第21話 親友の拳

翌日の部活は参加した新だったが、大会が明後日にまで迫っていた。


やはりまだ水泳の本調子を取り戻せておらず、その解決策も見出せていない。


時間が経てば解決できる類の問題でなく、やはりこれ以上の練習も無意味に思えて仕方ない。


焦燥感に満ちていた新の心も、今は諦めの境地にまで陥っていた。


「新、昨日の部活は休んでたが、大丈夫だったか?」



部活に来た新を見て、龍馬が話し掛けてきた。


新はほとんど表情を変えずに答える。


「体を休めて気分転換できれば何か変わるかなって思ってたんだ。でもやっぱり何も変わらない。練習すればするほどフォームが崩れていってタイムも落ちる。どうやっても今の状況を脱出できないよ」


「そうか。でもこのまま何もしないのはだめだと思う。練習じゃなくてもいいから、今の新にためになることを見つけた方がいい」


龍馬の言葉は頼もしく、先の見えない道を照らして自分のすべきことをいつも教えてくれる。


しかし新は具体的に何をすればいいのかわからないままだった。


正しいことを言ってくれているとわかっていても、それが何かまったく思い付かない。

迷うばかりで龍馬の言っていることも途方もないように思ってしまう。


「一人だけじゃ手が足りないんだったら俺も力になるから、頑張ってスランプを脱出してくれ」


龍馬の好意は本当に有り難かった。


部活を休んでしまったことを怒らず気遣ってくれているのも嬉しかった。


しかし今の新にとってはそれが大きなプレッシャーになっていて、心を締め付けてしまっている。


難題に押し潰されていた新は、目の前のことから逃れて楽になりたいと願うようになってしまっていたのである。


「……どうしても調子が戻らなかったら、僕はもう諦めてしまってもいいかな」


新が心の内を話し始めてしまう。新の返答を予想していなかった龍馬の表情に、大きな動揺が浮かぶ。


「諦めるってことは競泳をやめるってことだぞ。本当に諦めてもいいのか?」


「やめたくないけど、どうしてもできないならそれも仕方ないよ。龍馬の言う通り、どうしたら調子が戻るかずっと考え続けてるけど何にも思いつかないんだよ」


新が胸の苦しみを訴えても、龍馬は認められない。


これまで部活も秘密合宿も一緒に頑張ってきて、新の努力を見続けてきている龍馬は、それがただの泡となって消えてしまうのを黙って見過ごせなかった。


「大会のために頑張ってきたって言うのに、目の前にして何もかも放り出すのか? 大会で河本先輩にリベンジして、初乃ちゃんにいいところ見せようとしてたのに、そんな簡単に諦めるのか?」


「簡単に諦めたいだなんて言ってない。これまで何度だって速く泳ごうとしたよ。でも無理なんだ。初乃さんとあんな別れ方したまま離れ離れだなんて、僕には堪えられそうにないんだ」


言葉にして龍馬に伝えていると、新の心は再び無力感に包まれ始めた。


同時に悲しみに襲われて目頭が熱くなる。


龍馬に向かって懺悔しているようで、胸の内で感情が騒ぎ始める。


龍馬はその訴えに答える。


「だからもう諦めるのか? 競泳も初乃ちゃんも諦めて何も得られないまま生きてくのか? 後悔を残したまま惨めに生きていくって言うのか?」


龍馬の質問の勢いは加速していく。


声も荒くなっていって、まるで新を糾弾するように問いをぶつける。


その問い詰めによって新の心もどんどん熱くなり、目に涙が滲んでいく。


自分の力だけではどうにもならない悔しさや、初乃と志摩崎高校で別れた時の悲しさを思い出し、気付けば声まで震え始めていた。


「仕方ないだろう。僕の力じゃ初乃さんとまた練習できるようになんてできないし、河本先輩を説得できない。僕は初乃さんの力にもなれなかったし、競泳だって満足に泳げないんだよ」


新がそう言い放った次の瞬間、新の視界が一瞬大きく歪んだ。


頬に衝撃が走って、新はその勢いのままプールサイドに倒れる。


痛みがじんじんと広がってきて、ようやく新は龍馬に殴られたことを理解する。


頬を擦りながら龍馬が拳を握り締めているのを呆然と眺めた。



龍馬はさらに声を荒げた。


「思うようにいかないからって卑屈になってんじゃねえ! 上手くいかない事は誰にでもあるんだよ。自分だけ世界の不幸背負ってますみたいな甘ったれた考えはやめるんだ」


新は呆然と龍馬の話を聞く。


「今まで新は逆境に抗って練習し続けてたから黙って見てたし、力にもなろうと思ってたけど、諦めようとしてるお前を黙って見ていたくはねえんだよ。どうして競泳を辞めちまうとか言い出したんだよ」


龍馬の荒っぽい声が辺りに響き渡る。


聞いているのは新だけでない。


宗も勝平も水泳部員も、騒ぎに気付いて注目している。



そんな中で新は頬の痛みにも構わず聞いていたが、龍馬の話は一方的のように思えて納得できなかった。


やりきれない気持ちが段々と怒りに変わっていき、新はゆっくりと立ち上がる。


涙が溢れそうになるのを堪えながら拳を強く握り締めた。


そして龍馬にやり返さんばかりに拳をぶつける。


「龍馬に何がわかるって言うんだよ!」


龍馬は痛みに顔を歪めるが、新のように倒れず更に目尻を釣り上げる。


また龍馬は再び僕を殴って怒鳴る。


「わからないから黙っとけって言うのかよ!」


新もまた龍馬を殴る。


「無茶苦茶なことを言うなって言ってるんだ!」


互いに殴り殴られ、言いたい事をぶつけ合う。


それは誰がどう見ても喧嘩だったが、二人にとってはそれだけの意味には収まらない。


新はまるで駄々をこねる子供。


龍馬はまるでなす術をなくした犬。


どちらも決してらしくない姿をあらわにしていて、宗や勝平に止められても止めなかった。



それもやがて時間が経ってくると、二人は疲れてきたのか、ただの取っ組み合いへとなり果てた。


皮膚を引っ掻いたり髪を掴んだり無様に暴れて、仕舞いには宗や勝平たちも巻き込んでプールの中へと転げ落ちた。


大きな水しぶきがあがる水面。


落ちる音と共に水面が大きく揺れ、静かになるプール。


息が切れた新たちは呼吸を整えながら水面に浮かんだ。



本当に無様で馬鹿みたいだなと、ふと新の心に浮かんだ。


龍馬と殴り合ったって何にもなりはしないし、得られるものだってきっとない。


以前の泳ぎができるようになれる訳でも初乃と仲直りできる訳でもない。


それなのにどうしてここまでみっともない喧嘩をしてしまったのか、新自身もわからない。


それどころか今まで初乃の事を悩んでいた事さえ阿呆らしいと思うようになった。


「いてえな……」


龍馬は隣で呟いた。


「僕だって痛いから」と新は答える。


互いに殴りあった二人は顔に痣はできていたし、背中や腹も引っ掻かれた痕が残っている。


痛いのは当然だった。



しかし、不意に龍馬がふっと噴き出した。


「なんか俺たち馬鹿みたいだな……」


龍馬も自分と同じようなことを考えていたのかもしれない。


そう思うと新もまた噴きだして笑った。


自然と笑みが溢れ、段々とその笑いは大きくなっていく。


宗と勝平がそれを見て呆れ返った。


「なんだお前ら、遂に可笑しくなっちまったのか?」


「馬鹿みたいなのは俺たちだよ。二人の喧嘩に振り回されただけじゃないか」


笑いながら龍馬は「悪い」と謝る。


宗は二人の心情に共感できないようで、ただ呆然と立っている。


勝平も訳がわからず、開いた口が塞がらないままでいた。



お互いを揶揄した笑いが収まると、龍馬はプールで仰向けになりながら言った。


「新、今から志摩崎に行ってきたらどうだ? 初乃ちゃんと会って、河本先輩とも話をしてこい。俺に殴りかかる気持ちがあればできるはずだ」


新は「そうする」と答える。


今ならあの日否定できなかった初乃の追求に、はっきりと答えることができる。


以前は会いたくなかった河本にも、今は会って話をしてみたいと思える。


河本とは会って何を話すのか、はっきりとはわからない。


それでも今必要なのは休みでも練習でもなく、河本との話だということはわかっていた。


「この前のことはちゃんと謝って、それから素直にお前の気持ちを伝えるんだ。そうすれば河本先輩もきっとわかってくれる」


新は龍馬に「わかった」と答える。


そしてプールから上がって更衣室へ向かう。


河本との話を付けに、初乃に会う為に、新は制服に着替えて準備を始めた。



もう龍馬と話す前までの鬱屈とした気分はなくなっていた。


河本と会ってどうなるかと不安はあるのだが、それよりも今は河本との決着を付けたいと思っている。



龍馬に気持ちをぶつけたことで自分の中で何かが変わったのかもしれない。


新は漠然とそう考える。


ただ殴り殴られて怪我を負っただけだと思っていたが、先程の取っ組み合いは無駄ではなかったのかもしれなかった。

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