第4話

 森井中学校の野球部には九人しか部員がいない。これは幸い試合が行える人数ではあるのだが、わずかな選択の余地もない為に試合となれば全員問答無用で出場せねばならず、当然そこにレギュラー争いなど生じるはずもなく、入部当時に持っていたであろうなけなしの向上心も既に底を突いて、空気も練習メニューも非常に緩い。顧問がちょっとばかしやる気になったところでそれは変わらない。

 例えるならその雰囲気は父親とやるキャッチボールに近い、と茂は思う。

 だから頼めばすんなりと混ぜて貰える。

「さんじゅうごぉ」

 茂は左手のボールをふわっと宙に浮かべ、右手のバットでカツンと殴った。

「オーライ、オーライ」

 捨てても誰も文句は言わないであろうそのぼろは鋭利な放物線を描き、小気味よい音と共に鈴木健太のグローブに収まる。

 しかしなぜフライを捕る時にオーライというのだろうか。

「おーい! 今日は終わるぞぉ!」

 遠くの方からさっきまでいなかった顧問の叫び声が聞こえ、それに対し各々ばらばらに気の抜けた返事をし、茂もなんの気なしにその流れに乗る。

 グローブを抜きながら鈴木が駆け寄って来た。

「いつもサンキューな、マツ。しかしいいのか? こんな、」

 更に寄ってきて耳元で続ける。

「こんなつまんねえ練習に毎日つきあってもらっちゃってさ」

「気にしなくていいよ。暇だし、むしろ混ぜてもらってるのは僕の方だし」

「そうか。んならいいんだけどな。ほれバット寄越せ。片付けまでさせたらコーチに怒られちまう」

 鈴木は茂が差し出す前にバットをもぎ取って、「じゃーなー」と部室へ駆けて行く。

 その後ろ姿が部室に消えてから茂は歩き始めた。

 空を見上げる。もうすぐ日が暮れる。

 茂は少し急ぎ足になる。

 グラウンドを出たら校庭隅に佇む丸っこい地蔵の横を抜けて一度音楽室の逆側にある下駄箱に寄り、靴を履き替えて教師達に会わないよう3階を通って音楽室へ向かう。学校の空洞化は日に日に進んでいて、昨日あった物が幾つもなくなっていた。昨日も同じことを思った。一昨日も、そのまた前の日もだ。

 音楽室に着いた。

 ――まあ、いるかもね。

 四日前の別れ際に先輩はそう言った。

「わぁっ!」

 不意に右下から声。ちょっと遠慮っぽい動きで、先輩が戸の影から飛び出してくる。

 昨日はこれで頭を打った。

「もう驚きませんよ。さすがに」

 先輩はわずかに残念そうな顔をして、

「そいつは残念」

 ステップでくるくると回りながらピアノ椅子にすとんと座った。

「ちょっと遅れましたか?」

 茂は、少女に一番近い椅子に座る。少女が鍵盤の蓋を開け、鍵に指を置く。

「……別にキミを待ってるわけじゃないんだけどね」

 二人きりのコンサートが始まった。

 音が部屋中を跳ね回り、時にセミの声や風の音と手を取り合って踊る、少し不思議な約10分。先輩の音はあの日となんら変わらないが、こんな調和には気付かなかった。

 こんなに距離も、近くはなかった。

 茂は、夕暮れを漂う旋律にのめり込む。

 ――最初の三日間はただ少女がピアノを弾いて、それを茂が聴くだけの三日間だった。少女はいつも夕暮れと共にやってきて、空に朱がなくなるまで気ままに奏で、去って行く。そんな三日間。

 変化があったのは四日目、つまり昨日で、それまでは茂がどんなに話題を繋いでもそのわずかな切れ間の内に消えていた先輩の方から誘いがあった。

 バドミントンしようよ。

 茂はもちろん乗った。

 宿直が学校中の鍵を閉め切るのを待って、予めロックを外しておいた窓から職員室に忍び込み、体育館の鍵を拝借して学校から脱出する、というのはまるでスパイにでもなったような気がしてドキドキした。正直滅茶苦茶楽しかった。

 バレーのネットを使っていたことには終わってから気付いて、横幅全然違うのにね、と二人で笑った。

 ちなみにバドミントンは3メートルなのに対しバレーは9メートルで、実に三倍も違う。

 少女の指が止まった。太陽が沈没したのである。ぱたんと黒い蓋が鍵盤の上に落ちる。

「知ってる?」

 立ち上がって、右手の人差し指を立てながら、少女が言う。

「なにをですか?」

「明日プールの水抜いちゃうんだって」




 もうなくなっちゃうプールで泳いでみたくない?

 少女はつまりそういう旨の話をした。

 不思議なもので、普段学校のプールに入りたいなんて思わない茂も”もうなくなっちゃう”と添えられるだけでその気になってくる。遊園地の閉園イベントだけにやってくる客の気持ちはこんなだろうな、と茂は思う。それに、

「気持ちいいねー。貸し切りだし、夜だし。やっぱ服が張り付いて変な感じだけど。まあ仕方ない」

 全く下心がなかったとはまさか言えない。

 その場の思い付きなのだから、お互い水着など持っているわけがなかった。

「いつまで準備体操してるの?」

 少女は背泳ぎをやめて、ちゃぷちゃぷと音を立てながら茂の足下に寄る。

 当の茂の精神は既に限界を迎えていた。

 ただでさえ二人きりだというのに、その相手はびしょ濡れで、服はもちろん張り付いた髪までが生々しくって、二人きりなのだから当然この場には他の誰もいなくて、学校のプールなのに空には月が見える。

 たぶんこれは現実じゃなくて夢か妄想だろう。

 脳裏にはそんな考えが浮かんでいた。

「ちょっとここに立ってみて」

 指し示されたのはプールの際で茂は言われた通りに移動する。次の瞬間、

「そいっ!」

 正面からプロレスよろしく腰に抱きつかれて、そのまま重力で引き摺り込まれた。

「わッ!」

 下へ下へ、爪先が沈んだ頃に拘束が解かれて、水の中に置いてけぼりにされる。

 茂にとって一番の問題は突然抱きつかれたことだった。これがもし鈴木や米沢ならなんともなかったろうが、この少女だったのがよくなかった。女の子に抱きつかれたことなんてない。頭が真っ白になってどっちが上かも分からない。口に水が入る。手足をばたつかせてプールの縁と地面を探す。見つからない。そんなに深くはないはずなのに。鼻にも水が入る。痛い。死ぬ。どこ。

 右の手首を掴まれた。

「ごめんごめん、泳げないとは思わなくて」

 頭に冷たい血が流れ込んできて、一気に天地が判然とする。口に残った水を吐き出し、新鮮な空気をむさぼる。

 やっぱりなんてことはない、肩も浸かりきらないような深さだった。

「いや……ちょっとびっくりしただけです」

 ほんとごめんね、と先輩は苦笑いしながら後ろ向きに身体を投げ出して、背泳ぎもとい漂流を再開する。

 ちょっと怒ってみようかとも思ったが、いざ口にしようとするとどうにも声にならなかった。

「あの、その、先輩」

 ところで例の少女は今、ほとんど茂の目線と同じ高さに横たわっている。そしてこの場にいるのはやっぱり二人きりで、辺りに変わった物などは一切なく、よって自然と茂の視線はこの少女に吸い込まれる。微かな星明かりと濡れそぼった夏服が、夜に少女の形を描き出している……なんだかとてつもなくいけないことをしている気がする。

「なに?」

「先輩はどうして夜の学校に?」

 水浸しになってしまったシャツをプールサイドに脱ぎ捨て、茂も少女に倣って背泳ぎをすることにした。クソ田舎らしい満点の夜空が真っ正面に来る。そういえば星空なんて見上げるのは久しぶりである。

「……なんでかって聞かれると難しいけど…………まあここしかないから、かな。あ、夜に来るのは単純に昼寝してるからだよ」

 どこかでコオロギが鳴いている。

「ここしかないって?」


   ♯ ♯ ♯


 ――ここしかないって?

 茂君はそう言った。

 そりゃそうだろうな、と少女は思う。自分だってあんなことを言われたら聞き返す。少し気が緩んでいたと反省する。

 『もうすぐなくなっちゃうからなんか寂しくってさ』とかなんとか、そんなことを言っておけばよかったのだ。

 そうすれば彼は無言で、どこまでかは知らないけれど納得してくれていたはずなのだ。

 しかし私は、そうしなかった。

 なぜだろう。

 少女は考える。

「もしかして変なこと聞いちゃいましたか」

 すぐに返事は思い付かなかった。なんて答えるべきかが分からない。

 そうしていつまでも保留していると、別に彼に非はないのに、その焦りが水を通して伝わってくる。可哀相だし悪い気もするけど、ちょっと面白かった。

 今日は一段と星が綺麗に見える。

 私は、彼に聞いて欲しかったのだろうか。

 ……言ってしまおうか。


   ♮ ♮ ♮


「家にはさ、誰もいなかったんだよ」

 ぽつりと先輩が言った。それは本当に微かな声で、虫の音にも負けそうだった。もし水を一掻きでもしていれば聞こえなかったと思う。

「仕事ですか?」

 んーん、とまた静かな声。

 夜に親が家に帰らない理由といえば、茂には精々2つぐらいしか心当たりがない。一つはもう聞いた。残る一つは、

「随分前に死んじゃった」

 茂はぷかぷかと浮かんでいるのを辞めて、プールの底に足を付ける。

「誰もいない家にいるのって落ち着かないんだよね。だからここに入り浸ってさ、そしたらここにいるのが普通になって、ただそれだけ」

 なにか言うべきだろうか。しかしなにを言ったらよいのだろうか。

 茂が言葉を紡ぐより早く、少女が言う。

「ね、競争しよ。種目はフリー。距離は50メートル。飛び込みはナシ」

 少女が軌道修正をして飛び込み台のあるプールの端へと向かっていく。茂もそれに続く。

「ハンデは?」

 茂が言った。諸事情――といってもまあ、小学校の時分に泳げず恥を掻いたというだけなのだが――で中学こそはと去年一年スイミングスクールに通った茂はそれなりに泳げる自信があったのである。しかも女子は上を脱げない。

「どんなハンデが欲しいの?」

「いや、先輩じゃなくて僕がハンデを」

「さっき溺れてたのに?」

 小学校の頃溺れて先生に助けられた思い出と一緒に、ついさっきのシーンが蘇ってくる。いやでもアレは先輩が悪い。

「あ、あれはほんとにびっくりしただけで、シャツの分先輩は不利なはずだから」

「……なるほど、確かに。……じゃあわたしも脱いじゃおっかな」

「え゛っ」

 変な声が出た。なにを脱ぐというのか。シャツ? えっ、

「冗談だよ、冗談」

 ――それから二人は本当に競争をした。種目はフリー、距離は50、飛び込みなしのハンデもなし。テイクユアマーク、あれ笛がない、じゃあ3、2、1で、ゴー!――

 一本目は茂が圧勝した。

 二本目では少女の50メートルに対し、茂が100メートルという大人げないハンデの下で、しかしまたもや茂が勝利した。本気の泳ぎだった。互いに中学生なので、大人げなんてものは頭のてっぺんから爪先まで、どこにもなかった。

 三本目で、やっと負けた。

 全身を包む疲労感が心地いい。まだ体力は残っている。あと二、三本はいける――

 ――おーい、誰かいるのか?

 意識の外からにわかに飛び込んできたその声は、夜に潜む怪物の鳴き声のように聞こえた。ある意味近いかもしれない。宿直に違いなかった。

 二人はプールから跳ね出て、サイドに放っておいたシャツと靴と靴下を滅茶苦茶につかみ、声と逆側のフェンスを乗り越える。そして走る。

 夜風が気持ちよかった。

 



 その晩家に帰った若松茂は両親にこってりと絞られた。


 少女の思惑通りに、だ。

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