第四章

第19話 夜の逢瀬、すれ違う二人

一日が過ぎて、新たちは龍馬の情報通り歌島のプールでの部活に有り付けていた。


久しぶりに自分たちの学校で泳ぐことができて、龍馬たちは羽を広げて体を動かせる。


志摩崎での合宿でプールを五人だけで使うことができたが、龍馬たちにとってはやはりホームで泳いだ方が自由らしい。


新も自分たちの居場所に帰ってきた感覚はあって落ち着いてはいる。


それなのに胸にある苦しみが安らぐことはなく、まるで何かに急かされているかのような感覚に襲われ続けていた。


「ねえ龍馬」


休憩中、五人がベンチで集まっていると、宗が言った。


「あの河本って先輩……俺たちを追い出しはしたけど、通報はしなかったね」


「でもたぶん、好意で見逃してくれた訳じゃなくて、初乃ちゃんも加担してたから大きな騒ぎにしたくなかったからだと思う。あの時初乃ちゃんが庇ってくれなかったら、きっとすぐに通報されてただろうな」


「こうしてプールで泳げるのも初乃ちゃんのおかげか。……なんだか変な気分だな。今頃歌島にも騒ぎが伝わって、下手したら退学処分にもなってたかもしれないのに」


いつも他人事な宗も今回のことで初乃に感謝しているようで、珍しくしおらしい表情をしている。


「だけど先輩はきっと志摩崎の部員ってだけじゃ初乃ちゃんの弁解も聞かなかったはずだ。誰でもない初乃ちゃんだからこそ、事件を大きくしないでもらえたんだ。きっとあの先輩も初乃ちゃんのこと……」


そこまで言って龍馬は言葉を止める。


宗も勝平も新に遠慮して、それ以上のことは何も言わなかった。


「で、でも先輩の気持ちがどうであれ、初乃ちゃんの気持ちは新にあるんだろう? 心配することないって」


「それにこの後、初乃ちゃんと会う約束してるんだろう? 気にしなくていいはずだ」


三人は新を気遣いながら肩を叩く。


心配していて暗くなっていた新は黙って三人の激励を受けていた。



しかし新はその練習にさえ集中できなくなっていた。


龍馬にアドバイスしてもらったにも関わらず心の迷いが解けないままで焦燥感に襲われ続けている。


クロールと背泳のどちらも身に入らず、合宿の時のように練習できない。


無理して泳ぎ続けていてもフォームのことが意識できず、初乃のことばかり考えてしまっている。


以前まで整っていた泳ぎも崩れていき、練習を続ければ続けるほど、悪い癖ができていってしまう。


挙句の果てには体に力も入らなくなり、ペースもどんどん落ちていった。



集中できないまま練習が終わってしまい、新はプールを出た。


久しぶりに歌島で泳げたというのに、落ち込んだままで全く気分が上がらない。


それどころか練習に集中できない自分を責めてしまう。


練習を頑張って初乃に情けない姿を見せないようにしなければならない。


それなのに練習さえもこなせなくなってしまった自分が詰まらなくなってしまったのだ。



これ以上練習を続けても意味がない。


泳ぐ度に悪い癖も付いてしまうのであれば、むしろ泳ぐべきでないと考え始めてしまう。


河本というライバルへの目標から遠ざかってしまうことの焦りも大きくなっていくのに、何も対処できない辛さもあった。


初乃と離れ離れになった悲しみで痛んでいる心に、その自分自身へのネガティブな感情が追い打ちを掛けてきていたのだ。



その感情も初乃と会えば晴れるのだろうと新は考えていた。


離れ離れになった寂しさで集中できないだけで、今日の部活に身が入らなくても再会できれば水泳に集中できると信じていた。




初乃と連絡を取って、部活が終わってから新は志摩崎へと向かった。


河本と鉢合わせてしまうかもしれなかったが、そうなったとしても初乃の私用にまで河本が注意できる道理はない。


会いたくはないが恐れることはないと言い聞かせて目的地へ向かった。



すっかり暗くなった公園で待ち合わせて初乃と再会する。


誰もいない場所に一人初乃が待っているのを見て、新はお互いに駆け寄る。


周囲のことも忘れて、まるで互いのことしか見えていないかのように抱き合った。


「会えてよかった。もう会えないかと思った」


「私も新くんがどうしてるかわからなくて不安だったよ」


会えなかったのは一日だけだったが、それでも河本の一件があって二人の不安は堪え難いほどに募らせていた。


募った不安を吐き出すように、涙まじりに抱き合っていた。



それから公園のベンチに座って、ゆっくりと二人の時間を過ごした。


新たちが河本に追い出されてからの出来事を話し合う。


「初乃さんはあれから河本先輩に何かされなかった? 水泳部を辞めさせられたりしなかった?」


「そんなことないよ。この前みたいに、歌島とは馴れ合うなって注意されたけど、それからはいつも通り。むしろ最近河本先輩とはあまり話さなくなったよ。新くんたちを追い出しはしたけど、そのことも先生に伝えてはいないみたい。やっぱり志摩崎が大会に参加できなくなるかもしれないからかな」


新は「そうだろうね」と答える。


河本が何を考えているか定かじゃなかったが、少なくとも歌島のことを考えてくれているとは思えない。


やはり志摩崎のことを考えてのことだろう。



しかし新は龍馬が話していたように、それだけじゃないと考えていた。


河本は初乃が出場できなくなるのを気にして言えないのだろう。



それでも新は言い出せない。


初乃はただ河本が志摩崎のことを案じていると思っているようだったが、新は話せない。


河本が初乃を想っていると教えることはできなかった。


「新くんたちはあれからどうしてたの? 志摩崎以外の場所で部活できるところ見つけられたの?」


「実は今日から歌島のプールが使えるようになったんだ。やっと自分たちのプールで活動できるようになったんだよ」


「へえ、よかったじゃない。新くんたちが壊しちゃったのがやっと直ったんだ」


「初乃さん、それは言わないで」


初乃がからかうように揚げ足を取ってくるが、その表情が少しだけ歪むのを新は見逃さなかった。


きっと新と同じように、志摩崎のプールを借りる必要さえなくなったことが表情を暗くしているのだろう。



これから初乃と会う機会はかなり減ってしまう。


こうして公園に集まって話をする機会も減ってしまって、心の距離もどんどん遠くなってしまうのだろうか。


そう思うと新は、初乃が側にいるにも関わらず心が辛くなる。


「ねえ、初乃さんは今日の練習どうだった?」


新は唐突に話題を変えて尋ねた。


「今日の練習はやっぱり手がつかなかったよ。新くんがいなくなってから、泳ぐ手足に力が入らなくなったの。こんなに集中できなくなったの初めて。新くんは?」


「僕も練習に集中できなかったんだ。志摩崎で初乃さんがどうしてるか気になって頭から離れなかった。タイムが伸びるどころか悪くなる一方だった」


新は目の前に広がる暗い公園を眺める。


ジャングルジムもブランコも滑り台も今は人気がなくなって影に包まれている。


これからのことを思うと新の心も暗くなってしまいそうだった。


今度の大会だけでない。


こうして会うことはできても初乃とあまり会えなくなると思うと、これからの水泳にさえ影を落としてしそうだった。


「明日からの練習も身が入らなそうだよ」


落ち込む新は言う。


「今日は初乃さんに会えてもその明日からはしばらく会えない。それが邪魔して次の練習も力が入らないと思う。これじゃあ河本先輩に勝つどころか自分自身も保てない。インターハイなんて夢の夢だよ」


「そんなこと言わないで。しばらく会えなくなるのは私も寂しいけど、お互い練習はできるってわかったでしょ?」


「それでもきっと志摩崎で部活してたみたいにはいかないよ。初乃さんがいなくちゃ、僕は前みたいには泳げない」


一度弱音を吐くと、次から次に口から弱音が出てきてしまう。


初乃は俯いている新を黙って見つめている。


その口元は固い。


「……もしかしたら河本先輩が話していたのはこのことだったのかな」


新が思わず口から漏らしてしまった言葉だった。


本気ではないにしろ、心のどこかで思っていたかもしれない。


それが話の流れから不意に口にしてしまったのだ。


「それって、ライバル校同士が馴れ合うべきでないってこと?」


「そう。もしかしたら河本先輩は離れ離れになる辛さがわかってるから僕たちに控えるように言ったのかもしれない。こうして会えていても明日になったらまた部活に集中できないかもしれないんだ」


「本当にそう思ってるの?」


初乃は真っ直ぐに新の顔を見て追求した。


驚いて呆気に取られつつも悲哀に満ちた顔をしている。


否定してほしい。


そう願うかのような表情。



新はたじろぎながらも答える。


「でも初乃さんだって集中できなかったんじゃないの?」


「それは新くんが練習できなくて一緒に大会出れるかわからなかったから。確かに離れ離れになって悲しいけど、新くんに綺麗な泳ぎを見せたいと思えば頑張れる。新くんはそう思わないの? 新くんの水泳にとって私は邪魔なだけなの?」


邪魔、という単語を聞いて新は真に迫る心情に駆られる。


否定しなければいけない。


そう心が急くのだが、新の口から否定の言葉が出てこない。


自分の心情を言い当てられて弁解できない時のように、「邪魔」という言葉を否定できなかった。



それは新の優柔不断さが端を発していたことであった。


河本を否定していたというのに、河本を認めてしまいそうになってしまった。


新の決まりの悪さが露呈して出てしまった結果であった。



新が何か言おうとしつつも口を動かせないのを見て、初乃は目に涙を滲ませる。


「新くんにとって私はそんな存在だったんだね」


新は「違う」と言いたかったが言葉が続かない。


初乃を慰められない。


「それなら確かに私たちの関係は続けるべきじゃない。河本先輩の言うとおりにするべきだよ」


初乃は目から溢れる涙を拭いながらベンチを立ち上がる。


新はようやく「待って」と叫ぶが、既に遅かった。


初乃は悲哀に満ちた表情で告げる。


「さよなら」


新は去っていく初乃を呆然と見ていた。


どうすればよかったのかと必死に頭を巡らせていたが未だわからない。


そして、新の中で一つの疑問が残る。


人と付き合うことがどういうことなのか。


すぐに解決できない疑問に新は途方に暮れ、一人残された公園で悩まされる。


灯りさえも消えてしまいそう暗い公園で新は絶望にも似た想いに駆られるばかりだった。

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