第10話 背泳へのこだわり
シャチのフロートを潮風に流され気分が沈みつつある六人だったが、海の家での昼食を経て、依然海での時間を楽しんでいた。
龍馬たちは勝平の膨らませたビーチボールを使ってバレーをしているようだった。
砂浜に立てられていたネットの間に二人ずつ分かれ、点数制で試合しつつも緩い雰囲気で遊んでいる。
勝平と宗、龍馬とその恋人でチームを組み、今は勝平チームがリードしているようだった。
新と初乃はそれを遠くから眺めながら、二人で海に浮かんでいた。
初乃の乗る浮き輪に新が掴まって泳いでいる。
そこまで離れたつもりはなくとも、龍馬たちは小さく見える。
「離れてきてよかったの?」
「バレーをやるのに僕達はちょうど余ってるからね。それに、たまにはこうやって浮かぶだけでも楽しいし」
浮き輪を掴んでいる片手で水を掻き、新は仰向けになって浮かんでいる。
照りつく太陽に目を細めながら話を続ける。
「こんなこと龍馬たちに言うと『暇なのか?』ってよく言われるんだけど、忙しい時こそ頭を空にできていいんだ」
「もしかして新くんにとっての瞑想なの?」
「そうなのかも。したことないけど」
「じゃあわかんないじゃん」
自分でも大雑把だったと思っていた新は苦笑する。
初乃も苦し紛れに笑っていたが、続けて言う。
「でもこうやって浮かんでるとわかる気がする。今まで速く泳ぐことしか考えてこなかったのに」
「競泳も楽しいけど、好きに泳ぐのもいいよね」
新は目を閉じて波に身を任せる。
口の端を緩め幸福に満ち足りた表情をしながらぼんやり浮かんでいると、それを見て初乃もまた口元を緩めた。
「本当に泳ぐのが好きなんだね」
「そうかな」
「そうだよ。この前自分でも話してたじゃない。でもね、ごめん、そうやってると水死体みたい」
「なんだとぅ」
笑いを堪えている初乃へ新は水を掛ける。
浮き輪に乗って日差しで温まっていた初乃は水の冷たさできゃっきゃっと笑う。
からかわれた新もそれを見て笑みを浮かべるが、不意にどこか遠くを見つめるような目を空に向けた。
「でも、最近はちょっと違うかも」
「違うって、何が?」
「泳ぐのは前から好きなんだけど、今はもっと早く泳げるようにって焦って練習してる。もっと競泳で勝てるようになりたいんだ」
新が言うと、初乃に何か思い当たることがあるのか、訝しみながら尋ねる。
「もしかして、河本先輩とのことがあったから?」
「……そうだね。あんなこと言われて、競泳で負けたからだと思う」
新が白状すると、初乃は何も答えず二人は黙り込んでしまった。
初乃が自分と河本とのことを考えていると思うと、新は居た堪れなくなる。
沈黙が辛くなって、別の話題を振った。
「そういえば、前にこの話をした時、初乃さんがどうして背泳にこだわってるか聞きそびれたよね。どうして背泳やってるの?」
「それは新くんが今言ったこととあんまり変わんないかな。空が見えるから背泳が好きなの」
「あぁ、こんな風に仰向けだから」
新が海に浮かびながら手足を広げて見せる。
泳いではいなくともこのまま手足を動かせばすぐに背泳ぎできる。
その姿はさながら空を見上げているようだった。
他の泳法だと前方か水中しか視界に映らないので確かに空を見上げられるのは背泳ぎの特権だ。
「でも初乃さんの学校は屋内だから空見れないじゃん」
「そう。競泳の名門だから入ったけど屋内だからネックだったの。今じゃ泳いでも天井ばっかり。でもね、背泳のいいところは空を見られるだけじゃないの」
「どんなところ?」
「一番応援してもらってるのがわかるの。他の泳ぎ方だと水に潜っちゃうけど背泳なら観覧席で誰が応援してくれてるのかまでわかる。お世話になった人とか友達とか両親とか、大事な人に応援されて泳ぐのはやっぱり一人とは違うよ」
「それは確かにそれは大きいなあ」
そのことに関してはこだわりが強いようで、初乃は「耳を水に入れないといけないから声までは届かないんだよね」と嘆いている。
後付けの理由などではなくその理由が中核になって得意種目になっているのだろう。
泳ぎを教わったばかりの幼い頃は両親、学校に通い始めたばかりの頃は仲の良い友達、水泳部に入り始めた頃は監督してくれた仲間。
幼い頃からの応援がバックにあって初乃の背泳は速くなっているのだろう。
「そう言われると僕も今度背泳やってみたくなるな。割と成績もよかったりするんだ」
「それなら今度フリーだけじゃなくて背泳も試合出てみたらいいよ。大会が近いからその時に出てみてちょっとでも手応え掴んでみて。案外ハマるかもよー」
今日はともかく次の部活で志摩崎へ行った時に練習してみてもいいかもしれない。
新はそう思いながら太陽を見上げた。
会話もなく初乃と一緒にぼんやり過ごしていると、初乃が呟くように言った。
「……でも最近までは人との差を気にしてばっかりでそんなことも忘れかけてた気がする。去年はあんまり応援してくれる人も少なかったし気にしなかったなあ。新くんのおかげで思い出せた気がする。ありがとね」
話している初乃の顔を新が見ると、目を泳がせて顔を逸らされてしまった。
新が表情を見ようとしてじっと見詰めていても顔を向けてくれず、またしばらくの沈黙が流れるだけだった。
新が黙っていると初乃は誤魔化すように言った。
「ねえ、向こうに見える浮き島まで競争しない?」
初乃が指差した方にはプラスチックでできた島が浮かんでいた。
「いいけど泳ぐには浮き輪が邪魔じゃない?」
「新くんは男の子だからハンデで付けて」
そう言って初乃は浮き輪から降りて新に渡したが、これでは泳ごうにも泳げない。
浮き輪を腰に通して、得意のクロールをしようにも腕がぶつかってしまう。
それにも関わらず初乃は問答無用でカウントを始め、一人だけ勢いよく泳ぎ出してしまった。
逃げられているかのように去っていく背中に、浮き輪を付けた新が追いつける訳もなく、仕方なく犬掻きで追っていった。
それから新たちはその後もずっと遊び続け、太陽が沈んで帰る頃には全員くたくたに疲れきっていた。
放課後の部活でも疲れを見せなかった龍馬たちも、終わり際にはビニールシートの上に倒れてこんでいた。
いつも騒がしいあの宗と勝平でさえも横になっていて、一言も話さず休んでいる。
それでも「花火やりたかったなあ」と嘆く二人はさすがだったが、一行は夕日の浮かぶ海を背にして帰路に着いた。
人の少ない駅のホームで新たちは上り電車を待つ。
風化して黒掛かったコンクリートと、赤錆の目立つ囲いのホームに、どこからかヒグラシの啼く音が聞こえてきている。
新が一日の終わりを感じて寂しさを覚えていると、龍馬が風情もへったくれもなく尋ねた。
「それで、新は今日初乃ちゃんに告白できたのかよ」
「いきなり何を言い出すんだ」
新の隣に立っている龍馬はからかうような笑みを浮かべている。
突然の問いに新は疲れも忘れて動揺した。
慌てて背後を振り返ると初乃は龍馬の恋人と話しているようで、幸い龍馬の話は聞かれていなかった。
新は心を落ち着かせて声を潜める。
「僕が初乃さんに告白するかのような言い分はやめてくれ」
「えっまだしないの? 好きなんじゃないの?」
新は呆れて眉間を押さえる。
相手をするのに疲れ過ぎていた新は空しくため息を吐いた。
「この前もそうからかっただろう。もう飽きたって」
「はは、そうか」
龍馬も疲れているのか返答も単調になっている。
龍馬だけでなくみんな疲れているのだからからかわなきゃいいのに、と新は思ったが心に留めていた。
ヒグラシが一層大きく啼いた。
「そういえば台風が近づいてるらしいな。今度直撃するらしいぞ」
「本当に?」
「今日は雨降りそうだったから延期も考えてたけど、延ばさなくて正解だったな。台風で今度は中止だったかもしれない」
「確かに。楽しかったし、本当に来れてよかったよ」
新は今日のことをしみじみと振り返る。
今日は肌が真っ赤に焼けるぐらい海を堪能でき、仲の良い友人との時間を存分に過ごせた。
初乃との距離も縮められ、初乃の本心も少しだけ聞けた。
ここまで夏を満喫できたのは久しぶりだったかもしれない。
シャチのフロートを流されてしまったことも今では良い思い出と変わりつつあった。
「でも今度台風が来るんだ」
ヒグラシが啼く中、新は言った。
「部活が休みの時に来てくれるといいんだけどなあ」
龍馬が答えながら視線を遠くへ向ける。
踏切の音が遠くに鳴っていて、向こうから電車がやってきている。
夕日の光を車体が照り返していて、黄昏色に染まっていた。
到着した電車に乗ってがらがらの座席に座ると新たちは眠気がピークに達し、電車が出発するなり全員そのまま寝入ってしまった。
新たちを乗せた電車はオレンジ色の海を横にして走っていき、狭いトンネルの中へ消えていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます