第2話

 夏の昼下がりといえば一年で最も暑い時間である。無駄に晴れ渡った空からは燦々と陽光が降り注ぎ、ぼこぼこのアスファルトは鉄板のように熱され、数メートル先が揺らいで見える。

 なにもこんな時間に解散しなくてもよいではないかと思う。

 そもそも今日は1限がなんの面白さも必要もない終業式で、2限がこれから解体する校舎の掃除で、3限がもう耳タコな連絡事項ばかりのホームルームであり、学校に来る意味はなかったように思われる。……今日はもう休みで良かったんじゃなかろうか。

「しっかし面倒くさいよなあ。せっかくの夏休みなのに補習とかさぁ。あー、ヤだなあ」

 鈴木はあるのかないのか分からない消えかけの白線の上でふらふら綱渡りをしている。

「サボればいいんじゃないのか」

 そう言ったのは委員長の米沢だった。まこと委員長らしからぬ台詞だ。

「それが出来りゃいいんだけどなあ。親がなぁ。あー……怒られっかなあ」

「分かってるならちゃんと勉強しろよ。お前長期休暇の度に同じ事いってるだろ」

 鈴木が交差点で立ち止まる。数歩戻って、

「面倒くさい――」

 助走を付け、

「――じゃんっ」

 跳んだ。停止線の上にすとんと着地する。体操選手の真似をしてみせる。

 米沢が「はあ」と息衝いた。

「ところでさ、マツまで補習喰らってたじゃん。珍しいよな。いっつもまあまあ成績イイのにさ。なにとなにとなにをしくじったんだ?」

 立ち止まって反転し、鈴木が叫ぶように言った。周りには誰もいないが、大きな声で言うのはやめて欲しい。

「お前じゃないんだから二つも三つも赤点取るわけないだろ」

 米沢が言った。

 鞄にねじ込んだ封筒を取り出してみる。中身はまだ見ていない。

 まあ、わざわざ見なくてもなんて書いてあるかは想像がつくのだけれども。

 しかしもしかすると一つぐらい免れているなんてこともあるやも知れない。

 開く。

 英・国・数・理・社

「全部」

 は、という声が二カ所から上がった。 

「いや…………は?」

 もう一回米沢が漏らす。半分ぐらい裏返っている。更にタイムラグがあって、

「よっしゃ勝った! 俺3つだけだぞ!」

 鈴木がガッツポーズを極めていた。

「とんでもなく低レベルな勝利だな……なにがあったんだ?」

 ホームルームの林田のように、米沢が心配げな顔をする。

 当然の疑問だとは思う。テストなんて皆一週間ぐらいしか勉強しないし、それは教師側も分かっているので普通に一週間も勉強すれば全教科50点ぐらいは取れるように出来ているのである。

 しかし今回は全く勉強をしなかった。

 テストがあるということを、テスト前日まで忘れていた。

「さっきもいったじゃん。なんにもないって」

「いやいや嘘吐くなって。あ、おばちゃんから揚げ1コップ!」

 帰路の中途の弁当屋で、米沢が立ち止まった。

「このクソ暑いのにから揚げなんて喰うのかお前」

「から揚げの旨さに気温は関係ないだろ」

「いやなくはないんじゃないか?」

 ちなみに、ここのから揚げは紙コップに入って出てくる。だから単位がコップ。

「100円でいいよ。今日はから揚げ50円引き。二人は?」

「じゃあ僕も」

「なら俺も」

「ヨネも食べるんじゃん」

「やかましい」

「まいど」

 おばちゃんがクスクスと笑う。100円と交換に品を受け取る。揚げたてのようだった。

「学校変わってもたまには来てね」

「え、はい」

 鈴木は早速から揚げを口に突っ込んで「はーい」と応える。

 なんで知っているのかと一瞬驚いたが、よくよく考えればそれほど不思議でもない。帰り道に寄る学生は幾らかいるからその人達から聞いたのかも知れないし、この距離なら『工事期間中には騒音、振動の発生が予想されます。周辺住民の方々には大変迷惑をお掛けいたしますが、ご容赦下さい』みたいな回覧板が回ってきているのかも知れない。

「そういやここと瑞原って逆なんだな。学生あんま通んなくなっちゃうけどおばちゃん大丈夫なのかな」

「関係ないんじゃないかな。あそこの常連って近所のサラリーマンとか土建屋さんのはずだよ。大体うちの学生って300もいないし、その内あそこに寄るのは30人もいないだろうし。一日の平均は10にもいかないんじゃない?」

 ほっは、はらいいんひゃへほと鈴木。

 悪趣味なカラーリングの丸っこい車が対向車線を抜けていく。

「なあ、肝試しいかね?」

 鈴木が言った。

「肝試し?」

「そうそう。なんか面白そうじゃね? 解体前の学校に忍び込んで肝試し。時期はお盆がイイかな。…………お盆っていつだっけ?」

「8月13から15だ」

 ぼそっと米沢が返事をする。対して鈴木は朗らかに、

「んじゃ14でいこう」

「いや俺は行くとは言ってないが」

「なんだびびってんのか?」

 米沢の顔がわずかにむっと歪む。空になった紙コップが握り潰される。

「……親に聞いてみるよ。若松は来るのか?」

「うん」

 そうか、と言う米沢は少し残念そうに見えた。

 その後は、学校の七不思議で盛り上がった。切り出したのはもちろん鈴木で、

 ――なあうちの中学の七不思議って知ってるか? まず一つ目がトイレのサダコさんって奴で、男子トイレに入ると女子トイレの方から水流す音が聞こえるらしい。二つ目は深夜に突然鳴るチャイム。三つ目は音楽室のリコちゃん。ピアノが勝手に鳴り出すアレだ。四つ目は保健室の、確かカタギリさんだったかな――あと3つは? というかなんでトイレなのに貞子なんだ、花子じゃないのか? リコちゃんとカタギリさんって誰だよ。カタギリさんはいったいなにをするんだ?――

 そんな感じの会話だったと思う。とにかく膨大なツッコミが飛び交った。

 分かれ道で米沢が「すまんが今日は帰るわ、宿題をとっとと終わらせたい」と言って、鈴木が「流石万年二位は違いますなあ」と茶化して、しばらくじゃれあい、米沢が抜けた。

 そこまで来れば、二つ目の分かれ道もそう遠くはない。

 ほどなくしてY字路のとんがりにぶつかった。

「ワリいけど今日は俺も帰るわ。このあとすぐ部活があってさ。去年の今日は休みだったんだけどな。ほら、うちと瑞原って合併すんじゃん? まあ今年度いっぱいは校舎借りてるだけで、本格的な合併は来年度なんだけど、同じグラウンド使うことになるし、両方合わせたら2チーム作れるようになっから今年は真面目に練習したいってコーチがさ」

 鈴木はふさふさだが、野球部である。

「ま、たぶんうちがショボすぎて恥ずかしいってのがホントの理由なんだけどな」

 二人でセミに負けじと笑い、ばいばいと言って別れた。

 最後のから揚げを口に放り込んだ瞬間、

 ――なあマツぅ!

 そんな叫びが民家をの上を山なりに飛び越えて来る。

 茂は直ぐに返事をしなかった。何故なら口の中に物が入っていたから。

 間もなく茂はこのから揚げに感謝することになる。

 ――お前の悩みってさぁ、恋かぁー!?

 カリカリの衣の破片が気道に入って、茂はなるたけ小さい音で咽せた。

 よくもそんな台詞を、よくもそんな大声で――

 聞こえなかったことにして、走った。

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