彼方より黄昏にて
@kazuythor
第1話
――ぶち、
キーン、コーン、カーン、コーン
ロートルらしいぼけた音でスピーカーが三限の終わりを告げ、林田が口を止める。ただのチャイムではない。7月23日金曜日が三限の終わりを告げるチャイムである。
それはつまり、日常と夏休みを隔絶するはずの鐘の音である。
しかし2年2組の担任である林田周造はまだホームルームを閉じる気配がなかった。チャイムが鳴る前に何の話をしていたか忘れてしまったらしく、小首を捻りながらたっぷり20秒ぐらいかけてようやっと思い出した連絡事項を暑そうに並べていく。
その頃には音に引っ張られて現実に返っていた茂も、再び記憶の中に心を沈めていた。
現実と平行して、過去が文字通り再生する。
……7月6日の午後6時55分、時刻ははっきりと覚えている。数字としてではない。茂の海馬にはまるで写真のようにあの時の光景が刻まれていて、その中の時計が件の時刻を指しているのである。音も温度も感情も、あの時の全てが身にこびり付いている。
窓の外はまるで炎に包まれているようで、真っ黒に焼け焦げたカラスがつうっと空を切った。
彼女の両手が閃く――
「んじゃあ今から成績不振者とプチ二者懇談をするので呼ばれた奴は前に来るように」
「「「「「えぇ」」」」」
「えぇって言うな。元々お前らがだらだら掃除してたのが悪いんだ。すぐ終わる」
先輩の、たぶん先輩の華奢な指がモノクロの鍵盤を舞台に踊り、それに応じて黒い巨体が歌を歌う。日の光の加減でコーティングの剥がれているところがぶち模様に見える。風が吹く度に栗色の長い髪の毛がふわふわとたなびく。天の羽衣のよう。
聞いたことのない曲だった。
「鈴木ぃ。おい鈴木ぃ早く来い」
ちなみに若松茂には音楽に対する造詣などこれっぽっちもない。
いつも人に言われるまま流行の曲を聞いているだけであるし、ピアノのような高尚っぽい音に関しては授業と式と、CMぐらいでしか聞いたことがない。
だから知らないのは当たり前で、転調を曲の境と勘違いしたりもした。
世間一般として良いかどうかなど分かるはずはなかった。
茂はその場に釘付けだった。
やがて夜の帳が降りて、地上を焼き付くさんばかりの炎は地平線の彼方に鎮まる。
10秒ぐらいの出来事だった気がした。
10時間ぐらいの出来事だった気もした。
実際には10分そこらの出来事だったはずである。
明らかに曲の途中で先輩の手が止まり、振り返った。
――目があう。呼吸と一緒に時間も止まる。秋みたいな眼差し。心臓が弾けるかと思う。
瞬間、痙攣のように左手の力が抜けて、持っていた金属トレイがこぼれ落ちて、試験管の割れる音がコンクリの廊下に響いた。その音で、炎色反応を実演するためにわざわざ教室まで器具を持ってきた理科の中村に後片付けを押しつけられてしまっていたことを思い出す。元々隣の理科準備室に用事があったのだ。
やぱいどうしようと思う。怒られるかなと不安になる。虚脱と焦りと羞恥で頭の中がごちゃごちゃになる。
気付いたら階段を駆け下りていた。
どういう思考の下に逃げるという判断を下したのかだけはよく覚えていない。ただいつの間にか階段を降りていて、何で逃げているんだろうと我に返ってからも足は動いて、一階に辿り着くと階段裏の物置に潜り込んだ。
「――若松ぅ」
我に返ったというのは嘘である。全然冷静じゃなかったと思う。
階段裏の物置に詰め込まれたがらくたは埃でもこもこしていた。息が落ち着いてくると、急にセミの声が気になるようになった。
報告するかは置いといてやっぱ片付けはしなきゃな、なんて思った後に、どの面下げて戻るんだ、と踵を返した。既に十分間抜けなのは間違いなかったが、今戻ってももっと酷いことになるとしか思えない。待とう。せめて先輩がいなくなるまで。教師はこんな時間にあんな場所をそうそう通らないはずだ。もし見つけられてしまっていたら素直に謝ろう。問題はどれくらい待つか。10分? 15分?
「――おーい若松ー」
それから茂は、きっかり900数えて事故現場に戻った。
先輩は目論見通りにいなかった。ほっとした半面、少しだけ残念な気もした。
三階の理科準備室前もとい音楽室前には何も残っておらず、綺麗さっぱり片付いていて、音楽室には鍵も掛かっていた。
「――聞いてるかぁ、若松ー」
しかし今からしてみれば、恥ずかしいとかなんとか言わず直ぐにあそこに戻るべきだった――そう茂は思う。
と、言うのも、あれから2週間経っているにも関わらず、例の先輩にはいまだ会えていないからである。
翌日は、三限が終わると同時に三年の教室行ってみた。茂は二年であり、先輩は先輩であるからして、すなわち彼女は三年の教室にいるはずだと考えたからである。けれどもこの試みは存外挫かれることになった。
――用事がないならあんまりじろじろ覗くなよ。受験でカリカリしてる奴もいる。
これは三年の学年主任に言われた台詞である。二階の教室を割り当てられている二年生が三階の廊下にいるのは目立つらしくて、失せろという視線にもいくらか自覚はあった。なので二日目は横目に三往復して先輩を探した。休み時間に行くとどうしても何人か捌けてしまうので、三日目はトイレと称して授業中に行ってみた。
しかし、いなかった。
たった3クラスしかないのに。100人もいないのに。
土日を挟んで気を取り直し、翌週の月曜には2年の教室を見て回った。同日に1年の教室も見てみた。
しかし……、いなかった。
そんなことあるもんか、と茂は思う。
だってあの日見た少女は、間違いなくこの学校の制服を着ていたのである。
まさかあの長髪を見間違えることなんてないとは思ったが、もしかすると髪型を変えているのかもしれない。そうしてもう一度全校を見て回って、先輩が欠席している可能性に行き当たって、職員室に忍び込んだ。
テスト前日だった。試験問題を盗みに来たのではという疑いを掛けられて茂はそれを思い出した。
出席簿の中身は見れなかった。
つんつん。
背中に感触。
「なに?」
振り返ると後ろの席の米沢が虚空を指先でつつくような仕草を繰り返していた。その動きの意味はつまり、前を向け――
「痛」
向き直る前に何かが脳天に降ってきた。蝉時雨がクラス一同の笑い声にどっと押し潰される。
「痛いことあるもんか。ただの紙だぞ」
無地の封筒を突き出される。受け取って、ひっくり返してみても無地。
「なんですか、これ」
「補習への招待状だ」
「え、面倒くさい」
言うや否や、今度は小脇に抱えていたハードカバーの出席簿兼日誌が飛んでくる。本当に痛い。
「思っても言うな。……お前最近ずっとぼけーっとしてるけど大丈夫か? 体調が悪いのか? それとも悩みか?」
悩み。確かに悩みといえば悩みで間違いない。が、
「そんなんじゃないです」
「ほんとか?」
大体、こんな場で聞かれて答えられるような奴なんてそういないだろ、と思う。
「はい」
「なら、いいんだけどな。なんかあるなら遠慮せずに言えよ。…………おい鈴木! お前はもうちょっと反省しろ!」
爆笑していた右前の鈴木がぴしゃりと黙る。
林田周造は出席簿になにやら書き込みながら教壇に戻り、片手でぱたんと閉じる。
「お前らはまだ中学生だから留年はしないし、補習も強制じゃない。なのでサボるのはお前らの勝手だが、喰らった奴はなるべく出席するように。どうせ受験には要るんだからな。あとその封筒は持って帰って絶対親に見せろよ。ゴミ箱とか道とかに捨ててんの見つけたら呼び出すぞ。関係ない奴らは待たせて済まなかったな。それじゃ米沢」
はい、と後ろの席から声がする。米沢辰典は一学期の委員長である。
「起立」
木とゴムが擦れて嫌な音があちこちを跳ね回る。
「あ」
林田が零した。
「すまん一つ言い忘れてた。お前らも十分知ってると思うがこの校舎は8月末には解体されるので忘れもんをしないように。大事そうなもんは見つけたら保管することになってるがここだけの話ほとんどは焼却炉に直行だ」
世間では少子化が席巻している。それはここ緑山の地も例外ではなく、むしろ田舎なぶん一層酷く、うちの中学に関してはだだっ広い校舎の3分の1も使っていない。昔はこの校舎の全部を使っていたんだと考えると気が遠くなる。そういうわけで、数年前から近隣の瑞原中学校と合併する話が出ていて、去年うちの校舎のとある床が抜けて――実際は明らかに詰め込み過ぎな物置きの床が割れただけで他の箇所はさほど危なくもなかったのだが――その話が加速した。
なにかとうるさい時代である。
「9月からは瑞原中学の第三校舎を使うからな、間違ってこっちに来るなよ。どうせ入れんが遅刻するぞ。ほんじゃ米沢」
「気をつけ、礼」
――ありがとうございました。
夏休みが始まった。
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