第二章
第6話 奥手な新、ライバル
翌日の部活動でウォーミングアップを終えた後、約束していた通り新は初乃のフォームを見ていた。
どこが崩れているのか探してほしいと頼まれていたのだが、新は初乃の泳ぐ姿に見惚れてそれどころではなくなっていた。
交互に天へ伸びる細い腕。
水面から浮かんでいるなだらかな双丘。
薄っすらと腹筋が浮かぶ腹部。
濡れて白く輝くように見える肉付きの良い太腿。
それらが新を釘付けにして離さず、背泳のフォームのことなど忘れてしまいそうだった。
初乃が泳ぎ終えると、ゴーグルとキャップを外してプールサイドに上がった。
まだ滴が垂れる髪を軽く整えながら歩いてくる。
ベンチにやってくると、まだ惚け気味の新に向かって尋ねた。
「どうだった?」
声が掛かって新ははっと我に返った。
どう答えればいいのかわからず、唸りながら答えを考えて結局正直に言った。
「ごめん、見惚れててぼーっとしてた」
初乃は怒っている様子ではなかったが、納得もしていない。
「それってお世辞?」
「いや、本当に見惚れてたんだ。前から思ってたんだけど、初乃さんの背泳見てたら引き込まれちゃうんだよ」
正直に言っても初乃は納得していないようで、「本当?」とくすくす笑いながら疑っている。
誤魔化そうとしている新を面白がっているようだったが、新は思いの丈をぶつけるように言った。
「本当だよ。ローリングして胸を綺麗に動かせてるから腕が上手く水を掻けているし、足もしなやかに動いて効率よく蹴れてる。綺麗すぎて見てるこっちが溺れそうだ。もっと荒々しく泳いでもいいんじゃないかってくらいで、フォームのことを僕が教えるなんてとてもじゃないけどできない。僕はこうやって静かに初乃さんを見惚れているだけで十分で、最近はそれが一番幸せなん――」
「待って待って! 気持ちはわかったから、ちょっと寄り過ぎ」
泳ぐ姿がどれだけ綺麗だったか説明するあまり新は初乃に詰め寄っていた。
熱が入りすぎてベンチからも立ち上がり、初乃の肩まで掴みそうな勢いで語っていた。
指摘されて我に帰り、慌ててベンチへ座り直す新。
正直に話しすぎて今度は恥ずかしくなり、膝をおさえて身を縮めている。
初乃もまさかここまで熱意を持たれているとは予想していなかったのか、目を逸らして赤面した。
それから二人してしばらく沈黙した末、初乃が尋ねる。
「……綺麗すぎて溺れるって、どういうこと?」
「恥ずかしいからあんまり聞かないで」
早口で話していたはずだから聞かれていないかもしれないと新は一抹の希望を持っていたが、呆気なく打ち砕かれる。
変なことまで口走っていないかどうか、言動の不安に胸を襲われた。
うっかり女の子が触れてほしくないことまで口走ってないか、自らの発言を確かめた。
初乃が更に尋ねる。
「もっと荒々しく泳いでもいいんじゃないかってのは、本心?」
「それは僕が葛藤して言っただけで深い意味はないよ」
新が否定したはずだったが初乃は考えこむように唇を触る。
黙り込んだまま何も答えないので新は怪訝になるが、何を考えているのかまでは見当も付かない。
しばらく初乃が目線を落としたままだったが、やがて顔を上げて「わかった。ありがとう」と答えた。
新は何に感謝されたのかわからないまま「うん」と頷いた。
「今度は私が新くんのフォームを見てあげる。確かクロールやってるんだっけ」
「そうだね。特に理由はないけどずっとやってる」
「理由もないのにやってるの?」
「泳ぐのは好きだからだけど、種目にこだわりはないかな。強いて言うなら、一番成績が良かったからだよ」
新が答えても初乃は眉を寄せたままで表情を変えなかった。
「それだと練習のやる気出なさそう。辞めようって思わなかったの?」
「意外と思わないよ。でも、たまに競泳じゃなくてもいいかなって思う時はある。何も考えずにただ水に浮かんだまま波に揺られてるのがよかったりするんだよ」
「なにそれ変なの」
実に率直すぎる言葉だったが、新自身もおかしいと思っていたので、否定する気もなく笑って返す。
初乃は口を突き出していた。
「初乃さんは背泳やってる理由ありそうだね」
新が尋ねると初乃は「あるよ」と答える。
「それってどんな理由――」
「おい、そこの二人」
新が続けようとしたところで、第三者が二人の間に現れ会話が止まった。
低い声で呼ばれ、新は動揺する。
話したこともなければ、身長が高くて体格も良いので、思わず圧倒されてしまう。
初乃と同じ志摩崎高校のキャップを手に持っているので、この学校の生徒だということはわかったが、坊主頭に髭を生えている風貌が、教師と間違えかねないほどに大人びていた。
「江崎、歌島はいずれはライバルとなる学校だ。交流を持つなとは言わないが、あまり馴れ馴れしく接するのは感心しないな」
呼ばれた初乃は黙ったまま何も答えない。
何か言い返せばいいのにと新は思っていたが、それができない訳でもあるみたいに初乃は黙ったままだった。
志摩崎の部員は更に新にも言葉を続ける。
「君にとっても良くない。軽々しく馴れ合うと気苦労が増えるだけだ。挨拶以上のコミュニケーションは避けた方がいい」
名前も知らない相手は淡々と告げる。
こうやって助言しに来てくれたのだが、新はあまりよく思わなかった。
いきなり現れて一方的に言われてもすぐに納得できない。
初乃が何も言い返さないのが気になったが、新は堂々と言った。
「忠告してもらってなんですが、僕はそう思いません。初乃さんと話すのが気苦労だなんて思ったことなんてありませんし、初乃さんのための苦労なら僕は気にしませんよ」
「そう思うかもしれんが、余計な仲間意識を持つと試合で邪魔になってしまうと言っているんだ。本番でも君は本気でライバルと泳げるのか?」
「泳げます。張り合うことでためになることもあるはずです」
「楽観しすぎだ。現実は違う」
二人は互いに熱が入り始めて、言い争いに発展してしまいそうになっていた。
新も続いて言い返そうとしたが、見兼ねた初乃が慌てて「待って」と止めた。
「ありがとう新くん。でも、いいの。新くんの気持ちもわかるけど河本先輩の気持ちもわかるの」
河本と呼ばれた先輩は冷静な表情だった。
初乃の話に驚いた新は動揺せざるを得ない。
先輩後輩の関係があるのはわかるが、どうして河本の肩を持つのか新にはわからない。
穏便にことを済ませようとしているだけかもしれなかったが、ただそれだけのこととは思えなかった。
「先輩の言う通り、確かに話しすぎてました。練習に戻りましょう」
そう言って初乃は去っていく。
河本も新を一瞥すると、二人で志摩崎の使うプールへ戻っていく。
新はそれを黙って見送っていたが、納得がいかないまま歌島側のプールへ戻った。
遠くから様子を見ていたのか、龍馬がすぐに話し掛けてきた。
「志摩崎の部員と何を話してたんだ? 言い争ってるようにも見えたんだが」
「……後で話すよ。今は練習に戻ろう」
「何も問題になってなきゃ別にいいけど。それと、学校対抗レースの覚悟はできてるか。クロールの試合はもうすぐだぞ」
新ははっと驚いて振り向いた。
その様子を見て龍馬もまた驚く。
「なんだ聞いてなかったのか? せっかく一緒に練習してるんだからって部長が決めたんだ。新がさっき話してた先輩もクロールだから、一緒に100メートル泳ぐんだぞ」
新は顔をしかめる。
まさかこれほど早く歌島と志摩崎で泳ぐとは思っていなかった。
それどころか、先程言い争いになりかけた相手とすぐ試合になったとなれば、意識せざるを得ない。
他に一緒に泳ぐ部員がいても、河本しか注意がいかない。
初乃が何も言い返さなかった疑問も新に拍車を掛けていて、河本への対抗心を燃やしていた。
対抗レースの時間になって、新を含めた部員たちはプールへの飛び込み台にそれぞれが並んだ。
龍馬の言った通り、河本も飛び込み台に立っていて、泳ぐ準備を整えている。
新は思わず生唾を飲み込む。
この学校対抗レースがただの練習試合とは思えず、大会本番さながらの緊張感が新の胸を締め付けている。
気が付けば睨み付けるような形になってしまっていて、視線に気付いた河本が新へ振り向いた。
ほぼ同時に目を逸らしたので気付かれていないはずだったが、心臓が泳いだ後のように高鳴っている。
試合はこれからなはずなのに、息まで乱れようとしていた。
緊張を落ち着ける間もなく、試合のスタートが始まる。
志摩崎の部長が「用意」と言って、新たちが腰を曲げる。
続く「スタート」の掛け声が上がると、一斉に部員たちは飛び込み台を蹴った。
水しぶきを上げて体を水中に滑り込ませると視界が青色に一変する。
両足を大きく動かしてスピードを上げ、水面を舞っている白い泡を振り切る。
水面に出ると、伸ばした腕を交互に水を掻かせ足は水しぶきを上げんばかりに動かした。
最初はスタートで差がつかずにどの選手も僅差で、まだこれからどうにでも転んだ。
新が勝つかもしれないし河本が勝つかもしれないし、二人とは別の部員が勝つこともあるかもしれない。
新はまだ二年生であったものの実力が三年に及んでいない訳ではなかった。
新の自己ベストは歌島の三年生と差がある訳でもなかったし、それどころかタイムで勝っていることもあった。
志摩崎の三年にまで及んでいるかは知らずとも、二年生だからと言って全く太刀打ちできない理由はなかった。
レーンには練習試合だからと言って手を抜いている者は誰一人おらず、プールは高い水しぶきが立ち上っている。
特に新は河本への意識もあって力がこもっており、この試合への勝利に執着していた。
新が三十メートルほど進むと、両隣の選手は後方へ流れていった。
水中では自分の順位まではわからないが、呼吸の瞬間に河本との差を確かめると、先輩は新よりも先を泳いでいた。
しかも二メートル以上もの差を付けられて新は負けていたのである。
プールの壁が迫ってきて、新は焦りと共にサマーソルトターンする。
足からの水が弧を描いて飛び散り、両足が壁を強く蹴って残り50メートルへと両手を伸ばす。
二回目のドルフィンキックも終わってスパートを掛ける。
前半50メートルで新は河本に離されたがまだ闘志は潰えていなかった。
これまでも全開だったが、まだもう少し必死になれる余地が残っていた。
フォームが崩れてしまうかもしれなかったが、河本に勝つため新は手段を選ばなかった。
呼吸の回数も減らす覚悟を決め、まるで暴れるかのような気持ちで手足を動かした。
捨て身のような泳ぎで新はどうにか河本との差を縮め、あと一メートルの距離まで迫っていた。
フォームが崩れてしまっていたが、呼吸回数を減らしたのが功を奏しているようだった。
水中の新の視界からでもそれがわかっていたのだが、その捨て身のような泳ぎは長くは持たなかった。
残り10メートルほどで呼吸に限界になり、新は思わず水中で息を吐いてしまう。
すぐに息継ぎしたが軽いパニックになり、力も込められなくなってしまう。
河本との距離はどんどん離されていき、そのままプールのレーンは尽きてしまった。
ゴールだけは切ったものの、新は河本とのレースに惨敗してしまったのだ。
新は顔を上げるなり、新は激しく息を吸った。
咳き込むように息を整えていると、龍馬が試合の結果を伝える。
「よくやったな、二位だよ」
新は何も答えられない。
「一位はさっき話した、三年の河本先輩だ。でも先輩は三年だし、しかも全国大会にも出場してる規格外の選手だし実質一位だと思うぞ」
新は息を整えるばかりで答えられない。
しかし、それはただ息を切らしているからだけではなかった。
龍馬だけでなく宗も喜んで話し掛けてきた。
「二位かあー、すげーじゃん! 俺も上位目指すぜ!」
自由形が終わって、早くも平泳ぎの練習試合が始まるようで、新はプールサイドへ上がる。
平泳ぎ担当の宗を見送って、練習試合が始まるのを待った。
しかし、気持ちはまだ収まらないままで、宗の試合に集中できそうになかった。
それでもしばらく試合を見守っていた新だったが、背泳の試合で再び河本の姿を見て愕然とした。
背泳が専門種目の勝平を見送っていると、その勝平の隣レーンに河本が着いたのだ。
試合が始まると河本は勢いよく泳ぎ出す。
体が弧を描きそうなほどのバサロスタートを決めると、鮮やかにバサロキックからスウィムへ移る。
フリップターンからの折り返しもあっという間に終わり、クロールの結果と変わらず一位でゴールしてしまった。
クロールも背泳も一位でゴールした河本に、新は思わず声を漏らしてしまう。
「あの先輩って……」
その呟きを聞いて、一緒に見ていた龍馬が答える。
「さっきの河本先輩だな。クロールほどの成績ではなくとも、背泳も好成績らしいぞ」
新は気が付けば奥歯を噛み締めながら試合を見ていた。
クロールでも手が届かなかったというのに、相手は背泳でも速い。
自分とは格が違う相手だったというのがわかって、気持ちを冷静にしていられなかった。
龍馬がその様子を怪訝に見ていた。
「おい、大丈夫か」
新は礼を言って「気にしないで」と答える。
なんでもないように笑って見せようとしてもできない。
表情はすぐに張り詰めたものへ戻ってしまう。
龍馬の心配を拭うことはできなかったが、新を見ていたのは龍馬だけではなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます