第16話 台風、襲来。新、女子の領域へ。
水泳の練習は昨日の勢いのまま始めた。
新はクロールではなく再び背泳を練習し、フォームを身に着けていく。
スパートをかけて泳いでも泳ぎの型が崩れないように繰り返し繰り返し練習し、持久走のように連続で長い距離を泳いでいく。
新はこの日で、背泳で力の入れ方抜き方を知り、無駄な力をなくして、どうしたら水を効率的に掴めるかを、体に理解させるつもりだった。
それは簡単にできることではなく、この短時間で身に着けるには難しかったが、背泳の伸び代があった分、新はどんどん自らの泳ぎを理想に近付けていった。
しかし、背泳でなくクロールは新の言っていたように同時にタイムを縮められるようになっているのか、まだわからないままであった。
背泳の練習の合間に何本か、本命のクロールを泳いでタイムを計測していたが、大きな差はない。
それでも新は以前よりクロールの手応えを感じるようになっていた。
クロールは合宿が始まって以来、ウォーミングアップでしか泳いでいなかったが、背泳の練習で肩を柔軟に動かせるようになったことで、肩でのリカバリーに抵抗が減っている。
腕のストロークも効率的になって泳ぎはスムーズになっている。
クロールのタイムに大きな差はないが、以前よりも水を掴める感覚があり、実際にも少しずつ……速くなっていた。
モチベーションが高いままの練習を続けていると休憩することも忘れて、龍馬に言われてようやく部室に戻る次第だった。
「なんか偉い練習してるよなあ」
部室に入るなり宗は言った。
「初めたばっかりだから伸び代があって楽しいんだよ。クロールのタイムも早くなってて、いつもの練習より捗ってる」
「へえ。まさかと思ってたけど、本当にクロールまで速くなるとはなあ」
宗が感心していると、龍馬も会話に入ってくる。
「クロールと背泳って、やっぱり裏と表で違うように見えてもフォームは似てるんだなあ」
龍馬は新ではなく何故か初乃を見ながら言う。
初乃もどういう訳か顔を赤くしているような気がするが新にはどういう訳かわからなかった。
次の日の練習。
それぞれが黙々と泳ぎ、練習の時間が過ぎていく。
新は相変わらず背泳の練習をし、クロールの泳ぎも意識した練習を続ける。
さすがに背泳を練習し始めた時ほどの手応えはなかったが、まだタイムを縮められずに伸び悩んではいない。
まだ早く泳げるようになる余地を感じていた新は、練習へのモチベーションも保ったままであった。
目指すは河本よりも早く泳げるようになることだった。
一度惨敗していたクロールで勝つことが新の一番の目標であったが、河本が背泳の試合に出るのなら背泳でも勝ちたい。
やはり新は以前惨敗した時の悔しさが忘れられず、河本へのリベンジに固執していた。
午後の時間があっという間に過ぎてしまい、夕食の時間になった。
五人が部室に集まって準備を始めようとするが、宗がソファに寝転がる。
「ねえ、休憩してから調理しない? いつもの部活よりも練習時間が長い上に何日も続いてるから疲れっぱなしなんだよ」
「それじゃあ宗の分は少なくていいよな?」
龍馬は初日と同じような言葉で宗を急かす。
宗は渋々起き上がり、五人は夕食の準備に取り掛かった。
しかし今夜の料理はずっと簡単で、カレーを作る時よりも仕事がなかった。
買ってきていた下ごしらえ済みの食材を飯ごうに入れて、電気コンロで茹でてからコンソメで味付けすると、あっという間に料理が完成する。
掛かった時間のほとんどが茹でている時間で、じゃがいもを剥くことぐらいしか仕事はなかった。
てきぱきと夕食の準備を済ませた龍馬たちは部室のテーブルを囲う。
それぞれが手を合わせようしていると、宗が不服そうに言った。
「ねえ龍馬、このメニューでじゃがいもの皮むきが一番大変そうだったんだけど、なんでそれが僕の役なの?」
「気にするな」
「なぜか龍馬よりも働いてて扱き使われた気がするんだけど」
「一番サボりたそうにしてたからだ。その分多めにしてるから気にするな」
同級生の友人だというのに、まるで駄々を捏ねる子供とその父のようだった。
新たちは宗の相変わらずさに苦笑しながら手を合わせる。
この合宿最後の食事を始めた。
「合宿は今日で最後だな。明日は部活が始まる前に起きてここを出ないといけない。寝過ごして誰かに見つかるなんてことないようにしなきゃな」
龍馬が言うと勝平が答える。
「最後か。なんか感慨深いな」
「と言っても、練習ばっかりで思い出になることないけどね」
憎まれ口を叩く宗に勝平は「それでもいいだろ」と目くじらを立てる。
二人の会話も相変わらずで、穏やかでもないのに平和な食事だった。
しかしそんな中、普段とは違うあることに気がついた。
どこからか風の抜けるような音が響いていて、外に生えている木々もざわざわと騒がしい。
新が不審に思っていると龍馬が言った。
「そういえば台風の接近は今夜の予報だったな」
「さっき外見たときはもう空が嫌な色してたよ。結構荒れそうだよ」
話題になって新はようやく台風のことを思い出した。
台風を忘れていた自分自身に驚いてしまう。
台風が接近して合宿を決めたというのに、それが他人事のようになるまで練習に没頭していたのが、自身でも意外だった。
食後も練習していた新だったが、外の騒がしくて昨日より早く練習を切り上げた。
更衣室にあるシャワーで体を洗い、持参したボディソープで体を流すと、タオルで頭を拭きながらシャワー室を出る。
洗濯したシャツを着てスラックスを履きたかったが、新たちのシャツは男子更衣室のワイヤーに干されている。
龍馬たちと決めたように、明日の朝まで制服を着ることはできない。
洗って脱水機に掛けていた水着をもう一度身に着けた。
相変わらず寒くて体も冷えてしまいそうなので、シュラフに入って温まろうとすると、新は外が騒がしいことに気がついた。
風がプール館を吹き付けていて、窓が時折揺れ、どこからか風の抜ける音が響いている。
龍馬が言っていたように台風が近づいているのだろう。
それでも龍馬たちは全く気にすることなく、シュラフに横たわって寛いでいた。
宗と龍馬はスマホの画面を凝視し、勝平は既にいびきをかいている。
呑気なのか恐れ知らずなのかわからなかったが、新は外の様子が気になり、一人確かめようと部屋を出た。
プールサイドは更衣室よりも騒がしさが響いた。
どれほど強い台風なのか、今頃になって心配になってくる。
片手のスマホで台風の勢力を調べながら歩き、外の様子を確かめられる裏口へ向かった。
「あれ、新くんも外が気になってここに来たんだ」
初乃も女子更衣室から出て先に来ていた。
乾かないままの初乃の短い髪に新の目を奪われてしまう。
照れを隠すように目を逸らして言った。
「初乃さんは台風が来ても平気なんだ」
「いや、恐いよ。今は屋内にいるけど外に出たら瓦礫とか飛んできて危ないでしょ」
新は「そうだけど」と苦笑する。
恐いと言いつつ一人でこの場所まで来られたのは頼もしい、と新は思ったが心の中だけに留めておいた。
裏口を開けて外の様子を見てみると、星はおろか月さえ見えないほど空は真っ黒に染まっていた。
轟々と風が二人に吹きついてきて、雨も横殴りにぶつかってくる。
それでもまだこれから暴風域に入ると思うと新はプール館が安全か心配になった。
裏口の扉を閉めると、初乃は曇りなく真っ直ぐな表情で言った。
「ねえ、女子更衣室の中で話さない?」
「えっ、僕が入っていいの?」
「私一人しかいないから今はいいよ。着替える予定もないんだし」
初乃に言われて、それならと新は更衣室に入ることにする。
普段入ってはいけない場所へ入るのは気が引けたが、気にしている場合ではないと考えていた。
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