和癒OP
立心堂 和癒(リッシンドウ ワユ)―― 至宝女子のセンター、一年。
その実家は和菓子屋を営んでいると聞いていた。
営んでいるとは聞いていたが―― 思った以上に趣のある店構えだった。
それこそ、宮内庁御用達とか、○○賞受賞のような文言が並んでいそうな店だ。
――学生風情には、少し入りづらい。
……とはいえ、ここでまごついているわけにもいかない。
別に、やましいところがあるわけじゃないし。
――でも、もしかしたら、来客用の入り口とか、住居用の玄関とか、あるんだろうか。
そっちを探した方が良いのだろうか。
――ええい、ままよ!
意を決して、足を踏み込む。
焦げ茶色の風格を漂わせる、重厚な引き戸を開けて、中に入る。
――……。
涼しい風の吹く店内に足を踏み入れると、すっと汗が引いていくのを感じた。
何の香りだろうか。
どこからか、涼やかに甘い香りも漂ってくる。
外見ほど取っつきにくさのない店内は、沢山の菓子で賑わっていた。
多種多様な和菓子はもちろん、洋菓子もいくつかはディスプレイされている。
その一つ一つが、宝石のように、煌めいて見えた。
今は客の姿はないようだが、おそらく、たまたまだろう。
数量限定、と書かれたショーケースには、本日完売の文字が躍っていた。
物珍しさで、うろちょろと見回してみる。
――と、そこに一つの影が差す。
「へい、らっしゃい!」
……まるで、寿司屋か八百屋の勢いで迎え入れられる。
――和癒の親父さんだろうか?
40は過ぎているか、そこらの年だろう。
恰幅の良い、気っ風の良さそうなおっさんだ。
禿げた、というよりは完全に剃ったようにみえる頭が、天井の電灯の光を反射していた。
客だと思われても悪いので、遠慮がちにそちらに近づく。
「あの…… 和癒さんは、いらっしゃいますか?」
「あぁん――?
おめぇさん、どちらさんだ?」
「えーと、至宝学園の、前波慶治と言います。
女子野球部の――」
「おう!
おめぇさんが、アレか、コーチ先生か!!」
「は――?」
オレの言葉の一言一句をしかめっ面で聞いていた強面の親父は、あるところで急に声を上げる。
しかも―― “ コ ー チ 先 生 ” ?
いったい、和癒はどのようにオレのことを親に言って聞かせているんだろう……?
「――いや、先生じゃないですけど」
「おうっ!
わかってるって、コーチ先生兼任監督な!」
「……」
――わかってるのかな。
わかってない方にフルベットしたいけど。
まぁ、いいか……。
「えぇと……それで、和癒さんは――?」
「おう、和癒な!
ちぃとばかし待ってろ!」
そう言うと、先ほど姿を現した、店中央奥の暖簾に首だけを突っ込んだ。
そして、大きく息を吸い込む。
「わぁーゆぅー!
わぁー!↑ ゆぅー!!↓」
まるで、ヘビメタ歌手のシャウトが如くに我が娘の名を呼ぶ。
それこそ、隣近所どころか三軒隣まで響いていきそうだ。
――場所違いも甚だしい。
とはいえ、口には出せずにその結果を待ち続ける。
と、奥座敷から、着物の女性がゆっくりと姿を現した。
「――アンタ?
どないしたん、そないに叫んで……」
「おぅ、お前。
和癒のヤツはどうした?」
「和癒?
和癒やったら、早うに出かけたえ。
何か用事でもあるん?」
「何だ、いねぇのか…… おぅ、お前も挨拶しときな。
コイツ、和癒んとこのコーチ先生だってよ」
「へぇ、あんさんが―― ずいぶんとお若い先生やねぇ」
「――いや、先生じゃないですって。
至宝学園3年の、前波慶治です」
「これは、ご丁寧さんに―― 立心堂 和癒(りっしんどう わゆ) の母、 立心堂 癒弥(りっしんどう ゆや) です」
癒弥と名乗った女性は、恭しく腰を折って見せた。
高校一年の和癒の母なのだから、最低でも30前半。
――まぁ、40前後なのだろうが、とてもそうには見えない。
濃く艶やかな長い髪を、後ろ手にまとめて留めていた。
京言葉というのか、独特のイントネーションと言葉の間合いを持つしゃべり方をしている。
それが、質素めな色彩の和服に良くマッチしていた。
「そして、俺ぁ和癒の父・ 立心堂 和一(りっしんどう かずいち) だ!
よろしく頼むぜ、コーチ先生よ!」
そう言うと、右腕に力こぶを作って見せた。
――なんだろう、このアンマッチな夫婦は。
「それで―― うちの和癒が、どうかしはりましたやろか?」
「いえ、えーと―― 野球部のことについて、一人ずつ話をさせてもらってるんですが」
オレがそう答えると、癒弥さんは眉を小さく顰めて見せた。
――ここの両親は、和癒が野球をしていることに対して、肯定的だったはずだが……。
何か、やらかしてしまっただろうか。
押し黙っていると、顔色を伺っていた彼女の表情が、母親の顔になる。
「そーか、おたくさんの仕事には、あふたーふぉろーも含みますか」
「え?
――あぁ」
突然の言葉に目を白黒させてから、その真意に気付く。
それを理解して、癒弥さんは、少し微笑んで見せた。
「はい。
それも、コーチ・監督の仕事だと思ってますから」
「そうね。
うちの方で元気付ける事も考えたんやけど―― 先生さんがそう言わはるなら、お任せします」
「――先生じゃ、ないですけどね」
照れ隠しに苦笑してみる。
和菓子屋の女将は、「和癒にとっては似たようなもんです」と、悪戯に笑顔を作って見せた。
「それで、和癒さんの行き先に、心当たりはありませんか?
近ければそのまま行ってみようと思うので」
「うーん、そやねぇ……。
やっぱり、河川敷やろか?」
「おう!
アイツは何かあるとあの河川敷に行ってるからな!
今ぐれぇの時間なら、いんじゃねぇか?」
途中から会話に参加できずにいた親父さんが、ここぞとばかりに会話に割って入る。
河川敷―― 市を縦に割るようにして流れる川の、か。
そういえば、割と大きな公園があったり、運動スペースがあったりした気がする。
そこに、和癒はいるのだろうか。
――何かあった、の、中身は、オレの考えるとおりだろうか。
「わかりました、ありがとうございます、行ってみます」
お仕事中お邪魔しました、と、踵を返す。
そのまま、駆け出す勢いだったオレは、後ろからの声に引き留められる。
「ちょい待ちぃ」
「――?」
「アンタ、アレを出してくれはる?」
「アレ?
アレっつぅと―― おう、アレか!」
「それと―― これも、えぇかな」
「おう、全部やっとけ!」
「――??」
謎のやりとりをすると、和菓子の立心堂と書かれた紙袋にいろいろなものを詰めていく。
――保冷剤らしきものもあった。
「あの――……?」
「はい、お待ちどうさん。
立心堂謹製、冷やし善哉―― ほか、詰め合わせや。
持って行きぃ」
「――え。
い、いや、貰えませんよ、そんなの……」
ちらり、と、垂れ広告を見ると、華やかなカラー写真と共に、夏限定・冷やし善哉、一缶300円(税別)、と書いてある。
見た目にも涼やかで、夏風の善哉に仕立てた努力が窺われるし、飲んでみたいとは思う。
――だが、もちろん、貧乏学生風情にそんなものを買えるはずもない。
「なんだぁ――ー うちの善哉が飲めねぇってのか!?」
「いや、そうじゃなくて―― そういうのは、貰ったりするの、悪いんで……。
買おうにも、お金はないですし……」
「店の主人と女将が持ってけってんだ!
ロハでいいから、持っていきねぃ!」
「いや、でも――」
埒の明かないやりとりを続けていると、女将の方が、思いついたかのように、ポンと、手を叩く。
そう大きな音ではなかったが、二人とも反射的にそちらを伺う。
「先生さんは、今から和癒のところに行きはるんやろ?」
「はぁ、先生じゃないですけど。
――まぁ、はい、行きます」
「ほんなら、それは、和癒への差し入れにしたってください。
あの子、この暑い中出かけてったし、何も食べたり、飲んだりしてへんと思うんよ」
「和癒―― さんへ?
はぁ、それならいいですけど」
「――で、中には一人では終いでけんくらい入っとるから、たぶん、和癒は、先生さんにも勧めると思いますけど」
「――は?」
「先生さんは、女の子の好意の勧めを無碍にするような、血も涙もないような冷血男じゃ、ありまへんわなぁ」
「……あの」
「食べ切れんかった分は、たぶん、持って帰りって、和癒は言うと思いますけど―― なんせ、うちは和菓子屋なもんえ。
和癒からしたら、端っぱやら、試し作りやら、作りすぎやら、食べるには事欠かへんし……。
一度預けたものを、持って帰って来て貰っても困りますおし――」
……なんだ、この怒濤の言いくるめは。
どんどん逃げ場が埋め立てられていくのを感じる。
親父さんの方は、合点がいった、というように、うんうん、と大きくうなずいていた。
――火と水のような夫婦だが、相性はいいらしい。
「――ほんなら、先生さん、これ、お願いしますわ」
「おう、お願いするぜ!」
「はぁ―― わかりました、ありがとうございます」
「いややわぁ、先生さんったら。
これは、和癒への差し入れですえ?」
「先生はただのパシリなのによう、まるで自分が貰ったみたいだな!
ハッハッハ!」
――ったく、もう。
さすがに、人の親、ってところか。
オレみたいな青二才が気を回すこと自体、失礼だったろうか。
もう一度会釈をして、その場を後にする。
背中に、火と水の夫婦の送りの挨拶が聞こえていた――……。
――……。
さて……。
この辺りが件の河川敷だろう、が――。
“和菓子の立心堂”本店から直近の場所を目指したものの、よくよく考えれば、市を縦断しながら隣の市まで続いている川だ。
一言で“河川敷”と言っても、広い、とても、広い。
何をしに行っているかがわかるなら、まだ多少の絞り込みようもあるが、一切ないのだ。
「もうちょっと、ちゃんと場所を訊いておくべきだったかな――」
後悔先に立たず、とは、よく言ったものだと思う。
手には掛けてみたものの、携帯電話を使うのもはばかられる。
仕方なく、散歩のつもりで回ってみることにする――……。
……。
――……。
すると、大きな公園に出た。
公園?公園でいいのだろうか。
遊歩道にいくらかの運動スペースを足したような場所だ。
小さな遊具場や、ドッグランもあったりして、お盆も過ぎた真夏の日和だというのに、そこそこの人で賑わっていた。
「へぇ―― こんなところもあったんだな」
長年、この街で暮らしてきたものの、行ってないところなんてたくさんある。
いや、たかが学生の身分だ。
知っているようで、知っていないところなんて、その大部分だろう。
――それは、野球部のみんなについても同じ事だろうか。
そんな拡大解釈をして見てから、現在を省みる。
(そういえば、和癒は、こんなところで一体何をしているんだろうか?)
両親は、何かあるといつも行っている、と、言っていたが。
(……膝抱えて座ってたりしないよな)
――まさかな。
あの和癒が、そんな典型的ネガティブみたいなこと。
そんなことを考えながらもゆっくりと歩みを進める。
……その時だった。
行き交う人の中。
芝なのだろうか、切りそろえられた草が続く、20m×50mほどの歩道脇のスペース。
別に入ってはいけないスペースでもなく、端ではカップルが座り込んでダベっていたり、家族連れがブルーシートを敷いて弁当を食べていたりする。
そんな中に、猛ダッシュしている影を見つける。
いつも、とは言わないまでも、良くある光景なのか、言い咎める人もなければ、奇異の視線もないようだ。
25m程の間隔に置かれた巾着のようなものと、丸めたタオル。
その間を、シャトルランのように、行ったり、来たり。
――かなりのスピードだ。
ちゃんとした運動用のトラックでない事を加味すれば、相当だ。
ただ、その表情は、がむしゃらを通り越して、鬼気迫るものを感じた。
……オレは、ゆっくりとそちらに歩み寄る。
「……はぁ、はぁっ――」
「――お疲れ、和癒」
「えっ……――」
ちょうど、体力の切れを感じたのか、膝を支えにうなだれる。
そんな彼女に、声を掛ける。
夏の気温と運動の熱で上気したその瞳が、すぐに戸惑いに変わる。
「コーチ……――」
「いつも、ここで走り込みしてるのか?」
「うん…… 走ってると、いやなこと、忘れられるから――」
「……そうか」
“いやなこと”、か――。
いつもの“元気いっぱいの和癒”を見ていると、今の彼女は別の人物のようだ。
オレがその場に腰掛けるのをみて、彼女も一時中断して、それに倣う。
立心堂 和癒(リッシンドウ ワユ)―― 至宝学園女子野球部 一年 センター。
チームの中でも殊更足が速く、元気で、ムードメーカー的な存在だ。
「それで…… ボクに、何か用―― かな」
「ちょっと、全員と個人的に話をな」
相変わらず、節目がちな和癒は、オレが目をやるとすぐに深く沈んでしまった。
気づかない振りで、オレは話を続ける。
「合宿の話とか、オレが辞めた後の話――」
「――コーチ」
「……なんだ?」
「ボク…… どうすればいいか、わからない」
「どうすればって――」
――心当たりはある。
あの、球場での、晴らした泣き顔と、上擦った言葉が、不意にフラッシュバックする。
「……あれは、お前のせいじゃないよ」
「じゃあ、誰の――!?
だって、ボクが、捕っていれば、至宝女子は、負けなかったよ!?
ボクが、後…… ほんの少し速ければ―― あれは、捕れたんだ!
そしたら、まだ―― 試合、出来たんだ……。
コーチにも、しずさんにも、あいっちにも―― 部長先輩にも、悪くって…… なんて、言っていいか、わかんないよ……」
「國陽の四番の、ホームラン性の当たりだ。
フェンス直撃の打球。
――プロでも、そうは捕れない」
「……でもっ!」
実際、長打警戒シフトの中翼の一番深いところ―― そのフェンスぎりぎりのところだ。
狭い市民球場とは言え、GG賞を取るような選手でも捕るのは容易なことではないだろう。
それでも、なまじ追いつきかけた―― 触れかけただけに、その悔しさは、言い知れぬものだだろう。
しかも、それが決勝点になったのだ。
結果論とはいえ、“彼女ら”には、その責任を負わせてしまった。
「ボク、もう、辞めた方がいいかな……」
「――どうして、そんなことを言うんだ?」
「だって―― ボクが、台無しにしたんだ……。
コーチの、最後の大会を―― 先輩の、念願の晴れ舞台を……!」
「……だから、辞めるって?」
「……」
オレのその問いに、小さく頷き返す。
その瞳は、相変わらず俯いたままだった。
彼女がどれだけ悩み、そんな結論にたどり着いたのか―― オレにはわからなかった。
だけど―― そんなオレにも、一つだけ、言えることがあった。
「……そんなの、お前の―― 和癒の、本心じゃないだろ?」
「えっ……?」
「お前はさ、さっき言ったよ。
“どうすればいいかわからない”って。
それで、どうすればいいかわからないあまり、疑心暗鬼になってるだけだ」
「……」
「お前は、負けたからって、野球を嫌いになったわけじゃない。
だったら、こんなところで走り込みなんてしてないはずだ。
今頃、部屋にでも引きこもって、膝を抱えてるはずさ」
「……うん」
「和癒は、わかってるんだよ。
頭じゃない部分で、どうすればいいかって。
だから、ちょっとでも速くなろうって―― こんなところで、一人特訓してたんだ」
「……」
オレの言葉に、口を真一文字に塞ぐ。
その瞳は遠く、近く、流れる水面を見つめていた。
「和癒が一番恐れてるのは、失敗したと思っている自分を、他のみんなが受け入れてくれるかどうか、だ。
璃音も、閑も、藍も―― 他のみんなも、絶対に許してくれる。
ただ―― それを、自分が心から信じられるかどうか、だ」
「――うん、そう…… かも、しれない」
「なら―― いつも通り、力一杯謝って、いつも通り、頑張って見ればいいんじゃないか?
グチグチ悩んでるなんて、お前らしくない。
――お前らは、至宝女子…… チームメイトだろ」
「……だ、よね。
そう―― だよね。
うん、そうだよね!」
オレの精一杯の言葉は、和癒に通じたのか。
ぱっと、花が咲いたように、彼女の表情に色が戻る。
やっとのことで、いつものような笑顔を取り戻していく。
「コーチ、ありがとうございますっ!」
「大げさだな。
別に、そんな大したことは言ってないぞ」
「いいえ、世話になったら、ちゃんとお礼を言いなさいって、おじいちゃんに言われてるから!」
「そーか」
和癒の祖父と言うと―― たしか、寺の住職だったか。
あの火の方だったはずだが。
幼少期に何年かそちらで暮らしていた、という話だっけ。
礼節に関しては、その時に祖父から叩き込まれていると聞いている。
「それで―― コーチは、何の話だっけ?」
「あぁ、えーっと。
とりあえず、合宿の確認とか」
「あ、知ってるよ!
なっちゃんのお家の旅館だよね!」
「あぁ、そう。
悪いって一度は断ったんだけど、場所柄も施設柄も良くてさぁ……。
主に野球部とかの合宿客がメインらしいけど、8月も後半で客は少ないらしいし―― じゃあ、ってお願いしたんだ」
「へぇ~…… よくわかんないけどっ。
じゃあ、おじいちゃんの家にも寄ったり出来るかな?」
「え?
お爺ちゃんって……」
母親の方は代々、和菓子屋を営んでいる家系で、今も同居のはずだ。
ってことは……。
「え、寺?」
「そうだよ?
琴屋一心寺っていうんだ。
ナッちゃんの家の、すぐ近くだよ」
「へ、へぇ~……」
そういえば、小夏を至宝学園に誘ったのは、和癒だと言っていた。
なるほど、そういう縁なのだろうか。
「それならいっそ、全員で押し掛けるか?
お祖父さんが迷惑でなければ、座禅とか体験させてやりたいな」
「おぉ、良い!
とても良いと思うよ、コーチ!」
「――そこまでか?
じゃあ、もし間が合うようだったら聞いてみてくれ。
無理でも、まぁ、自由時間はいくらか作るつもりだから、近くなら寄ってみればいいんじゃないか」
「はーい!」
とんとん拍子に話が進む。
野球だけの合宿に、一つ変わり種を仕込めるなら、それは有り難いことだ。
そういえば、と、先ほどの両親とのやりとりを思い出して、紙袋を手渡す。
……さすがは親子、と言ったようで、全く想定通りの会話が繰り広げられたのだが。
もう今更にそれを拒むつもりもなく、適当に食べる分だけを受け取って、残りは有り難く受け取っておくことにした。
――さて、これで、“第一の話”は終わったわけで。
彼女は一年だし、部の役割を押しつけるのは酷だ。
そして、先ほどまで悲観に暮れていた少女に、“宿題”の提出を求める気もなかった。
と、すると―― 残りの話は、一つだけなのだが。
散々っぱら迷ったものの、それでも話の枕詞には苦労する。
璃音と約束したこととはいえ、そう宣言すること自体、彼女らを意識する、と言うようなものだ。
「――話って、それだけ?」
「いや…… えーと、部長に、ちょっと、言われてな」
「部長―― アッキャマン先輩に?
何なに??」
「――何というか…… 和癒は、オレのことどう思う?」
「どう?」
オレの突然の問いに、丸い大きな目をくるりと回した。
――そりゃ、まぁ、そうだろう。
意識していない異性に突然そんなことを聞かれれば、な。
言ってから、オレは、その台詞の意味を考え直す。
――あれ。
いや―― え?
……いや、ちょっと待て。
今のって―― 間接的に告白したようなものじゃないか……?
「い、いや、違う!
そうじゃないんだ!!」
「??
そうじゃない、って、どう?」
「あぁ、いや……」
小首を傾げて、先ほどまでと同じ瞳で、一度、二度、と瞬きをしてみせる。
か、考えすぎか……。
「えーと、あのな……?
オレは、夏休み―― 合宿で、コーチって職を終える」
「……コーチじゃ、なくなっちゃうんだね」
「あぁ……。
それで、璃音に提案されたんだ。
“一人の男子として、至宝女子のみんなを見てみろ”って」
「うーん―― なるほど?
あんま、よくわからないけど……」
……さすがに、和癒にはそんなつもりはないかな。
そんなつもりもないのに、宣言されても困るのかも知れない。
『まぁ、璃音との約束だしな』
そう、嘯いて、話を続ける。
「ま、簡単に言えば、恋とかしてみろ、ってことらしい」
「恋っていうと―― あれ!
好いた腫れたは江戸の華!
――あれ?」
「何か色々違うな……」
「コーチ、好きな人いるの!?
だれ、誰だれっ!?」
喜色満面でそう問いかける。
その姿は、いつものベースボールに明け暮れる少年のような姿ではなかった。
オレの知らない、“コイバナ”に夢中になる、年頃の少女だ。
オレは、一つ、二つ、頭を掻いてみる。
「いや―― まだ、いない。
見つけろって話だから」
「??
――じゃあ、野球部の誰かを、好きになる?」
「……璃音の願いでは、そうらしいな」
「ふぅ~ん……?」
内容を理解したのか、しないのか。
和癒は、小さな指をトンボでも追うかのように、くるくると回して見せた。
そして、何かを発見したかのように、ピッと、指を鳴らしてみせる。
「――わかった!
じゃあ、ボクも“協力”するよ!」
「……え?」
「何すればいい?
ボク、何すればいいっ!?」
「え、えーと……」
――自分もその範疇なのだが。
やはり、正しくは理解されていなさそうだ。
……まぁ、無理に巻き込もうとするのも良くないか。
「――じゃあ、とりあえず、コーチ以外の呼び方で呼んでくれ」
「……??
コーチを、コーチ以外で呼ぶ?」
「そう。
さっきも言ったけど、九月中にはオレは部活を引退して、コーチ・監督ではなくなる。
なくなったからって、何も関わり合いにならないってほど、薄情なつもりも、無責任なつもりも、ないけど。
璃音の話もあるし、そういうところから、ちゃんとしていこうかと」
「うーん…… そっかぁ……。
じゃあ、何て呼ぶ?
コーチは、えーとー…… 名前、なんだっけ」
「前波慶治」
「 お ー 、 前 波 ー !
――とか?」
「…… そ れ は イ ヤ だ な 」
――色んな意味で。
オレが拒否したのを見て、和癒は、うんうんと、頭を捻っていた。
……別にオレは、先輩とか、さん付けとかでもいいのだが。
とりあえず、その結果を待つことにする。
「あっ、じゃあ!」
「……?」
「センセイっ!」
「――は?」
……コーチから、先生に変わるのか?
微妙にランクアップした感じすらあるけど。
――そういえば、さっき会った両親も同じように呼んでいたな。
一体、何がどうなってそう呼ぶことになっていたのだか。
「いや、主に学校で呼ぶことになるはずなんだけど」
「?
ダメ?」
「……いや、ダメじゃないけど――」
本当の“先生”がいっぱいいる中で、“生徒のオレ”が、“センセイ”と呼ばれるのか……?
「あだ名みたいなものなんでしょ??」
「――まぁ、そうだけど」
「センセイってあだ名の人、昔、クラスにいたよ!
大丈夫、だいじょーぶ!」
「はぁ、そういうもんか――?
……まぁ、和癒がいいなら、別に良いけど」
オレの方の呼び名は…… 今更、ダウングレードすることもないか。
監督と選手という関係上、全員共、名前呼びが基本だった。
いったん白紙化して、名字呼びにしてみてもいいが――……。
そうなると、立心堂?立心堂さん?
……ないわー。
ちゃん付けやあだ名で呼ぶのも殊更に恥ずかしいし。
そんな感じで勝手に結論づける。
「まぁ、じゃあ、用件はそのくらいだ。
次の練習は17日の8時からだからな」
「はーい」
あれこれと話をしてみても、結局コーチの立場での話に戻ってしまうのが、なんとなくむず痒くもある。
立ち上がって、軽くホットパンツの後ろを叩きながら、隣に座った少女を見やる。
――彼女は、何かの想いの隠った瞳で、また、流れる川面を見つめていた。
「コーチ…… じゃなかった、センセイ」
「ん?
なんだ?」
「――センセイの願い、叶うといいね」
「えっ――?」
ぽそりと呟くと、そのままそっぽを向いて跳ね起きる。
こちらには、もう瞳もくれなかった。
「よーし、休憩終わり!
走るぞーっ!!」
「……ほどほどにな」
誤魔化すようにクイックスタートを決めた少女を、ただ、送り出すことしかできなかった。
――そうだな。
オレは、オレに出来ることをしよう。
そして、オレはまた歩き出す……。
――……。
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