 午前の授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。結局これまで乙顔に話しかける生徒はいなかった。皆、様子見といったところなのだろう。狐のお面を被って授業を聞いている摩訶不思議な人間に、何の抵抗もなく話しかけにいくのは、相当ハードルが高い。この様子だと、物事が動き始めるにはもう少し時間がかかりそうだ。


 さて、僕はいつも通り購買部で昼飯を調達し、校庭の隅の人目につかない場所で、静かに昼休みを過ごすとするか。


 僕は席を立ち、教室を出るために足を踏み出した。

 すると、誰かがこちらを向いて立っていた。僕は視線をやや下に向けていたせいで、相手の顔が見えず、誰かは判別がつかない。

 制服である臙脂色のプリーツスカート。いやに丈が短く、そこからすらっとした白い脚が伸びている。


「ごめん……」


 僕は、行く手を阻んでしまったことを詫びた。自分でも嫌になるほど、小さく、くぐもった声だった。

 僕は視線を上げる。できるだけ自然に。

 そこにいたのはクラスの級長を務める、猪股美鈴いのまたみすずだった。僕が道をあけても、動こうとしない。


「武田くん、ちょっといいかな?」


 猪股は、ふんわりとした巻き髪を揺らして言った。話すとき、微かに首を縦に振る癖があるのだ。まるで、自分が発した言葉をひとつひとつ確かめているみたいに。

 僕の名前を呼んだということは、僕に用事があるらしい。

 授業の時間ではなく、休み時間に名前を呼ばれたのは久しぶりだった。授業のなかで、やむなく話さなければならない場合以外は、誰も僕に話しかけなかった。話すことが無いし、また、話したくないのだろう。


 級長が僕に用事……なんだろう?


「いいけど、なに?」


 僕は、つっけんどんに言った。


「乙顔さんのことなんだけど」


 巻き髪が控えめに揺れる。

 乙顔? 転校生のことで、僕にどんな話があるんだ?

 猪股は続けた。


「彼女に配り係をやってもらおうと思っているの」巻き髪がやや強めに揺れ始めた。配り係とは、先生が用意したプリント教材や、返却する宿題を生徒に配る係だ。「ほら、私たちのクラスって、級長は決まったけど、その他の係が全然決まってないじゃない? そろそろ決めなくちゃだし、何かやった方が彼女もクラスになじめると思うの」


 もうじき四月も終わろうとしている。たしかに、色々と係が決まっていなければならない時期だ。

 でも、それをどうして僕に?


「そこで、武田くんと乙顔さんを配り係に任命します!」


 猪股は語尾の「ます!」を強調して言った。巻き髪がいつにもまして強く揺れた。人差し指を立ててにっこりしている。他の人に話しかけるときと同じ調子で僕にも話す人は、この学校で猪股くらいのものだ。


「……どうして僕?」


 僕は呆気にとられて聞き返した。

 他にも適任はたくさんいるだろう、と僕は言いかけたが、言葉を飲み込む。考えてみれば、そんな人はこのクラスにはいないかもしれなかった。

 普通と違っているという理由で、僕をおもいきり敬遠するやつらなのだ。お面を被っている乙顔に対して、まともに接してくれる人なんて、この中にはいないだろう。

 しかし、だからといって僕を選ぶ理由にはならない。僕はそもそも、ほとんど人と接しない人間なのだ。


「武田くん以外にやってくれそうな人がいないの……、ごめんね、なんか消去法で選んだみたいで」


 猪股は本当に申し訳なさそうな表情をして言った。巻き髪が、どこか遠慮がちに揺れた。

 そういうことか、と僕は理解した。でも、それを聞いて特に落ち込みはしなかった。自分のことはよく理解しているつもりだし、はっきりと事実を言われることはむしろ歓迎だった。気を使って上辺だけのことを言われたり、陰で何かを言われるよりは、爽快でいいじゃないか。

 僕はこういう点で、猪股に好感を持っていた。


「他の人は、なんて言うか、先入観や偏見で人を見るところがあるから」


 猪股は周囲に聞こえないように気を使ってか、声を抑えて、囁くように言った。巻き髪はほとんど揺れなかった。

 猪股はクラスの皆の性質をよく理解していた。そして、僕がその被害に遭っていることも心得ていた。細部で起こっていることを察知し、全体の調整に尽力することができる。まさに、級長にふさわしい資質だ。

 しかし、そんな猪股でさえも、状況を根本的に解決することはできない。せいぜい、被害を最小限に抑えるのが関の山だ。それだけ、周囲の均質化された空気は重く固定されている。


「どう? やってくれる?」


 猪股は少しかがんで、上目遣いで言った。いじらしい笑顔に、僕は少しひるむ。


「う、うん。いいよ……」


 引き受けることにした。

 何もしていないよりは、何かをしている方がいい。ほんとうに、それくらいの気持ちだった。


「ありがと!」


 満面の笑み。

 猪股はくるりと半回転した。短いスカートの裾が遠心力で広がり、もう少しで中が見えそうになる。

 ふんわりと巻き髪を弾ませながら、猪股は自席へと戻っていった。

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