第7話
聞き慣れた旋律を掻い潜って、足下の方から寝息が聞こえてくる。
音の主は考えるまでもなく、ただの一人しかいなかった。
少女は手を止めてその顔を覗いてみる……とても外では見せられないような、とんでもない間抜け面。
――気持ちよさそうに、ピアノを聞きに来たんじゃなかったのか。……こっちの気も知らないで。
半ば投げ遣りに、少女は誰も聞いていない演奏を再開する。
こういう奴は今までにもいた。ピアノの音を聞きつけてかどうかは知らないが、逢魔時の音楽室で私に出会ってしまった奴だ。
大抵は『もう来ない方がいいよ』の一言でよかった。
更に数日音楽室を空けるだけで、残りの奴らも諦めた。
しかし今回はちょっとばかり勝手が違った。
まずファーストコンタクトではなにも言う前に彼の方から逃げ出してしまったし、なのに2週間も3週間も私のことを探し回っていたし、もう来ない方が良いよと言ったら、明日もいますかと来た。
完全にペースを乱されてしまっていたと思う。
それに後もなかった。もう残り少ない、このピアノを弾いていられる黄昏を無駄にするという選択肢は端から存在しなかった。
だから少し手法を変えてみることにしたのである。第三者の圧力を借りるというやり方だ。
例えばびしょ濡れで、しかも夜中に帰ればその親は滅茶苦茶心配するはずだし、同時にかんかんになって怒るはずで、夜間の外出禁止ぐらいは言い渡されてもおかしくない。少なくとも私の親が生きていればしばらくは厳重に監視されていただろう。もしかすると昼間の出歩きまで制限されていたやも知れない。結構な過保護だったことを思い出す。
ああすれば、彼も来なくなると思ったのだ。
――いや、
少女は目を閉じる。
本当は、
本当は遊びたかっただけなのかも知れない。
本当は嘘を吐くのに疲れてしまっただけなのかも知れない。
そして私は、若松茂のことを好きになった。
第一に彼の顔が好きである。中学生にしては落ち着きのある顔だし、どことなく残された年相応の中性的な雰囲気も悪くない。私よりちょっと高いあの背丈だって好みだ。たぶんキスする時に踵を少し浮かせなきゃいけなくて、それはどうしてか昔からの憧れだった。からかうと一々しゅんとするところも、遊ぼうって言ったらにやにやしながら必死に無表情を装う初心さも、毎日夕暮れの始まりきっかりにここを訪れる律儀さも、深入りしてこない察しの良さも――なにより、
彼は二度も私に逢ってくれた。
思えばあの時にはもう好きだったのかも知れない。ああきっとそうだ。むしろそうでなければおかしい。確かに図太い自覚はあるが、好きでもない相手とあんな遊びをできるほどでもない。彼の一目惚れと大差なく、私も二度逢っただけで好いていたのである。
だが、だから――
栗毛の少女は、ハッと音楽室へ意識を戻す。
もう何百何千と弾いて骨の髄まで染み込んでいたはずのメロディは、いつぞ知らぬ間に不協和音と化していた。
少女はもう一度手を止め、今度はさっきより少し深く――深く覗き込む。
初めては、ちょっとだけ甘かった。
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