第26話 新のリベンジ戦! 失格覚悟のバック!
どこに行く訳でもなく、新はただ一人になろうとしていた。
初乃と顔を合わせられそうもなく、観客席にも戻れない新は、人の少ないところを探して廊下のベンチソファに座り込む。
そして手で顔を押さえ込み、流れそうになる涙を堪えた。
河本と勝負をするということは至らない結果にもなりうるとわかっていたはずだった。
それでもやはり現実のものとなると、堪えられそうにないほどの想いが胸を襲ってくる。
自分は龍馬と喧嘩した時から変わったと思っていた。
しかし今はこの悔しさを噛み締めるだけで精一杯になっている。
結局何もできず自分さえも変われなかったのだろうか。
そう思うと新はまた更に強い悔しさが込み上げ頬を伝っていった。
「新」
不意に声がして、新は涙を拭って確かめる。
すると目の前には、まだ出番があるはずの勝平が立っていた。
背泳の種目に出るはずなのにどうしてこの場にいるかわからず、新は動揺する。
訳もわからない新に勝平は言葉を続けた。
「まだ試合に出る気力は残ってるか?」
勝平に言われても、新は最初どういうつもりなのか全く見当もつかなかった。
しかし勝平の表情はどこまでも真剣で、冗談を言っていないということだけははっきりしていた。
自由形の試合を終えた河本はプールサイドで体を休めながら次の出番を待っていた。
河本にはまだ背泳の試合が残っていて、それまでに呼吸を整え、準備を整えなければならない。
再び試合への闘志を燃やさなければならなかった。
しかし、河本の表情はずっと曇ったままで、どこか迷いを感じさせるような目をしていた。
普段のような、自由形の試合に挑む前のような勇ましさを、目に宿せていなかったのである。
「間違いない、新との勝負が後を引いている」
河本は誰の耳に届かないような声でひとりごちる。
闘志の戻らない目を更に細めて、河本は背泳の試合へと向かっていった。
電光掲示板を見て、河本は背泳の試合にも歌島の選手がいることを知った。
それでも河本の目に鮮明な光が戻らず、機械的にプールの中へ入ってスタート位置に付いた。
「先輩、今度は負けません」
不意に聞くはずのない者の声がして、河本は驚きながら振り向く。
するとそこには先程敗れたばかりの新が隣のレーンのスタート位置に付いていた。
「新?! 歌島は別の選手が出るはずだぞ?」
「勝平に代わってもらいました。これでもう一度勝負できます」
「無茶苦茶だ、失格になるぞ!」
「失格になるとわかってても、先輩に勝ちたいんです」
河本の忠告も空しく、スタートのカウントが始まる。
新はグリップを握り、河本も仕方なくスタートに備える。
合図が鳴り響き、背泳の試合が始まった。
龍馬と勝平はそれをプールサイドから見ていた。
新や河本などの選手が飛び出したのを見て、龍馬は出場するはずだった勝平に尋ねる。
「よかったのか?」
勝平は苦し紛れでも笑いながら答える。
「いいんだよ。実は調子悪くて自信なかったんだ」
龍馬ははにかむ。
二人は目の前の試合を見届ける。
選手たちが水面に出ると、水しぶきを激しく上げながら泳ぎだす。
仰向けのまま前方の片腕を水中へ沈ませ、肩まで使って抉るようにして後方へ水を掻きだして水の外へ出る。
青空に向かって伸ばすと前方に戻り、また片腕で水中を掻き出していく。
しなやかなバタ足と一緒に腕が交互に水を後方へ流していき、新はプールを駆けていく。
肩を使うことで体の軸が振れてしまいそうだったが、頭の先から足の間まで真っ直ぐ進行方向を向いており、視界が前を捉えなくても左右に振れなかった。
その泳ぎは新にも手応えとなって伝わっていた。
手足が水を掴む感覚。
体が水を掻き分け波が流れていく感覚。
それらが手応えとなって、速く泳げていることを実感した。
しかし隣のレーンを見ると、河本はまだ自分よりも先を泳いでいた。
大きな差はできていないが、コンマ何秒かほど速く泳いでいる。
やはり河本も速い。
河本の得意種目クロールほどではないと踏んでいたが、このままだと河本に勝てるかどうかわからなくなった。
それでも新はどうしても河本に勝ちたかった。
記録にはどう残されようとも、この大会で河本に勝ってみせたかった。
どのような結果になろうとも河本に自分の意地を見せたかった。
前半が終わって新たちは後半に向けてターンする。
水中をバサロキックで突き進み、それぞれの選手が水面へ出た。
河本も10メートルほど水中を泳いで水面へ出たのだが、一人だけなかなか出ない者がいた。
河本は隣を見ても新の姿がないので、泳ぎながらも眉間をひそめた。
しかしすぐに新のバサロ泳法に気付いて瞠目する。
新は以前初乃と競泳していた時に使ったバサロ泳法を河本に見せたのだ。
新は水中で必死にバサロキックしていた。
息の続く限り潜水したまま泳ぎ続けていた。
体の負担は背泳よりずっと大きい。
それでも新は規定の15メートルを越え、以前泳いだ17メートルも越え、20メートル近くも泳ぐと、ようやく水面に上がって大きく呼吸した。
息が絶え絶えになってしまったがどうにか河本の前へ出ることができたのである。
しかし、前半体力を使った後の潜水は新には負荷が大きすぎた。
これからスパートを掛けるにはスタミナが持たなくなってしまったが、その背後には河本が迫る。
優位に立つことはできていても、今度は体力で追い詰められていた。
負けられない新は荒々しく呼吸しながら今の自分にできる限りのスパートを掛ける。
必死に背泳しながら河本から逃げ始めた。
「新くん、いけえー!」
泳いでいるうちにそんな声が新の耳に届いた。
観客席の誰かが自分に向けて声を荒げている。
泳ぎながら観客席に視界を移すと、初乃がフェンスから乗り出さんばかりに応援してくれているのだ。
その瞬間、新は思い出す。
背泳は応援してくれる人の姿が見えるから好きだと初乃が教えてくれたことを。
初乃が話してくれたことを実感しながら、新は最後の力を振り絞り、プールの壁を叩いてゴールした。
「やった……新が先にゴールした……!」
プールサイドで待っていた龍馬が高揚した声で言う。
ゴールして間もない新はそれを聞いてもまだ信じられない。
失格になるとわかっていても、どちらが速かったのか知りたい。
全員が泳ぎ切って、遅れながら掲示板に結果が出ると、歌島高校の順位は河本よりも上へ表示されていた。
新は河本よりも先にゴールして、一位となっていたのである。
「やった……やっと河本先輩に勝てたんだ!」
ようやく信じることができた新がそう言うと、龍馬たちも電光掲示板を見て声を上げた。
「よっしゃああ、新の勝ちだー!」
「まさか本当に先輩に勝っちまうとは!」
「新のやつ、遂にやっちまいやがった!」
龍馬たちが人目も気にせず声を上げ、屈託もなくそれぞれガッツポーズする。
新がプールから上がってもそれは収まらず、新の肩を叩いたり、頭を乱暴に撫でたり、担いで振り回したりして互いに勝利を喜び合っていた。
新だけでなく歌島水泳部全員が同じ気持ちで歓喜していたのである。
それを河本も横から見ていたが、やがてその龍馬たちに声を掛けた。
文句を言われるかと思いきや、その口元には笑みが浮かんでいる。
「……わからないのは新だけではなかったな。歌島は不思議なやつばっかりだ」
新もまた河本と同じように口元を緩めながら言う。
「でも大切な仲間です」
河本は納得して頷く。
「今のお前を見てるとその大切さもわかる気がするよ」
河本にそう言われて、新はようやくわかりえたような気がしてまた笑った。
河本は続ける。
「言いたいことはたくさんあるが、お前の背泳は悪くなかった。またいつか勝負してくれ」
河本が片手を出して握手を求める。
「今度はもっと上手くなって先輩に挑みます。だから先輩も練習しておいてください」
そう言って新は河本と握手を交わす。
新の生意気な言葉に笑いつつも河本は強く手を握り締め、二人はまたいつか競泳することを誓った。
そしてまた新は龍馬たちに担がれ、歌島水泳部と喜び合い始めた。
肩を叩き叩かれ、振り回されて、しばらく仲間と喜びを共有し合っていた。
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