第13話

 翌日、おやすみと言った後に自室のベランダから飛び降りてお下がりのママチャリに跨がり学校へ行くと、約束通り伊莉栖が音楽室で待っていた。

 学校で肝試しをしようなんて奴がいったい如何ほどいるのかと思っていたが、伊莉栖のイタズラが評判になっているらしく存外に客入りは多かった。

 恐怖のどん底に叩き落とした人間の数を、茂ははっきり覚えている。今日が三組八人で、昨日が二組四人、一昨日が四組十人だ。

 中でも彼氏の方が泣き出してしまったカップルと、親父と来ていたクラスメイトの中田は特に印象深かった。

 普通親と一緒に来るか、と思う。

 しかしこんな遊びに親が付き合ってくれるのは少し羨ましい気もする。

 まあそんなことは今どうだっていい。

 本日は8月18日、その3時23分。

 つまり第33回納涼夏祭りの本祭当日なのだ。

 クソ田舎の祭りだからといって侮ることなかれ。むしろ田舎である分他のイベントは皆無に等しく、この地のお祭り野郎共のエネルギーは余すことなくここに注がれ、いつも死んだような町がこの時ばかりは煌々と賑わう。つい四年ほど前には山向こうからの集客効果で調子に乗ったお偉いさん方が打ち上げ花火まで始めた。これが中々景気のよいことで、花火を見上げる度に友人達と「この金はどっからちょろまかしてきたんだろうな」という話をするのが茂の習慣になっている。

 もちろんカップルだってしこたまいるし、祭りをカップルで楽しみたいから、なんてわけの分からない理由で付き合い始める奴らまでいる。

 茂は伊莉栖のピアノに神経の60%を割きながら、残りの40%を考え事に当てていた。

 ずばり、なんと切り出すか。

 先輩を祭りに誘いたい。が、その為の言葉がちっとも思い付かないのである。

 今まで男友達を誘うのに余計な言葉なんていらなかったし、女子を誘ったことはおろか誘おうとしたこともなく、経験が圧倒的に足りなかった。

 異性を祭りに誘うというのはデートに誘うのと同義で、なんなら告白にだって等しい。

 だからその為の言葉は慎重に選ばねばならない。

 ちょっと脳内会議に耳を傾けてみる。

 ――なーにびびってんだ。こないだ告白までしただろ、普通にいけ普通に。

 いきなり身も蓋もなかった。

 しかしそう思う茂がいるのは事実で、なにか気の利いた文句でもあれば、なんてのは結局先延ばしにする為の言い訳に違いないのだった。

「眠い?」

 伊莉栖がピアノを弾きながら話し掛けてくるのは珍しい。

「いや。なんで?」

「ちょっとぼんやりしてるみたいだったからさ。まあ他人ひとの演奏聞いてるときなんてある程度皆ぼーっとすると思うし、逆にさせられなきゃダメだと思うんだけどいつもと様子が違うかなって」

 よく気付くものだな、と茂は思う。ただでさえ暗くて相手の表情なんか判別が付かないし、見えたところでどう呆けているかなんて自分には分からない。

「ごめん、ちょっと考え事してて」

「ああ、いいよいいよ別に。眠いとか退屈だとかそういうんじゃないならいいんだ。…………つまんなくないよね?」

 その自信なさげな声がなんとなくおかしくって、茂は笑い、

「大丈夫だよ。というか伊莉栖もそんなこと気にするんだね」

「するよ。実は結構緊張もしてる」

 意外だった。

「コンクールとか出ないの?」

「出たことないよ。こうやって面と向かって聞かせるのもキミが初めてだし」

 意外すぎて、「えっ」という音が茂の口を衝く。

「こんなに巧いのに?」

「うん」

 撫でるような声で少女は答えた。

 ああ……、なんという贅沢なのだろう。

 それから茂は、普通に誘うことに決めて思考回路を叩き切り、全身を音に委ねた。少女が奏でるは、ベートーヴェンピアノソナタ14番op.27-2、通称『月光』の第2楽章。

 ゆったりと時が流れる。陽を喪って冷えた風が先輩の髪を揺らし、背にした月の青白い光がきらきらとその輪郭を描く。

 このまま時が止まってしまえばいいのに、そう思わずにはいられなかった。

 音楽室の隅っこで静かに時を刻むあの時計を破壊してしまえば、

「ところでさ、キミはお祭り行くの?」

 驚いた。まさか先輩の方から来るとは。

「行くつもりだよ。…………一緒に行く?」

 伊莉栖はずっと口をつぐんだままだった。

 やがて『月光』が転調を迎えると第二楽章までの穏やかな雰囲気はどこへやら、音と踊るかの如く少女は身体をしならせ、駆け抜けるように空間が現実から乖離していく。闇に浮かぶわずかに欠けたあの月も、一層強く輝いている気がする。

 最中、

「わたしは、――行けないから」

 爆ぜる旋律の裏側で、伊莉栖が囁いた。

 音の奔流の中に、茂が口を挟む余裕はどこにもなかった。

 そのまま、曲が終わる。

「さて、今日はこれでお終い。ご清聴ありがとうございました。…………あれ、鍵持ってる?」

 間髪を入れずに伊莉栖は立ちながら鍵盤蓋をそっと閉じ、口を開いた。肝試しに使った鍵束は今も茂の右ポケットに入っている。躊躇うような足取りで出入り口へ向かって行く伊莉栖を、目で追う。

「僕が返しとくよ」

「そう? じゃあ任せるね」

 音楽室と外界との境界で、少女が振り返った。

「また、明日」

「また明日」

 いつも通り少し遅れて出た廊下には、もう誰の姿もありはしない。




 茂は本当に誰もいなくなった校舎で、一人職員室へ忍び込んだ。ひとりぼっちというだけで気温が三度は低く感じる。

 教員共は既に皆私物を片付けてしまっていて、職員室には傷だらけの馬鹿でかいデスクと山のような段ボールしか残っていない。懐中電灯を振り回すとこないだまで物が隠していた傷が照らし出される。どこもかしこもぼろぼろだった。

 ――出席簿。

 今日の目的はそれである。あの中には全生徒の氏名が載っている。

 つまり……、伊莉栖のフルネームも書いてある。

 少しズルい気がしたが、思い付いてしまった以上我慢することなど出来なかった。なに、目論見通り見つけてしまったとして先輩に向かって口を滑らせなければいいだけの話である。

 そうして茂は職員室の隅に積まれた段ボールを手当たり次第に開けては戻していく。一つ毎に森井中学教師陣のガサツさが伝わってくるようだった。空き巣が鞄に金目の物を流し込むかのように押し込まれていて、物に対する優しさみたいなのが全くない。

 九個目の段ボールには没収した物であろう、エロ本とか、ガラクタとか、エロ本とかが詰まっていた。

 探していた段ボールは17個目にして見つかった。

 開けずとも分かった。茂の手間を嘲笑うかの如くその箱には『出席簿とか大事な物』と書いてあった。

 中から緑色の、ハードカバーと中身の厚みがほとんど変わらない冊子を6つ取り出す。一年一組から三年二組までで、六冊。

 茂は三年の方から順に全て目を通し、2回目は見落としのないよう目を皿にして右の人差し指で全ての名をなぞり、更に念の為もう一周した。


 『伊莉栖』という文字列は、どこにもなかった。


 その足で訪ねた森井町4-17-6――つまり先輩が住んでいるはずの場所には……、


 廃墟しか…………、なかった。

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