第15話
先輩は学校にいる。
夕暮れから朝に掛けて、ずっと学校にいる。
そのことには、ずっと前からぼんやりと気付いていた。
ただなぜそうしているのかは、はっきりとわかっていなかった。
……わかって、いなかった。
右手にビニール袋を、左手に紙袋をぶらぶらさせながら、息も切れんばかりの早足で茂は学校へ急ぐ。見慣れた通学路をなぞり、コンクリで舗装された不格好な石橋を越える。
こんな所まで来てもまだ太鼓の音は聞こえていた。
自然と目が行く。校門の向こう――
昨日まではなかった2メートルはあろうねずみ色の仮囲いが、校舎の周りにぐるり城壁が如く聳えていた。
スライド式の門は錆びだらけで、掴んで乗り越えると手が赤茶色になる。城壁に近づき、フェンスのお化けみたいなキャスターゲートの前に立ち、プリントされたばかりでまだ綺麗な張り紙の、でかでかとした赤文字を読む。
関係者以外立ち入り禁止
近隣の方々には多大なるご迷惑をおかけいたしますが、なにとぞご容赦お願い致します
工事期間(予定)8/20~5/9
今日は8月19日。
……もう始まるのか、そう茂は思う。
工事の予定表は配られていたが、詳しく目など通していなかった。しかし納得は出来ないでもない。あのまま瓦礫と一緒に廃棄してしまいそうなぐらい荒れ放題だった郷土資料室も昨晩行ったときにはほぼほぼ片付いてしまっていたし、素人には動かせないような重量物とか、校舎と半分一体化している放送機材とか、その手の類の物しか残っていなかった。
そろそろ本格的に業者の入る頃合いだと言われれば、確かにそうなのだろう。
手荷物を先に潜らせてキャスターゲートを持ち上げ、その隙間から壁の内側に侵入する。
校舎に向かう途中で、校庭隅にある地蔵の足下が大きく掘り返されているのを見掛けた。
……あれはどこかに動かすのだろうか? それとも棄ててしまったりするのだろうか。
そんなことを考えながら誰も見ていないのに靴を揃え、いつもの窓から校舎に飛び込み、夏なのに冷たい床を踏み締め先を急ぐ。1階の廊下を抜け、一段飛ばしで階段を駆け上がり、
そうして音楽室の前にまでやってきた。
戸は閉まっている。音もしない。取っ手に手を掛けて目蓋を下ろし深呼吸。開ける――
目を開いても伊莉栖はいなかった。いつぞやのように隠れているわけではなく、本当にいなかった。
このまま見つからなければいいのに、と茂は思う。
先輩は本当に学校という場所が気に入っているだけで、夕方のピアノや深夜の肝試しは本当にただの趣味でしかなくて、あの廃墟とは別にちゃんとした自宅があって、苗字も実は伊莉栖じゃなくって……、眠いとか気が乗らないとか風邪引いたとかそういう理由で今日はまだ学校に来ていない。
もしそうだったなら、茂の想像は全て想像のままに終わってくれる。
そしてここにいないのであれば――――轟音。
薄っぺらい窓を突き抜けて、強烈な炸裂が鼓膜を震わせる。
花火大会の開幕を飾る、黄色の大玉だった。
輝くしだれ柳が、なにも変わらぬ音楽室をちらちらと照らし出す。
……本当になにも変わらない。校舎の至る所は骨身を曝され、机も椅子も棚も黒板もほとんど姿を消してしまったのにここだけは時間が止まってしまったかのように変わらない。
茂はドアも閉めずに踵を返す。
屋上に続く鉄製ドアの前に立ち、やはり目を閉じる。
このノブが回るか、否か。
掴み、手首を捻る。
――回った。
刹那、どんどんどんどんと連続で花火が爆ぜる。
「来てくれたんだ」
目蓋を押し上げると、思った通りの景色が広がった。大玉の次はいつも決まっていて、虹と同じ順番に左から赤黄緑青の分不相応にでかい牡丹が空に浮かび、フェンスの前には後ろで手を組んだ先輩の背中がある。
「また明日ねって」
振り向いた少女が笑む。
「そうなんだけどさ。友達とお祭り行ってるんじゃないかなって」
当たっていた。……そんな話はしていないのに。
「なんでわかったの?」
「理由なんてないよ。そんな気がしただけ」
小気味よく新手の花火が次々夜空を彩っては、泡沫の如く夜に溶けて消える。
「あの、これ、たこ焼き。冷めちゃったかも知れないけど」
紙袋を突き出して茂は言った。少女はそれを受け取り、
「たこ焼き?」
それはビニールに入っていたはずではなかったか。
「あっ、違う違うこっちが」
焦る茂をよそに、少女は紙袋から赤い花のあしらわれた簪を取り出して花火に翳す。
「なにこれ……、簪? ……わたしに?」
うん、とだけ答えた。茂は左手を下ろして、
「ちょっとあっち向いててくれる?」
言われた通りにした。
火薬の燃焼音に耳を傾けながら右手で自分の顔を掴み、たぶん緩んでいるであろう表情を直しにかかる。紙袋が地面に落ちる音。たった6発を挟んで先輩が言う。
「もういいよ」
「――すごい」
驚きすぎてそれしか言えなかった。
「浴衣とかあったらもっとよかったんだろうけど。どう? おかしくない?」
複雑すぎて一体どこがどうなっているのか茂にはわからなかったが、先輩の言う通り和装に合いそうなふんわりとした髪型に仕上がっていた。
「いいと、思います」
無邪気に少女は笑って、
「なんでかしこまるのさ。あっちで見よ。ここはフェンスが邪魔だから」
茂は袖をぐいと引かれる。
1枚フェンスの抜け落ちた、屋上の隅っこ。
伊莉栖はなんでもなさそうに座っていたが、その縁から足を投げ出すのはやはり恐ろしかった。椅子に座るときよりむしろしっかりと腰を下ろしているのに、冷えた風が足首をなぜるだけで背筋が凍る。木々の頭がずっと下に見えて、ここの高さがわかってしまう。
「下を見るから怖いんだよ。ほら上見て上。あとそっちの袋」
それは無理な助言だった。なぜなら茂にとって花火はなんとなく眺めるものでしかなく、わざわざ意識して観賞するようなものではないのである。先輩と花火を見ている、という状況こそが重要なのであって、それ以外は言ってしまえばどうでもいいのだ。
そうしてちらちら横に意識をやっていると不意に視線がぶつかった。誤魔化すように茂はビニール袋から8つ球の入ったプラ容器を取り出し、ずいと差し出す。
「全部食べちゃっていいよ」
「キミは?」
「僕は向こうで食べたから」
「でもお腹いっぱいってわけじゃないんでしょ? はい」
決心するまでの間に、茂の視線は少女と花火の間を4度行き来した。
――前のめりになって、突き出されたたこ焼きをそっとついばむ。その帰りに真下の闇に焦点があって、慌てて居直る。
もちろん味なんてわかるはずはない。適当に咀嚼して、適当に嚥下する。伊莉栖が横で呟く。
「まだちょっと温かいね」
遠くの空で、無数の花が咲き、そして散っていった。音の間隙。
「ところでさ、なんでこの花にしたの?」
少し、意図の掴めない質問だった。
「……もしかして嫌いな花だった?」
「ううん。好きだよ。これ以上わたしらしい花もないと思う。だからむしろ気になって」
茂は少しくすぐったい気分になる。買うかどうか随分迷った品だったが、勇気を出してよかったと思う。
「なんとなく……、かな。深い理由は無いよ。ただ似合いそうだと思ったから」
少女は反芻するように「そっか」と小さく繰り返して、最後に「ありがとね」を添えた。
伊莉栖の身体がゆるりと傾き、肩と肩が触れる。
茂はそれから、ずっと花火を見ていた。
もちろん右を向いて、伊莉栖の横顔を見たいという気持ちはあった。が、しかしだ。次に目が合ってしまった時どうすればよいかがわからない。さっきはなんとか誤魔化せたが、用意していた弾丸はもう撃ち尽くしてしまった。次は恥ずかしくて死んでしまうような気がする。
だからずっと花火を見ていた。
赤黄緑の盛大な速射連発に続き、星やハートやスマイルが2つずつ、計16個夜空に描かれ、それが終わると今度は号砲スターマインがバチバチと弾ける。チカチカと点滅する鮮やかな流星群、ブルーハワイみたいに真っ青の牡丹、豪華な冠の殺到――
花火の勢いが衰える様子は一向になく、黒いカンバスには滔々と光が溢れ続け、この時間は永遠に続くようにも思われ、本当にそうだったらいいのにな、と茂は思う。
そしてその瞬間は、なんの前触れもなしにやってきた。
「――好きだよ。茂君のことが好き」
まるでダムが決壊するかの如く、しかし静かに少女の口から漏れ出した言葉は、圧倒的な密度を以て茂の思考を押し流す。高揚感に眼球の奥がチカチカする。息をすることさえも忘れていた。
――伊莉栖は、僕のことが好き。
たったそれだけの意味を理解するに随分な時間が掛かった。
だが、答えは決まっている。
「僕も伊莉栖のことが好きだ」
その言葉は、案外すんなりと音に出来た。
「うん。知ってる」
そりゃそうだ、と笑う。自分は一度告白をして振られているのだから当然だ。深く息を吸い、次の台詞に備える。もはや躊躇う余地はなく、恥ずかしがっている場合でもない。
やがて肺がいっぱいまで膨れた。
だから後は吐き出すだけだった。
「僕と付き合ってください」
首を捻ってみると、伊莉栖の横顔が目に入る。
「それは、」
長い沈黙。
「それは――無理だよ」
その言葉は爆発音の影に響いて、聞き取れるかどうかの境にあった。しかし断じて聞き間違いではない。
ムリ、
……無理?
わけがわからなかった。文脈に噛み合わない。伊莉栖は僕のことを好きだと言ったのではなかったか。僕はそれに答えたのではなかったか。
「どうして」
声の震えを抑えることは出来なかった。
「だって――」
――わたしもう死んじゃってるからさ。
花火の音がさっきまでよりもずっと遠くに聞こえる。
驚きは、それほどでもなかった。
「……地縛霊って知ってる? どこかで聞いたことぐらいはあるよね。信じられないかも知れないけどわたしはそういう存在なんだ。この学校で死んで、この学校で目覚めて、この学校に囚われた、それがわたし。ねえ、わたしの教えた場所には行ってみた? 毎晩学校にいる生徒なんて変だ、って思ったことはない? わたしが他の誰かと喋っているのを見たことは? わたしが学校以外にいない理由を考えたことはある?」
少女は苦笑混じりに静けく語り、後には静寂だけが残される。もちろん行ったし、もちろん思ったし、もちろん考えたもした。なんなら在校生の中に伊莉栖なんて名前のないことさえ知っていた。
知っていて、ここに来たのだ。
「僕は気にしない。僕は伊莉栖が生きてても死んでても構わない」
伊莉栖の表情が揺らぎ、そこに張り付いていた苦味は夜風に溶けて、一瞬だけ笑みが浮かぶ。
「……ありがとう。でもさ……、それでも無理なんだよ」
「どうして!」
茂は叫んだ。対する少女は変わらぬ調子で、
「もう時間がないから。ここが学校なのは今日までで、明日からは学校だった場所になる。だからわたしの時間ももう終わり」
「…………そんなのわかんないじゃんか! もしかしたらここが更地になっても消えないかも知れないし、自由になってどこへだって――」
「わかるよ、自分のことだもん」
それ以上は聞きたくないと、そう言わんばかりの割り込みだった。
伊莉栖が立ち上がる。その足の半分は屋上からはみ出していて、きっと少し煽られれば落ちてしまう。へりの角を掴み、茂は少女を見上げる。
「学校がなくなっちゃったらわたしはどこに行くんだろうね。……あの世ってあるのかな? それとも生まれ変わったりするのかな。わたしみたいなのがいるんだし、きっと魂みたいなものは本当にあって、だからどっちかはあると思うんだけど。茂君はどう思う?」
「僕は――」
そこまで言って茂は口をつぐんだ。自分は今なんと続けるつもりだったか。天国があるとでも答えるつもりだったのか。馬鹿め、そんなことを言っている場合ではない。伊莉栖は明らかに話を逸らそうとしている。これに乗ってしまえばお終いだ。楽な方へ逃げてはならない。決して。
「僕に出来ることは」
「ないよ。どうしようもない」
「例えばここから飛び降りるとか」
そこで確かな間があった。花火は未だにどこかで続いている。茂の視線は少女の横顔に釘付けで、瞬きの1つすらしない。栗色の長い髪の毛がふわりと揺れる。息が止まる。
やがて二人の目が合った。
「そんなこと言っちゃダメだよ。キミは今日まで1人で生きてきたわけじゃないでしょ? 家族とか友達とか、そういう人達がいるんでしょ?」
少女の微笑が閃光に照らし出される。なにか言わなければと口を開く。…………紡ぐべき言葉が見つからない。空気だけが喉から漏れる。伊莉栖がまるで悟ったかのような顔をして、言う。
「今日まで楽しかった。最高の夏休みだった。最後に会えてよかった」
――ありがとう。
伸ばした腕はなににも触れなかった。
茂の視線が足下の暗闇の中をぐるぐると泳ぎ回る。
空っぽになったプラケースが、風に嬲られてかたかたと音を立てる。
花火はまだ――、続いている。
まだ、
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