第17話 嵐の夜のざわめき
女子更衣室の間取りは男子のものと変わりなかった。
ベンチを挟んでロッカーが並んでいて、奥には洗面台とシャワー室が見える。
ベンチには初乃が使っているシュラフも置かれていた。
初乃がその上に座ったので新もその隣に座る。
そして先程倉庫から運んできたヒーターを二人の前に置いた。
やはり水着のまま過ごすのは夏でも体は冷えてしまう。
冬に使うために仕舞われていたものらしいが、二人は季節外れにも赤外線の光を手の平を向けた。
「温かいね」
新が初乃に話し掛けたが、初乃は無表情のまま「うん」と答える。
そのまま何も話が膨らまず、沈黙が流れる。
外の嵐の音が轟々と更衣室に響いた。
新は初乃と話して気を紛らわせたかったが、女子更衣室という環境にいるからか、何も話題は浮かばなかった。
気にしないようにしても意識してしまい、くすぐられる感覚に陥って居た堪れない。
険しい表情で目の前のヒーターを凝視しながら口を強く噛み締めていた。
その新の様子に気付いたのか、初乃が吹き出すように笑って言った。
「そんなに緊張するの?」
「いつもは入っちゃいけないところだから仕方ないよ」
「私以外誰も来ないんだから気にしなくていいんだよ?」
「無理だよ。初乃さんだって男子更衣室に入ったら緊張するよ」
「……それは別の意味で緊張するような気がする」
初乃は苦し紛れでも笑って答える。
それでも新は体が固くなったままで、再び黙りこんでしまった。
「ねえ、少し手伝ってほしいことあるんだけど、新くんに頼んでもいい?」
固くなっている新に初乃は言った。
何か頼むのを躊躇っているかのような言い方で、表情もどこか照れている。
何を頼まれるか気になりながらも新は頷く。
「あのね、蚊にいっぱい刺されちゃったから薬塗ってたんだけど、背中側はうまく薬を濡れないの。今日一日気にしないようにしてたけど、どうしても痒くて我慢できないから、新くんに塗ってほしいの」
初乃が顔を赤くしながら新に背中を向けると、確かに虫さされの跡が残っていて、何箇所か丸く膨れ上がっている。
新はどうしてこれほど刺されたのかと疑ったが、思い出せば、合宿初日にこのプール館へ忍び込む時、志摩崎高校に人影がなくなるまでずっと茂みに隠れていた。
宗が蚊が多いと喚いていて、男四人もずっと刺されたところを掻いていた。
初乃も例外ではなく、ずっと痒みを我慢してきたのだろう。
「わかった。それじゃあ横になって」
新が静かに言うと、初乃はチューブ状の塗り薬を渡して言うとおりにする。
シュラフの上にうつ伏せになってもらうと、新はその横に膝を立てて座った。
震える指先に出した塗り薬は、冷たさのある絵の具みたいだった。
躊躇う心を落ち着かせて、新はそれを初乃の滑らかな背中に付ける。
するとそれに反応して初乃の肩が少しだけ揺れたが、新は構わず擦り込んいく。
指で初乃の背中に円を描きながら、薬の白さがなくなるまで塗りこんでいく。
一箇所の虫さされに塗り終えると、すぐ他の箇所に移る。
またチューブから白い薬を取り、初乃の背中に付ける。
指の腹を使ってくるくると円を描き、静かに背中へ薬を塗り込んでいく。
その間は奇妙にも二人に会話はなかった。
初乃はただ塗られているだけで、新も何も言葉を発しない。
初乃も顔を向こうへ向けているので表情さえもわからない。
どんなことを初乃が考えているか気になっても、新には赤くなった耳が見えるだけで何もわからない。
時折初乃が息を震わせるので、それがやけに新の耳に響いた。
「終わったよ」
新が塗り終えて言うと、初乃は笑みを浮かべながら答える。
「新くんも痒いところあるでしょう? 今度は私が塗ってあげる」
初乃の言うとおり蚊に刺されていた新は言われるがままシュラフでうつ伏せになる。
初乃も同じように側に着いた。
「私より多い。そういえば新くんたちは私よりもっと茂みに隠れてたんだっけ?」
新は「うん」としか答えられない。
初乃は薬を取りながら「動かないでね」と言った。
新の背中にひやりとした冷たさが伝わる。
初乃の細い指が撫でるように動き、背中がくすぐったさで焦らされる。
自分がこれほどまで敏感だったことが意外だったが、すぐにくすぐったさの原因が自分でないと気付く。
肌を擦られているのが、誰の手でもなく初乃であるからだった。
初乃に肌を触られているから敏感になってしまっていた。
「ねえ、新くんさっきシャワー浴びたばっかりでしょ。いい匂いがするよ」
初乃に問われても新は上手く答えられなかった。
うつ伏せで顔を隠したまま黙って薬を擦り込まれていく。
「新くんは背中だけじゃなくて胸とかお腹も塗ってないでしょ。塗ってあげるから仰向けになって」
本当なら正面は初乃でなくても自分で薬を塗れる。
しかし初乃に撫でられたことによってあまり正常な判断ができなくなっていたのか、新は言われるまま仰向けになる。
初乃が新の腹に馬乗りになってくるが苦しくない。
むしろ初乃と顔を合わせることが気まずくて、目を逸らしてしまっていた。
薬は胸の箇所から塗られた。
背中同様、指で撫でるように薬を塗り込み始める。
薬の冷たさはもうあまり感じない。
それよりも初乃と触れているところに意識が揺らぎ始めている。
「あれ、これはまだ新しい虫さされだよ。寝ている間に刺されたの?」
新は何も答えずにそのまま目を逸らしている。
初乃が薬を塗り込むのにじっと堪えている。
まるでピアノを弾くような指の感覚に堪えている。
それに構うことなく初乃の触れるところが大きくなっていく、指先だけで塗っていたはずなのにいつの間にか手の平が薬を塗るようになり、新の胸を擦るかのように初乃の手は動いていた。
「ねえ……新くんの心臓が早いけど、どうしたの?」
初乃は楽しそうに笑みを浮かべながら囁くように尋ねる。
悪戯っぽくてからかわれているかのような表情に新は動揺が止まらない。
胸の高鳴りも大きくなるばかりだが、それでもまだ誤魔化そうと言葉を考える。
「気のせいじゃない?」
「本当?」
誤魔化そうとしたのが悪かったのか、初乃が左胸に耳を当てて音を確かめる。
「ほら、やっぱり心臓がすごい音してる」
新が完全に言い訳できなくなり、返す言葉もなくなる。
泳ぎそうになる目で初乃の顔を見ると、目を細めて楽しそうに新の顔を覗き込んでいる。
顔と顔の距離は先程よりずっと近く、もう目も逸らせなくなっていた。
「ねえ、どうしてこんなにドキドキしてるの? 誰にも言わないから私だけに教えて」
「わかった、わかったよ」
新が諦めて観念する。
初乃にここまで詰め寄られてようやくであったが、新は白状することにした。
そうと決めると新は今までになく真っ直ぐな目で初乃の顔を見詰めた。
何も言わずにじっと初乃の紅潮した顔を捉えると、その頬にゆっくりと手を伸ばす。顔を近付けていき、鼻も触れ合わんばかりに交わすと、互いの唇同士を重ね合わせた。
深く顔を重ね合わせ、息を感じるほど長く口を触れ合わせた後、二人はゆっくり口を離す。
交わした顔を遠ざけると、新はこの後に及んでまたも目を逸らしてしまった。
しかし自らの精一杯で気持ちを表した新には悔いはない。
それでも気が付けば初乃が顔を近づけてきていて、今度は目を閉じる暇もなく唇を重ねられた。
鼻同士もぶつからんばかりに重なって、まるで奪われるかのように口を交わされてしまう。
初乃のしたいように口を触れ合わされると、新は心地良さで頭が真っ白になり、意識さえも飛びそうになった。
ようやく初乃が口を離すと、新は息も絶え絶えで半ば放心状態になっていた。
目尻に涙を溜めた空ろな目で、初乃の恍惚とした表情を捉える。
「ねえ、ちゃんと言葉でも聞かせて」
初乃に言われて、今まで隠していたにも関わらず躊躇なく答えてしまう。
「好きだ。初めて見た時からずっと初乃さんが気になってて今は何してても忘れられないくらい好きだ。この合宿中だって、ずっと初乃さんを考えながら泳いでた」
理性も意識と一緒になくなりかけていたのか、新の言葉に一切の淀みはなかった。
本能のままに告白されて満たされた初乃は満面の笑みを浮かべる。
「やっと言ってくれたね」
そう言うと、初乃は新が放心しかけているにも関わらず追い打ちを掛ける。
初乃の責めに応える余裕がなく、堪えるように目を閉じて口元もわなわなと震わせていたが、初乃の責めは口付けだけで留まらなかった。
新はされるがままに初乃の感覚に溺れ、初乃は想うままに新を求め始める。
酔い痴れて意識も飛んでしまうかのような時間を二人は過ごした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます