第6話

 問題、何故茂はわざと補習を受け続けているのか。

 林田周造に嫌がらせをしたいから?――もちろん違う。

 家にいたくないから?――それも違う。

 答えは、学校に行く理由が欲しいからである。

 例えば『デートをしよう』と言ってデートに誘うのと、『友達の誕生日プレゼントを選ぶのを手伝って欲しい』と言って実質的なデートに誘うのとでは全然違うと思う。

 それに補習という言い訳がなければ、びしょ濡れで帰ったあの夜には外出禁止令が発布されていたとも思う。

 しかしまあ……これらの理由は後付けでしかない。本当の理由を端に押し退けるための、茂が考えた言い訳に過ぎない。

 ――先輩に煙たがられてるいるのではないか。

 2度目の邂逅より常にその疑念は頭の片隅にあって、茂の安穏を喰らいながら日に日に領域を拡げていた。

 暇つぶしの一つとして持ってきた飴玉を口の中で転がしながら茂は思考を巡らせる。

 忘れもしない、先輩の言葉――ここにはもう来ない方がいいよ。

 あの日は言葉の綾と誤魔化したが、きっと違う。先輩はアレを意図して言っている。先輩の言動には今でも時折、類するトゲが混じっている。

 だが、なればこそ。なればこそだ。

 あの笑顔は、いったいなんなのか。

 先輩がたまに見せてくれる笑顔だってきっと、偽物なんかじゃないのだ。

 もしあれが偽物だと言われてしまったら、茂は向こう10年、きっと人を信じられない。

 ……わけが分からなかった。

 いつの間にか足が止まっていたことに気付いて飴玉を奥歯に挟み、茂はぶんぶんと頭を振る。学校でお菓子を食べるというのはちょっとアウトローな感じがしてそわそわする。

 やめだやめだ、別のことを考えよう――

 しかしパッと昇ってくる案件なんてものは、大体間近にある不安か期待であり、3秒もせぬ内に今回はもう1つの悩みに意識が吸い込まれていった。

 ずばり、いつ告白するかということである。

 白状してしまえば、茂は例の先輩のことが好きである。布団に潜り込んだらふとした瞬間に先輩のためなら死ねるとかとにかくそういう類の考えが脳裏を掠めていって、そんな状況あるわけないだろバカか、と毎夜六畳半の闇を笑い飛ばすぐらいには、である。

 だからもし他人にそのことをからかわれたとして、撥ね除けることは出来る。鈴木や米沢にだって胸を張って言い切れる。

 けれども、先輩に告げるとなれば話は別だった。

 茂は自分の頬をはたく。わずかの隙に萎れてしまいそうな精神を、そうして奮い立たせる。

 つい最近までは、本当に好きな人が出来れば告白なんてのは容易いものだと思っていた。

 ――怖い。

 しかし今はただ失敗してしまうのが恐ろしい。二度目のチャンスはどこにもないかも知れない。この夕暮れが壊れてなくなってしまうかも知れない。

 それだけは絶対に嫌だった。

 故に茂は考える。勝率はいかほどか。思い出は十分か。

 ――忍び込んだ体育館でやった月明かりだけのバドミントン。制服のまんま入った夜のプール。鍵束を盗って存在すら知らなかった教室を探検して回ったりもしたし、学校の裏山で蜜を使って虫取りをして蜂にきゃあきゃあと騒いだりもしたし、昨日なんかは父親の高そうな望遠鏡をこっそり持ち出して夜通し天体観測をしたりもした。

 これはひょっとして分の良い賭けなのではないか、そう茂は考える。いや待て早まるな。ミスったらそこでお終いかも知れないんだぞ。100パーセントでなければダメだ。

 しかし100パーセントなんて存在しないような気もする。分からない。恋のいろはなど茂には知る由もない。

 せめてなにか切っ掛けがあれば――

 ここまで全部が全部、もう両手両足の指折りでは数えられぬ程繰り返した思考だった。

 かくして茂は虎視、ならぬ兎視眈々ともう2週間も機を窺い続けている。

 空の彼方には雄大な入道雲。

 飴を噛み潰し、茜に侵され始めた音楽室へと踏み込んだ。

「こんばんは」

 先輩はピアノ横の窓から外を眺めていて、茂はそこから一番近い机に座る。

 頭の中には未だ不安と期待と迷いが渦巻いていた。なんだか居心地が悪い。もっと別のことを考えていればよかった。

「ほんとに律儀だよね。いっつも時間通りだ。約束もしてないのに。日が落ちる時間は毎日違うのに」

 先輩はほんのりと苦みを含んだ笑みを浮かべ、スカートを押さえながらピアノの前にそっと就く。

 なにか言わなければいけない気がした。

「好きですから。…………先輩の弾くピアノ」

 なんてことはない台詞のはずである。なのに喉の奥がごわついて、束の間の閑寂に茂は二度も三度も唾を呑み込む。

 ぽんぽん、とピアノ椅子の黒い縁を先輩が叩いた。

「そんな遠くに座んなくてもいいでしょ」

 もう十分に近いと思うのだが、それは流石に近すぎると思うのだが、

「え、あ」

 ぽんぽん。

 迷う余地はなかった。あるはずがなかった。

 吸い込まれるかの如くピアノ椅子にもたれる形で茂は腰を下ろし、緩く膝を抱え、間もなくその頭上で連綿と音が紡がれ始める。

 聞いたことのある曲だというのにはすぐに気付いた。これは一番最初に先輩が弾いていたもので間違いない。あの日の記憶が、泡のように浮かんでは弾けて消える。

 自然に茂の瞼が落ちた。少女の髪の毛が生温い風を受けて、その鼻先をくすぐる。身体の奥の方がぞわぞわする。

 ――あの日とは違うのだ。

 あの日は、もっとずっと遠かった。

 いい香りがする。音が脳ミソの奥にまで染み渡る。

 その感覚は痺れに似ていた。

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