第10話

「遅いぞーマツ」

 もうとっくに26時を回った学校前の石橋に、私服姿の3人が集まっていた。

 本日は8月が14日、もとい15日。肝試しを約束していた日付である。

「ごめんごめん」

 しかし実のところ茂がそんな約束を覚えていたのは話をした当日、つまり夏休み初日ぐらいなものだった。今日の昼間の鈴木の電話で、それを思い出した。

 鈴木ん家でお泊まり会。

 名目上はそうしてある。

 親に黙って深夜に外を彷徨くのと、嘘を吐いてとではまた違う緊張感があった。

「……マツを待つ」

 米沢がぽつり言う。すかさず鈴木が懐中電灯でその脳天を叩く。

「いてえ……」

「ところで今気付いたんだけど、どうやって入るんだ……? 鍵掛かってるよな」

 鈴木が寒い声でそう言った。米沢が「あ」と呼応する。

 それなら――

「大丈夫だよ。付いてきて」

 茂には1つ心当たりがあった。

 鈴木から懐中電灯を受け取り、校舎正面に向かって右の側面へと回り込む。1年2組の教室。その左から3番目の窓。

 端に手を掛け力を入れると、すんなり開いた。

 当然である。

 ここの鍵は一昨日自分が壊したのだから。

「すげ」

「わざわざ昼に開けといてくれたのか」

「…………まあね」

 嘘だ。もちろん違う。

 茂がこのクレセント鍵を破壊したのはただ、盆の間も音楽室へ行くためである。

 初めは一ヶ月だって寝ていられると思っていたが、結局は一日が限度であった。茂が行きたくないと思うのに反して、目玉は勝手に朝刊から日の入り時刻を読み取り、足は夕暮れの音楽室へ向かった。

 先輩と最後に会った……つまりフラれたのが9日のことであるから、そんな1日をもう4度も繰り返している。

 漏れそうになった溜息を、茂は封殺した。

 先輩はいったい何者なのか。

 ずっと気になっていたことではあるが、あの屋上でその疑問は存在感をいや増し、以来1秒だって頭を離れない。飯を食っているとき、クソをしているとき、風呂に浸かっているとき、夢を見ているとき……例外なんてものはどこにも無い。

 だが茂が丸100時間考えたところで、なにかがわかる訳でも、変わる訳でもなかった。

 どこに住んでいて名をなんというのか、どうしてずっと教えてくれなかったのか、なにゆえ夕方にピアノを弾くのか、フったのは? 涙の理由は、

「よかったなヨネ。お前の努力が無駄にならずに済むぞ」

「努力?」

 茂は鈴木に聞き返す。

「いやさ、こいつわざわざ今日の為に色々調べてきたらしくってさ、ご丁寧に地図まで作っちゃって。ほらこれ」

 言いながら鈴木の手が伸びて、米沢のジーパンの左ポケットから少し飛び出していた紙を抜き取る。米沢によるほんのわずかな抵抗があったが、二枚組のルーズリーフは無事茂の手に渡った。

 十字に折られたそれを開くと、一枚には校舎の地図が、もう一枚には七不思議に関する詳細なメモが記載されている。図が丁寧なのに対し、文字は汚い。

 普段クソ真面目な人間は遊ぶときも変な方向に真面目なんだな、と茂は苦笑いした。

 窓枠を足がかりに、内装が欠如してまさしく殺風景と化した教室へ飛び込む。

 ……気分転換には丁度いいだろう。




 まずは階段だった。一階校舎右翼の下駄箱奥に位置する階段。登って降りて、数を数える。すると、

「あれ。え、ちょま、え? 一段減ってね?」

 鈴木健太が言った。もちろんそんな馬鹿なことは起きていない。行きも帰りも14段である。今度は米沢が鈴木にチョップを噛ます。

「変なこと言うな。降りの最後一段数えてないだろお前。薄いから」

 設計ミスか工事中の手違いか、はたまた意図があったのか。詳しくは知らないが下駄箱周辺の廊下はわずかに低くなっていて、続く一年の教室の手前には謎の傾斜が存在し、下駄箱横の階段はその高さを補うため親指ほどしかない一段を持つ。これが登りでは蹴躓くので気になるが、降りにおいては存在感がない。だから数え間違えたのだろう。米沢の台詞はそういう意味だった。

 安堵の溜息が鈴木の口を衝く。

「なるほど」

 お次はトイレ。しかも女子のである。こんな夜中に誰も入っているわけがないのだからドキドキする必要なんてまったくなかったはずであるが、やはり無断で女子トイレに入るのは緊張した。

 一カ所目ではなにも起きなかった。2カ所目でもなにも起きなかった。四カ所目のトイレは仕切り板やらなにやらが取っ払われていて、それが不気味だった。鈴木が水を流して米沢が跳び上がり、本気の蹴りが飛んでいく。茂は痛がる鈴木と一緒に腹を抱えて笑う。

 ”トイレの貞子さん”がどこのトイレを指しているのか米沢のリサーチでも分からなかったらしい。

 だから一行は校舎の全トイレを経由しながら進んでゆく。片付けのためかやたらと廊下に並べられた机が目に付く。保健室は当然開いていなかった。一階を制覇し二階へ。階段を登ってすぐ左、突き当たりの家庭科室。

「ここの不思議って確かめらんないよな。夕方なんだろ? 窓の外で人が落ちんの」

 七不思議の其ノ四は落下する人影である。夕暮れの家庭科室からその様が見えるのだという。

「そもそも鍵が開いてないだろ、たぶん」

 茂が取っ手に触れ、軽く力を入れると……戸が滑る。

「おい、いきなり開けんなよ……」

 なにかが懐中電灯の光を跳ね返していた。

 包丁――

 鍵付きの棚に収められているはずの包丁が、大きな調理台にそれぞれ二本ずつ整然と並べられていた。その鈍く冷たい輝きに、場が凍えて固まる。

 茂が部屋に踏み込もうとして、なにかを蹴飛ばした。光を向ける。また、包丁。

 呼吸が浅くなる。前に出した足を一歩戻し、ゆっくりと戸を閉め反転する。

 その後は3階の郷土資料室まで行ってもなにも起きなかった。トイレの水が独りでに流れたりなんてしないし、七不思議に則るならば開いているはずの郷土資料室は閉まったまま。

 残すは”歩く人体模型”と"音楽室のリコちゃん"のみである。コの字の校舎の端っこに理科準備室と音楽室は並んでいて、まず手前にある理科準備室の引き戸を鈴木が掴む。

 ここも開いた。

 三人で首だけを突っ込んで、部屋全体を舐めるように懐中電灯を振り、様子を見る。薬品の類は漏れなく消え失せ、実験器具は恐らく廃棄予定の物を置いて姿を隠し、人体模型もそこにはいなかった。理科準備室には薬品っぽい香りと古びたゴムの匂いと、ゴミだけが残っている。

 拍子抜けだった。

 鈴木と米沢がほっと胸をなで下ろす。茂はその横で棚に一つ残されたアルコールランプに視線を落としている。

 あれはきっと、こないだ床にぶちまけた、

 ――カツン、カツン、

 不意にコンクリートの廊下で硬質な音が響く。左後ろからだ。ライトを振る。音の主は……小石?

「お前らか?」

 鈴木が言って、いやと米沢が返し、茂は首を振る。

 月明かりがあるから一々床を照らしてはいないし、学校の廊下に躓く物なんてほとんどないから注意も向けていなかった。

 ただの小石である。もしかするとあれは最初からあそこにあったのかも知れないし、天井が砕けて落ちてきた……というのは流石にないか。

「たぶんあれだろ。換気扇かなんかがガタついたんだろ。ウチも最近夜中にカチャカチャうるさくってさ」

 記憶に在る限り換気扇は家庭科室にしかない。その家庭科室は音楽室の真下だから右の方から聞こえて来なければおかしいし、大体階下からそんな音が聞こえてくるはずもないと思う。いや、階段を抜けてくれば音が届く可能性はあるのだろうか? 丁度階段は理科準備室向かって左手にあるし、なるほど、その線は否定しきれない。

 ふと地面を泳いでいた茂の視線が静止する。小石よりもずっと手前だ。懐中電灯のスイッチを切る。米沢の「おいなんで消した」という声が聞こえる。

 視界の真ん中には月明かりが作り出す人影がその数、1、2、3、

 4、

 見間違いではない。何度も何度も確かめる。4。

 息を吞んだ。

 ところでこれはたぶんどこの学校にでもある七不思議の一つだが、音楽室のピアノは誰もいないのに曲を奏でる。

 幽霊が選んだ本日の曲目は、ベートーヴェンの交響曲第五番「運命」

 一同は振り向いた。

 人体模型と目が合う。

「「「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」」」

 互いの絶叫に驚いて、共鳴するかの如くに声量は増大してゆく。

 まず鈴木が走り出して、それに米沢が続いた。先行く互いの服を掴み合い階段を文字通りに1階まで転げ落ちて、その廊下をとにかく走る。灯りはなく、碌に前も見ていない。

 そして茂は取り残された。

 お化けも幽霊も信じない茂は、強がりながらビビる2人を見て内心笑っていたが、本物の怪異を前にしてその腰はあっさりと抜けた。

 幽霊はいたのである。その存在を信じず、愚かにも深夜の学校へ踏み込んだ僕を迎えに来たのである。

 逃げなければいけないと分かってはいるが、石化したかのように首から下が動かない。尻餅の痛みはずんずんと響いているのに、動かない。

 茂は半身の臓器を曝け出した人体模型から頭ごと目を逸らし、力を入れて瞼を閉じる。

 そういえば怪談に度々現れる"死ぬ"とは、果たしてどのような死なのだろう。首を絞められるのか、四肢を裂かれるのか、心臓を握り潰されるのか、あるいはもっと想像も付かないような死なのか。それは痛いのだろうか、苦しいのだろうか。

 痛いのも苦しいのも嫌である。親には申し訳がないし、先輩とのケリも付いちゃいない。

 やはり逃げなければ。

 せめてこの音が聞こえなくなる場所まで。

 …………なぜ?

 突如意味不明な感覚が介入してきた。なぜ自分はこの音から逃げなければならないのか、論理的な思考回路の外からそんな囁きが聞こえてくる。

 迫り来るような音だが恐ろしくはない。むしろ心が落ち着くような――

 自分は、この音を知っている。

 どうしてすぐに気付かなかったのだろう、と思う。

「先輩」

 立ち上がり、動くはずのない人体模型の横を抜けて音楽室の扉を開く。音が止んだ。

「先輩なんですよね」

 ピアノ椅子の上は空いていた。けれども窓からは風が流れ込み、いつも閉じてある鍵盤蓋は開いたままで、そこに誰かがいたことは一目瞭然である。

 茂は深呼吸をして懐中電灯のスイッチをオンにし、部屋中を見て回す。人影はない。しかし、『いる』という確信があった。

 そういえば探してばかりいて、そこから先のことは全く考えていない。またである。学習能力のない自分が嫌になる。なにも言わなければ先輩はここから消えてしまう気がする。

「あの、先輩、」

 拳を深く握り込んだ。

「一緒に遊びませんか?」

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