第8話
ごすっ――という音のしそうな強打。それを左脇腹にもらった。滅茶苦茶痛い。反射的に右へ転げる。今度は壁に頭を打つ。
「ッ……つぅ」
状況が分からなかった。いったいなにが起こったのか。僕はどうして蹴られたのか。
「なんで」
言ってから気付く。なぜ状況が分からない? お前はさっきまで先輩のピアノを聞いていたはずではなかったか。
芽生えた焦りが不安を煽りそれが更なる焦燥を呼んで、加速度的に茂は青ざめる。やばいやばいやらかした――
既に痛みすら、意識の彼方へと置き去りにしていた。
「ピアノ聞きに来たって言うからちょっと気合い入れて弾いてたのに」
茂は窓の外に目をやる。まだ日は沈んでいない。寝ていた時間は恐らく10分かそこらだろう。
どうしたものかと考えていると、不意に『いつ告白するか』という悩みが数十分ぶりに意識へ昇ってくる。こんな時になにを考えているんだ、と心の中で自分を殴る。
体勢を立て直そうとして脇腹がずきりと疼き、痛かったことを思い出した。
「こんな強く蹴らなくても……」
なんとか絞り出されたのはそんな台詞で、茂は色さえ喪い白くなる。
先輩の方に顔を向けられない。背を向けたまま腰を引き摺り、元の位置へ戻る。
「だってつついても全然起きないんだもん」
立つ瀬が無かった。いや座っているんだが。
「……すみません」
膝を抱えて茂は黙り込む。少女も特に言葉を発せず、しばらくはただ沈み行く夕日のみがひっそりと時を刻んでいた。
――それにしてもここは変わらないな。
落ち着き無く目線をあちこちにとばして回り、茂は思う。
元々森井の音楽室は狭く、その関係で木琴やら鉄琴やらの大きな楽器をほとんど体育館に納めているので物は少ない方だが、それにしたって片付けが進んでいない。学校中の掲示物は既に剥がされてしまったのに日焼けした平べったい音楽家達は未だ壁にピンで留められているし、表紙のもげそうな教本は全部棚に刺さったままだし、机も椅子も見事に減っていない。
教師陣も忙しいのだろうと茂は結論づける。学校を業者に引き渡すまではまだ10日ちょっとあったはずである。ピアノはさておき他は一日あれば片付けられるだろう――
突然のことだった。少女が「ぷっ」と噴き出し、何事かと茂が顔を向けると少女は高らかに笑って、その勢いで出鱈目に押し込まれた鍵盤達が無骨な音の塊を吐き出す。
「ま、いいんだけどさ。昨日の夜に付き合わせたのは私だし、たぶん全然寝てないんでしょ? ごめんね、ちょっと面白かったから」
肩の力が抜けるのが分かった。
演奏が再開され、これ以上無いぐらいに目が覚めていた茂はしかし絶対寝るまいと念を入れて目を見開き、耳を研ぎ澄ます。
あれから茂もいくらかピアノの勉強をして、まだまだ人に誇れるような程度ではなかったが善し悪しくらいは分かるようになった。それでもなお、否むしろ、贔屓目なしに先輩は巧いと思える。繊細な指捌きが生み出す音は一糸の乱れもなく、けれども確かに弾んで、きっと地平線の彼方にまで響いてゆく――
掛け値無しの時間だった。これだけで十分なのではないか、別に告白なんかしなくても良いのではないか。そんな考えが脳裏を過ぎる。
「そういえばこないだ女子が話してるの聞いたんだけど、男の子ってさ、好きな人と一緒にいると眠くなっちゃうらしいよ。キミはそういう経験したことってある?」
その言葉を聞いた途端、心臓が早鐘を打ち出し全身の血管が熱を帯びる。この人はエスパーかなにかか。いや、いつもこんなことばっかり考えているのだからたまたまかち合ったに違いない――そんなことより、
これはもしかしてフリなのか。
「あの、先輩」
呼んでみても先輩はなんら応えない。いつもなら「なに」くらいの反応は貰えるのに今だけは無言。それがまるでなにかを待っているようで、茂の中の迷いは爆発するかの如くに膨らむ。
待ちに待った切っ掛けを先輩の方から作ってくれたに違いない。
言ってしまってもいいのでは、と思う。
今でいいのか、とも思う。
いやビビるな。今をおいてこれ以上の機会がいつあるというのだ。ここで言えないならお前は一生言えないし言わない。行け。
――やる。
茂はそう決めた。
しかしでは、伝えるとするならどんな風に、どんな言葉を用いればよいのだろうか。……しまった。するかどうかにばかり気がいっていて言葉もなにも考えていなかった。場所はここでよいのだろうか? ああ、それはきっと問題ない。この音楽室こそが僕と先輩にとって一番特別な場所だ。じゃあ台詞はどうする。ダメだ……これっぽっちも思い付かない。土壇場で頭をフル回転させたところで、そんな妙案など浮かぶわけはない。ならばいっそ、シンプルに、
「ッ――好きです」
言った。
言ってやった!
なお心臓がバクついて、鼓動が聞こえてくる気までする。五体を興奮と緊張が駆け抜けて、そこかしこに妙な力が入る。ピアノの音が、消える。
「ありがとう。嬉しいよ」
それだけ言って、先輩は静かに立ち上がった。
「ちょっと場所、変えよっか」
先輩は音楽室を出て、理科室の横を抜けるとすぐに右へ曲がった。その先にあるのはもちろん階段で、昇りと降りがあって、あろうことか屋上へ続く昇りを先輩は選んだ。
茂は知っている。学校の屋上というのが憧れで、随分前に行きたいと教師にせっついたことがあるので知っている。あの扉は開かないし、どんな事情があっても開けて貰えない。理由は危険だから。なんでも落下防止のフェンスが劣化していて、破損の恐れがあるらしい。そんなの直してくれればいいのに、と思った記憶がある。
だから開くわけがない扉だった。
しかし、
開いた。
鍵もなにも使わずに、ただノブを軽く捻るだけで、先輩はその扉を開いて見せた。
初めて出る屋上は、いつかの妄想に違わぬ場所だった。
錆びに塗れたフェンスの影が、もう地平線に近くなった陽に引き延ばされて、風化したコンクリートに無数の菱形を描いている。
地べたとも音楽室とも違う風が、全身をゆらり舐めていく。
この風が、身体の奥底で蠢くもやまで拭ってくれればいいのに。そう思わずにはいられない。
「屋上ってさ、気持ちいいよね」
茂はなにも言えなかった。
少女は鳥みたく諸手を拡げて、ゆったりと屋上を歩き回り、時にくるりとターンをする。
「夏は暑いし、冬は寒いけど、私は屋上って場所が好きなんだ。こうやって風を浴びてるといつの間にかわたしも風に溶けてさ、その間だけは全部忘れられたから」
声色は歪なほどに酷く澄んでいた。
忘れられる、とはいったいなんのことだろう。
海馬に腕を突っ込んで掻き回し、茂はそれらしき記憶を引きずり出す。そういえば……両親がいないと先輩は言っていた。事故で死んでしまった、と。きっとそのことに違いない。
紡ぐべき言葉が、見つからない。
「キミは好き?」
その問いにも茂は中々答えられなかった。
好きか嫌いかそんな二択で、しかも答えは「好き」に決まっているはずなのに答えられなかった。
どこか試されている気がしたからだ。
「たぶん」
だから茂は結局、曖昧な返事を弾き出す。
対する少女は「そう」と呟いて、屋上の端っこの方へ。夕日に吸い込まれるかの如く歩いて行った。
ふと立ち止まると、足下の一点を指さし、
「ちょっとこっち来て。ここに立って。わたしの方を向いて」
……ついに来た。
言われるがまま茂は角へ移動し、フェンスに背を向け、恥ずかしさを堪えて少女の瞳に焦点を合わせる。視界の左端でオレンジ色の太陽が揺らいでいる。
ここでも少女は、しばし口を閉ざした。
なんとか向けていた茂の視線はたちまち明後日へ逸れ、のし掛かる重圧と来たるべき言葉に無意識で身構える。ふわふわと地に足が着かない感じがして、この屋上はきっと異世界なのだと茂は思う。
良い返事であれ、悪い返事であれ、早く応えが欲しい――
そしてもう沈む夕日と向かい合った瞬間。
先輩が、口を開く。
「キミはさ、私が一緒に飛び降りようっていったら飛び降りられる?」
予想だにしない言葉だった。
呆気に取られている間にほとんどぶつかる勢いで抱きつかれる。その構図はプールの時に近い。少女の腕が茂の腰に巻き付き、少女の顔が茂の胸に押しつけられている。とても華奢な中学生女子とは思えぬ膂力で、茂は為す術もなく数歩下がり、頼りない背はフェンスに激突し、聞いたこともないような甲高い音を伴ってその背中の感触が間もなく消える。
なにが起こったか詳しくは分からなかったが、フェンスの一画が屋上から消えたのは確かだった。
遙か下の方で、錆びた金属ががしゃりと音を立てる。左右に残された落下防止柵には少し手が届かない。
茂を落下から救ってくれる物は、もうこの屋上にはない。
壁面を沿ってぬるく気味の悪い風が吹き上げる。
落差12m強。上履きの踵は既に屋上からはみ出している。あと一歩と言わずに茂は落ちる。生来初めて覚える真正な死の予感。そこはこの世の淵の1つに間違いなかった。落ちたら最後、呑み込まれて助からない。
頭の中でアドレナリンが炸裂する。
――高い怖い死にたくないその手を離せ、
そして両腕が少女の肩を掴んだところで、世界が止まった。
暴力を躊躇ったのではない。
ただ落下することを危惧した為の静止であった。茂の中に残った奇妙な冷静さが、下手に暴れれば体勢が崩れるやも知れないと告げたのである。
先輩のためなら死ねる、そんな妄想はもはや意識の片隅にもありはしない。
世界はしばらく止まったままだった。
やがて少女は顔を上げる。その寂しげな表情は目があった刹那に捻れて歪み、
「やっぱ怖いよね…………ごめんね」
薄明に、涙が煌めいた。
茂の混乱はより一層加速する。変化する状況にまったくついて行けない。
拘束を解き、手を取って茂を三歩分ほど内に引き込むや否や少女は昇降口へ駆けてゆく。
「先輩ッ!」
足が止まった。
しかし振り返りはしない。少女は茂に背を向けたまま、屋上の中心に立っている。その影は縁まで延びて、首のところでフェンスへ折れる。
「どうしてこんなこと!」
茂はがなった。自分さえ驚くほどの大音声であった。
それでも少女は身動き一つせず、声色もそのままで、
「私の名前言ってみてよ」
「え」
言葉に詰まった――知らない。分からない。茂は”先輩”の名前を聞いていない。
「知らないでしょ?」
「それはだって! 先輩が、教えてくれなかったから……」
茂の声は尻すぼまりに風へ埋もれる。
教えてくれなかったから――
だから、なんなのか。
「つまりさ、そういうことなんだよ。キミはわたしのなんにも知らない。キミとわたしの棲むべき世界は、一緒じゃない」
少女はまた歩き出す。
「先輩ッ!!」
二度目の制止は効かなかった。少女は叩き付けるように戸を閉め、屋上から姿を消す。
完全な置いてけぼり。
しかし茂は戸が閉じきる前には動いていた。
虎の形相で爆ぜるように駆け出し、後を追う。階段にはもういない。三階の廊下は? ――いない。であれば更に下へ降りたはずだと決め付け、三段飛ばしで茂は1階まで降りきる。その先にも目的の影は見当たらない。なら目指すは下駄箱だ。帰るのならば必ずあそこを通るはずであり、全力ならきっと下駄箱では追いつける。
途中で林田が「おい廊下を走るなおい若松」とか言っていた気がした。
呼吸すらも忘れていた。
下駄箱。
一度出入り口まで回り込んで念のために外を一瞥し、息も整わぬ間に下駄箱の群れを縦断する。
誰もいなかった。
靴の一つさえ残ってはいなかった。
「そ、んな」
頭がくらくらした。背を腐りかけた下駄箱へ放り投げ、そのままずるずるとささくれた簀の子に腰を落とす。
ついさっき彼方に見た積乱雲が森井中学の頭上に差し掛かっていて、無数の雨粒達が地にぶつかり死んでいくのを聞いた。
空に太陽の姿は、もうない。
若松茂の胸からは、心臓の音がした。
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