第3話

 この校舎ともお別れか、と茂は思う。何故か去年母方のお爺ちゃんが死んだことを思い出す。

 時刻は午後3時15分。平日なら六限が始まってちょっと経った頃合い。

 特にこれといった当てもなく、眠い目を擦りながら茂は校舎の中をうろついていた。

 寝不足の原因は単純明快である。夜が明けるまでゲームをしていたから。

 しかし茂は夜通しゲームをやっていられるほどのゲーム好きではない。昼寝をしすぎたとか、誰かの家に泊まっているとかならまだしも、少なくとも普段は午前一時にもならない頃に眠気に負けてしまう。だからここには少しだけ事情がある。

 父親に怒鳴られた。母親には泣かれた。本気で驚いた。

 ――茂。遊ぶのはいいがな、これは弛み過ぎだぞ。聞いてるのか!――お父さんがごめんね。なにがあったの? 言い辛いかもしれないけど教えて欲しい……なにかあったんでしょう……?

 そこまでのことじゃないだろう、と思う。たかがテストで、しかもたったの一度、オール赤点を貰っただけである。確かに二日の間隠してはいたがそれだってさしたる問題ではないはずだ。別に誰かに迷惑を掛けたわけじゃない。

 ゲームでもして、気を紛らわせるしかなかった。

 7月26日月曜日の午後3時15分に戻る。

 森井中学の校舎はコの字型の三階建てである。茂の所属する二年二組は、二階のコの字の端っこに位置しており、補習が終わるとそこを始点としてまず二階の廊下をコの字の逆端まで歩いて、突き当たりの家庭科室で一階に降り、今度は逆向きにコの字を制覇して下駄箱の階段を三階まで昇る。三年の教室にはまだ何人か人が残っていた。詳しくは知らないが、森井はいっちょ前に受験対策の補充授業もやっていると聞いたことがあるから、たぶんそれだろうと思う。それとなく中を覗いてみる。

 やっぱり先輩はいなかった。

 残念かと言われれば残念だが、そもそも期待していなかったのでそれほどでもなかった。

 三年の廊下を抜けて、角を曲がり、シャッター通りならぬ特別教室通りを横目に流していく。そこで一つショッキングな光景に出会した。

 内装を剥がしたらこんななのか――

 解体工事は既に始まっているようだった。第一段階として二つの空き教室の内装が無惨に解体されており、残骸が散乱していて、接着剤の痕がぐちゃぐちゃになっていて、そこだけ見ればまるで廃墟。

 茂は夜を想像する。二週間後の肝試しを想像してみる。

 夜だから暗くって、その頃には机も椅子も黒板もなにもほとんどなくなっていて、でも中途半端に残っていて、至る所はコンクリートの地肌が剥き出しになっていて、その中を懐中電灯一本を頼りに歩いていく。物音がする度に鈴木と米沢が飛び上がってお互いを笑い飛ばす。また物音、何気なく振り返る。知らない人――

 ありそうな話だと思う。それぐらい目の前の光景は気味が悪かった。

 頭をぶんぶんと振って茂は少し早足で中央校舎を抜け、最後の区画に差し掛かる。

「あっ」

 思わず声が出た。突き当たりの部屋、つまり音楽室のドアが少しだけ開いているのが遠目に見えた。

 心臓が高鳴るのが分かる――いや落ち着け、いないかも知れないだろ。ピアノの音だってしていない。

 走る。

 先輩は――いなかった。

 誰もいなかった。

 がっくりと肩が落ちて、肩ってほんとに落ちるんだなと茂は苦笑する。きっと吹奏楽部かなにかが閉め忘れていったのだろう。紛らわしいことしやがって。

 茂はそのまま部屋を出て行くのも気恥ずかしくなって、吸い込まれるようにピアノの方に向かっていく。校舎同様にぼろいピアノだと思ってはいたが近づいて見ると存外に立派で威圧感があり、肌触りも高級な感じがする。

 席に着く。鍵盤蓋を開ける。白鍵を一つ押し込んでみる。

 ぷぉん、としょぼくれた音がした。勢いよくもう一度押し込んでみると今度はごわついた感じの音が出て、躍起になって茂は加減を変えながら同じ動作を繰り返す……

 結局どれも先輩の音とは違った。先輩の音はもっと綺麗で、優しくて、切なかったと思う。

 そっと蓋を閉じて立ち上がった茂は視線をしばし泳がせ、次に机に注目する。同じ高さに揃えられた34個の机。

 ここは学校なので机はもちろん飽きるほどあるが、同じ高さの机がこれだけ並んでいるのは音楽室と視聴覚室ぐらいしかない。

 机の寝心地というのはいったいどんなだろうか。

 きぃきぃと引き摺りながら、茂はがたつきの少ない15個の机を選んでくっつけ、窓を開け放ち、ペンケースを枕代わりに急ごしらえのベッド上で大の字になる。

 決して気持ちよくはなかった。むしろ痛かった。特に肩甲骨の辺りが。これなら床で寝た方がずっとマシだと思う。

 しかし、眠れないほどでもなかった。

 ………………

 …………

 ……


 夢。そう夢を見ていた気がする。

 先輩の出てくる夢である。

 状況としては出会ったあの日によく似ていた。

 夕暮れで、先輩はピアノを弾いていて、茂はその傍らに座っている。

 音は以前よりも近かった。

 そして、どこかで聞いたことのある曲だった。

 ――ッ

 茂は目を醒ます。飛び起きて、ピアノの方に視線を向ける。

 黒くてつやつやした椅子の上は、空っぽだった。

 夕暮れはとっくに終わっていて、学校は宵闇に包囲されていた。

 ――なんだ、ただの夢か。

 ここまで来るとストーカーじみていると思う。馬鹿馬鹿しくなってきて、茂は自嘲する。

「わっ!」

「うわあッ!!」

 心臓が爆発するかと思った。変に腕に力が入って、机のベッドが地割れを起こして、それがたまたま尾骶骨の下で、なにがなにか分からない間に地割れに吞まれる。

 尻と後頭部と膝裏が痛い。

「わ! そんなに驚くと思ってなくて、ごめん! 大丈夫? 生きてる? 死んでない?」

「え、あ」

 パニックでなにを言われているのかすぐには分からなかった。ばたばたと滅茶苦茶に辺りを掴んで、くの字の妙な体勢から回復しようと茂は奮闘する。

 右手が地面に触れた。左手も床についた。

 一気に頭が状況を理解する。足で邪魔な机を蹴飛ばしずらし、茂はゆっくりと立ち上がる。

 ――そして、見つけた。

 ようやく見つけた。

「先輩」

 宵の中にあっても見間違えるはずはない。ふわふわ揺れる長い髪と、秋空のように澄んだ瞳。そういえば声は初めて聞いた。

「センパイ?」

 聞き慣れない外国の言葉を、音だけなぞるように先輩が言った。

 次に机越しに右手を僕の頭のてっぺん辺りにかざして、左手を自分の頭の上に乗せる。きょとんとした顔。右手の方が5センチくらい高い。

「先輩に見える?」

「違うんですか?」

 そっか――笑いながら先輩が呟いた。

「キミ、こないだも聴いてたよね」

 覚えていてくれたのか、と茂は思う。茂が少女の顔を実際に見たのは極わずかな間で、ならばその逆も刹那に違いなく、もう随分と日も空いているのに、そう茂は考える。

「もしかしてさ、気に入ってくれた?」

 先輩がスカートを押さえながらゆるりと壁にもたれる。風が吹いて髪がふわふわと揺れる。まだセミが鳴いている。

 気に入ってくれた――?

「なにをですか?」

「なにって、ピアノだよ。違う?」

 ああ、と声が漏れそうになる。

「僕ピアノとか普段あんまり聴きませんしよくわかんないですけど、凄かったと思います。なんか音が一つ一つ綺麗で、思わず聞き入っちゃったというか…………だからその、僕は好きです。先輩のピアノ」

 先輩はくるりと回って、あちこち錆びたサッシを両手で掴み少しだけ前のめりになる。

「そっか」

 少し上ずった声だった。それからしばらく間が空いて、

「そっかそっか、それはよかった」

 コクコクと頷きながら先輩が続けた。

 再びの沈黙が訪れ、茂は机と椅子をなるべく音を立てないようにせっせと戻し始める。気まずい。なにか話題はないだろうかと考える。せっかく先輩と再会できたのに、つまらない奴だと思われたくはない。捻り出せ…………たとえば補習の話なんてどうだろう。それなりに面白おかしく喋れる気がする。いや待て待てバカかお前は。そんなネガティブな話をしてどうするのか。しかも補習なんてダサいことこの上ない。じゃあこないだ鈴木と米沢とバカやった話は? ……ダメだダメだ、先輩の知らない奴の話をしてどうする。

 ああ、そうだ。

「あの、先輩、僕の名前――」

 茂は名乗ろうとして、しかし肝心なところで口をつぐむ。

 何故なら、

「待って」

 少女に口を封じられたから。右の人差し指で、そっと、優しく。

「当てたげる。キミの名前」

 耳が熱くなるのがわかった。そんなこと出来るわけないという考えは上唇に宛がわれた指の感触に吹き飛ばされて、頭の奥の方がぼんやりとして、ただ突っ立っているだけなのに身体に妙な力が入る。

「ヒョウドウマモル」

 全然違った。

「違う」

 先輩はその都度うーんと首をかしげながら名前を並べていく。サトウハルオ――違う。スズキケンゴ――友達に似てる。ハヤシダシュウゾウ――悪い冗談だ。ナリタカオル、違う。違う違う違う違う違う違うワカマツシゲル、違、

 いや違わない。

 合っていた。

「どうして」

 どうして名前を知っているのか。

 偶然かとも思ったがまさかそんなわけはない。苗字だけで数万通りあるはずで、名と組み合わせれば幾億通りあるのか。もしかして自分はこの人とどこか別の場所であっている? だとしたらどこで。少なくとも中学に入ってからの記憶にはない。……小学校が同じだった? 昔通っていた書道教室? それとも去年のスイミングスクールだろうか。違う気がする……

「秘密」

 ころころと先輩が笑った。そしてそのまま散歩するような足取りで出口へと歩いて行く。肩越しに振り返って、

「ところでさ、帰った方がいいよ。そろそろ宿直さんが鍵閉めに来ちゃう時間だし。見つかったらかなり面倒くさいよ。あとさ、その、なんて言ったらいいかな」

 ――ここにはもう来ない方がいいよ。

 間違いなく先輩はそう言った。

「え、それはどういう意味――」

「ここはキミの棲む世界じゃないから」

 言葉を失った。ますますわけが分からなかった。茂が石像になっている間にも先輩は一歩一歩確実に遠ざかっていく。引き戸のレールが踏まれて悲鳴をあげる。

「先輩は」

 少し思い出した、声の出し方。

「わたしも帰るよ」

「いやそうじゃなくて」

「そうじゃなくて?」

「先輩は、明日もここにいますか」

 一瞬、セミすらも黙った気がした。その中で少女は笑い、

「キミってさ、結構バカだよね」

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