第23話 反則バサロと反則キス
水着に着替えた二人はプールサイドに並んだ。
未だ迷いが解けない初乃に新が声を掛ける。
「初乃さんの得意種目の背泳100メートルならハンデもなくて公平のはずだ。いいよね?」
初乃は黙って頷く。
二人はプールに入ってスターティンググリップを握った。
「時計が12になったらスタートだ」
新が競泳用の時計を指差す。初乃は一度だけ「うん」と答えた。
そして数秒の緊張感が流れた後、新たちは同時にバックスタートした。
水を掻き分けて体が水中に潜り込むと、新たちは背中と両足をしならせキックする。
水中で泳ぐ距離はどんどん伸びていって、新は12メートル、初乃は14メートルまでバサロキックした。
背泳が専門種目である初乃に分があるものの、新はあまり離されずについていく。
しかし、やはりこれまで努力を続けてきた初乃は速い。
スランプと聞いていたのにそれが嘘のように速くて、新はついていくだけで精一杯だった。
このままでは勝利は見込めない。
どうにかしなければ初乃に離されていく一方で、負けてしまう。
そう思った新は、以前勝平が「バサロキックは普通に泳ぐより速い」と言っていたことを思い出した。
あの時はただの冗談だったが、初乃に追い付く為にはあの冗談を現実のものにするしかなかった。
後で初乃さんに何を言われるかわからなかったが、新は反則する覚悟で初乃に迫ることを決める。
二人は50メートルの壁に近付いてきたところでターンし、再び水中を泳いだ。
先程と同様キックを繰り返して距離を伸ばしていく。
10メートル、11メートル……と二人は水中を泳いでいく。
初乃は14メートルで水面に出た。
ところが新は上がらない。
15メートルを超えても上がらない。
ルール上限より二メートル長い17メートルのところでようやく水面に出ると、新は初乃を抜かして頭二つ分の距離を作っていた。
新は初乃と目が合ったように思えた。
泳いでいて、ゴーグルをしているので確かではなかったが、反則だと訴えているような気がした。
それでも新は先を行く。
追い越されないように、持てる全ての力で泳いでいく。
しかし新の反則で火が点いたのか、初乃も一気にペースを上げた。
元々新は初乃にストロークで負けていたというのに、それ以上のペースで泳がれて、離した距離がどんどん狭まっていた。
新も焦りながらスパートを掛ける。
互いに全力で泳ぎ、プールサイドの壁が狭まってきた。
そして二人は同時に壁へ手を付いた。
本当にぴったり同着で、顔を上げるタイミングまで一緒だった。
もしも公式の試合だったならビデオ判定になっているかもしれないほど拮抗した試合だった。
それから二人はしばらく荒れた呼吸を整えながら目を合わせていた。
新は口元を緩ませながら初乃を見ているが、初乃は眉を釣り上げて新を睨んでいる。
無理もない。
新は反則したのだから睨まれても仕方がなかった。
新は初乃に睨まれて気まずさを感じていたが、茶化して言う。
「引き分けかあ、いい勝負だったなあ」
「冗談でしょ!」
初乃はレーンを越えて恐ろしい剣幕で新のところにやってくる。
「反則したのちゃんと見てたからね! 15メートル以上潜水してたのわかってるからね!」
「あっはっはっは。そうだね、確かに僕は反則したから初乃さんが勝ちだよ。初乃さんが速くて、こうでもしないと追いつけないと思ったんだよ」
「だからって反則は卑怯でしょ!」
気が付けば新は笑っていた。
試合するまで暗い表情だった初乃が生き生きと抗議しているのが面白かった。
ようやく初乃と以前のように話せたのが嬉しかったのだ。
そして新は改めて、自分には初乃が必要だったことを理解する。
今は喧嘩しているようでも、こうして壁を感じずに話をできるのが自分の幸福だった。
初乃のために泳ぎ、生きていくのが自分の幸せだとはっきりとわかったのだ。
新は改めてそう考えると途端に初乃への愛しさが溢れ返った。
こんなにも日常が愛しいもので、初乃が掛け替えのない人だと実感すると、想いを伝えずにはいられなくなったのだ。
「初乃さん、好きだよ」
初乃にとって唐突だったかもしれないが、新は素直に告白した。
「こんな時にそんな事言わないで」
初乃はそう不満を漏らしていたが、満更でもなさそうに照れている。
その初乃を新は抱き締める。
恥ずかしそうに照れている初乃をじっと見詰め、それから軽く口付けする。
すると、初乃にもようやく気持ちが伝わったのか、その表情にも笑みが戻った。
やっとのことで、離れ離れになる以前までの二人に戻れたのだ。
「大会まで残り一日しかない」
初乃との時間を微睡むと、新は言った。
「それでも諦めずに練習して、大会で河本先輩に挑むよ」
初乃もプールの中で新に抱き返す。
「私も明日一日練習して、良い成績を出せるように頑張るね」
「僕も初乃さんのために練習する。一緒に頑張ろう」
初乃は目に溜めた涙を拭いながら「うん」と答えた。
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