読書犬はアンコクバサミの夢を見るか
有村 光修
プロローグ
本の話をしよう。
果たして人は一生のうちに、どれだけの本を読むことが出来るのか。はたしてこの世の全ての活字を読み、己に取り込むことができるのか――――なんてことは考察するまでもなく、無理、無謀そのものだ。
だが、だからといって挑戦しないこともない。
届かないその物語の端――――すべての物語の終着点。
小説でも漫画でも料理本でも雑誌でも絵本でも説明書でも攻略本でも、嗚呼もういっそなんでもいい。無限に近い選択肢がそこにあり、無限の数だけ本があり、増えて、消えていく。
それらに挑み続けることは、俺たち読者の、暗黙の了解だ。
さて、ちょっと前置きが長かったか?
本題に入ろう。
とりあえず、落ち着いて聞いてくれ。
「てめぇら一人も動くんじゃねぇ!」
今、目の前で強盗事件が起こっている――――うん、やっぱり落ち着いてもう一度、手元の本から顔を上げてみてみよう。
厳ついフード付きジャンパーを被った男が、喫茶店の店主に刃物を向けて食って掛かっている。「いいから出せと言ってるんだ」とか猟銃持った手で何かを要求している男に対して、恐怖からか声も震える老人の店主。
おかしい。いったい何があったというのか。とりあえず頬をつねって、目の前の現実とは思えない光景が夢かどうかをチェックする。
ちょっと痛い。
どうやら夢ではないようだ。
なんだこれ、今日は厄日か何かだろうか。高校の授業も終わり、放課後。いつものように近所の本田書店で買い物をして。行きつけの、ボロボロな店の、マスターの爺さんが不愛想の、まっずいコーヒー出してくる店で本を読んでいただけなのに。ちなみに俺はこの店、雰囲気が好きで利用しているが、それは置いておいて。
好みの作家の最新刊を片手に意気揚々。内容に感動して、ちょっとBLに目覚めかけたりして、そしてふと財布とか学生証とかを落としたことに気付いて焦った、そんな矢先でこの状況。
関わり合いになりたくはないのだが……。
「――――――――」
さっきからカリカリカリカリと音を立てる、俺の後ろの座席に座っている相手が問題だった。
動くんじゃないと言われてるのに、それを無視して何をやっているのだろうか。音からして万年筆か何かのような気もするが、だとしたらこの状況で大した集中力だろう。正直、振り返って注意すればいいのだが、犯人がちらちらと視界を店内に向けるのでそうもいかない。目つきは剣呑、視線は行ったり来たりと定まってなく、明らかに普通じゃない。ちょっとしたことで機嫌を損ね、お陀仏にされる未来が見える。
なのでとりあえず視線をそらしたのだが、運悪く俺のそれと相手のそれが重なった瞬間があった。何見てるんだ、とかそんな感じの叫びとともに、あえなく俺は立たされる。
立たされたついでに、ちらりと後ろの相手のことも見てみた。
横目なこと、椅子の位置関係もあって、相手の姿は見えない。だが黒い髪ときれいな手先、そして万年筆とかは見えた。
手元には原稿用紙の束。テーブルの右、通路側に白紙。窓側に書き上げたもの。
そんな状態で、ひたすらカリカリと書いていた。
「――――――――ん、」
時々、咳払いのような声が聞こえる。どうやら女性らしい。そしてまた、それくらいしか彼女の人間らしい面はそこに存在していなかった。ただひたすら、一心不乱に、まるで機械か何かのように、彼女の手は何かを書いていた。
背後から見ても一目でわかる、鬼気迫る状況――――彼女はただひたすらに、書くという一時をもってして、周囲にあるすべてを無視していた。
書く。それはきっと何より尊い行為であるが、誰にでも理解される行為ではない――――。
俺には、いっそ神秘的なものにさえ見える彼女のそれは、強盗犯にはどう映るか。
「煩いんだよ、嘗めやがって――――!」
強盗が近づいてきて、猟銃を向ける。
ただそんな状況にあって、彼女がどうしていたかは語るまでもない。
無視されたことに顔を紅潮させる男。怒りに歪むその顔からは、明確な殺意がにじみ出ていた。猟銃を構える強盗犯。
俺は――――気が付いたら、そんなつもりなかったはずだったが、男に向けてタックルをしていた。
右肩からぶつかり猟銃を奪い取ろうとする。倒れた男も、いきなり俺が抵抗してくるなんて予想してなかったんだろう、驚いた様子で引き金を引いていた。手元につかんだ鉄の感触がぶれ、熱を帯び、そして弾丸が跳ね返ったのか右足に熱と痛みが掠る。
何やってるんだ、俺――――そのまま銃を奪おうともがく俺と、奪われまいとする強盗。
そのまま転がり、お互い譲らず、店内で暴れることになる。テーブルだったりカップだったり壁だったり、ぶつかったり壊したりを繰り返しながら暴れる俺たち。
いい加減離せと、二発目の発砲。シーリングファンに跳ね返った音と、爺さんの叫びが聞こえる。
正直、体がそろそろ限界だった。
だが離すわけにもいかない。
離したらコイツ、俺か爺さんかあの何か書いている女かは知らないが誰かしら撃つだろう。バカじゃねぇかと。言っちゃ悪いが爺さんはともかく、俺は本を読みたいだけだし、彼女は書きたいだけなのだ。
悪いがほっといてくれ。
別にアンタの邪魔にはならなかったんだから。
そして彼女もまた、何か本を生み出す人間なのかもしれないのなら――――。
そんなことを考えながら抵抗していたものの、ついに限界が来た。腹に衝撃、倒れたと同時に頭を打ち、立ち上がれない。痛みよりも瞬間的に平衡感覚が狂ってる感じがする。打ち所が悪かったのだろうか、ともかく立たなければいけない。もうこの状況で立ち上がれなかったら、完全敗北しかないじゃないか。
「――――あばよ」
そして強盗の嘆息と同時に、腹部に猛烈な熱と喪失感を感じた。
一瞬遅れて炸裂音と衝撃が響き、俺の体が投げ出される。
窓際の席まで、その衝撃で放り投げられた俺。
死に際に色々感覚が失われたり、走馬燈が走ったりとかあるけど、あれ絶対嘘だ。
だって、別に俺、今、何もないもん。
ただただ、妙に体が寒くなっていく感覚があるだけで。
そんな状況で最期に見えたのは――――黒髪の女性のシルエットと、カリカリといまだテーブルの上で動いている万年筆の一部だけだった。
※
「って、読まずに死ねるか――――――っ!」
「うひゃ!? か、和兄!」
絶叫して目覚めた俺を一番最初に出迎えたのは、知らない天井と妹の絶叫だった。
運が良いのか悪いのか、重症だったものの一週間足らずで復活したらしい。ただし病院は都内でなく、俺の両親と妹が暮らしてる岡山の方だったが。
最初、さすがに家族も復活した俺に涙したり色々とあったのだが、しかしだんだんと呆れていった様子だった。その理由は、なぜ家族三人がこっちに来てるのに俺だけ都内にいるのかということに他ならない。つまり、
「都内じゃないと本の発売日が一日ズレるじゃないかッ」
ただただそれだけの理由で、仕事の都合でこっちに来る両親に逆らい都内に残留するため色々試行錯誤した俺であった。
以降は入院してるにも関わらず、いつもの調子の俺に段々と疲れていったのだろう。妹はともかく、両親は段々とあきらめの境地に入り、都内で世話になってる親戚の住谷さんに連絡をしていた。
結論から言うと、入院期間は一月もなく俺は都内に戻れることになった。
いくつか条件は付けられたが、まぁそれくらいは許容範囲だろう。
なんたって本が読めるのだから!
そうだよ、死んだら本が読めないじゃないか。ありとあらゆる本を読みたい、読みたかった俺は、おそらくそれで地獄とかから舞い戻ってきたのだろう。そんな訳で、腹に開けられた風穴や脳のダメージなど知らんとばかりに、今日も俺は本を読む。今は回復につとめなければならない時期で安静にしていると言われるのだが、安静にしていたら読書ができない禁断症状で俺が死ぬ。というか、きっと本が読めない俺は死んだ(意味不明)。
そうだ。読まなければならない本がある。
死してもなお、舞い戻って読まなければならないほどの本がある。
いまだ胸の奥にあるこの熱。なのだが――――――。
「――――何を読みたかったんだっけ」
目立った記憶障害はないものの。
何か重大なことを忘れたまま、俺の時間は流れていった。
読書犬はアンコクバサミの夢を見るか 有村 光修 @kuro-h7ro
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