第5話

 森井中学二年二組担任の数学教師、林田周造37歳には最近一つの懸念がある。二週間と三日前、10歳の娘に『パパ嫌い』と蹴飛ばされたのとは別に、気になることが一つある。

「なあ若松」

「なんですか?」

 それは、

「もしかしてお前って俺のこと嫌いか?」

 とある教え子のことだった。

 森井中学二年二組出席番号24番、名を若松茂。父母は共に健在で、妹が一人。部活動には非所属。成績は今年の中間テストまでは上の中で、大体学年15位ぐらいをうろうろしていたようである。素行も良く、問題を起こしたという記録は小学校まで遡ってもなかった。

 それが突然全教科で赤点を取った。この中学の保健、技術、家庭科には赤点が存在しないが、存在するならばそれらも赤だった。

 確認テストで基準点を取るまで終わらない補習は、既に三週間目に突入している。

 生徒名簿を盗み見ようとしていたこともある。

 様子だってどこかおかしい気がする。

 だから、なにかあったのではないか、と林田周造は考えるのである。

「なんでですか?」 

「だってお前、他の奴らはとっくの昔にパスしていったぞ。全校見ても残ってんのはお前だけだ。んだから実は俺にとんでもない恨みがあって嫌がらせにわざとテストミスってんじゃないかと思ってな」

 全て事実である。若松茂は、この二週間数学の確認テストで奇妙なミスを連発している。そんなに難しい問題ではなく、彼なら容易に解けるはずなのに、である。

 林田が導き出した可能性は二つだった。

 一つ目は自分が嫌われていて、嫌がらせを受けているという可能性。

 二つ目は家にいたくない理由があって、言い訳としてこの補習を利用しているという可能性。

 まず前者から尋ねてみた。

 ちなみに林田は、嫌いな物を後に食べるタイプの人間である。

「そんなつもりじゃないです」

 ならば、

「……家にいたくない理由があるのか?」

「いや特にありませんけど……」

 あっさりとアイデアは尽きた。

 もちろん若松が嘘を言っている可能性は考えている。しかし反応を見る限り、どちらの線も薄そうであった。

「お前、なんかやりたいこととかないのか? 夏休みだぞ?」

「特には」

 林田は溜息を吐いて、椅子に座ったまま若松のワークを覗き込んでみる。それは補習の主要素であり、確認テストの前にやるちょっとした問題集である。もちろん林田の自作。

 やはり出来ていた。

「あの先生、そんな覗き込まれるとやりにくいです」

「あ、ああ。すまん」

 林田は腰を引いて、再び椅子にどっかりと体重を預ける。男子生徒のように後ろ向きに座っている。

「あの先生」

 不意に若松が口を開いた。

「なんだ?」

「先生は片付けに参加しなくていいんですか?」

 その言葉で林田は今日の昼休みの、教頭とのやり取りを思い出す。

 ――若松という生徒は本当にいるのかね?

 つまり、架空の生徒を出汁にして学校移転に伴うアホみたいな大片付けをサボっているのではと疑われたのである。これは中々の理不尽だと林田は思う。

「よくない」

「僕、一人で大丈夫ですよ。一人のほうが集中出来ますし」

「んー……しかしなあ」

 補習に合格したかどうか、というのは成績に含まれる。つまりこのしょぼい確認テストも歴としたテストの一つであり、それを教師の監督なしで生徒にやらせるというのはどうなのか。

 林田は二分ぐらい『んー』と唸っていた。

「わかった。んじゃあ今日のテストはここに置いとくから好きなタイミングでやってくれ。終わったらその辺に置いて帰ってくれても構わん。制限時間は20分な」

「はい」

 林田は立ち上がって、椅子を元に戻し、教室の入り口で付け加える。

「俺職員室にいると思うからなんかあったら呼んでくれ。――あ、くれぐれもカンニングはするなよ。親呼ばなきゃいけなくなるからな」

 まあ、カンニングしていたとしてその証拠は見つかるはずがないし、そもそもこいつには必要ないだろうとも思う。

 明日はもう少し突っ込んだことを聞いてみよう。

 そして林田周造は二年二組の教室を後にした。

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