バレンタイン特別編(上)

 私がシゲ――茂雄さんと出会ってから、最初に迎えるバレンタインデーが間近に迫っている。

 思えば、バレンタインデーに好きな人へチョコをあげるなんてしたことがない。

 一応、付き合っていた男性もいたが、バレンタインの前に別れていた。

 故に、私は今、バレンタインデー用のチョコレートが並ぶ陳列棚とにらめっこしているのである。


「……種類多すぎ」


 この売場に来てから、既に1時間近く経過している。

 有名店のものからネタに走ったもの、手作り用のものなど様々なチョコが並んでいるが、普段の私であれば適当に選んでさっさと買って帰っている。

 私はそこまで優柔不断じゃない。そう思っていたのだが、いざ真剣に選ぶとなると優柔不断になるらしい。


「シゲ……茂雄さんは苦手なものは無いみたいだから何選んでも大丈夫だろうけど。やっぱり、美味しいものをあげたいし」


 独り言を呟くが、近くに人はいないので大丈夫だろう。

 そうでなければ恥ずかしくて憤死する。


「せめて試食できれば……いや、ここはいっそのこと手作りしちゃうか?」


 手作りなんて中学生の時に友チョコを作って以来、したことが無いのだけれど。


「……何で、二十歳過ぎて乙女みたいなこと考えてるのやら」


 大学を卒業してからというもの、トキメキを感じることが少なくなった。

 友人には「早々に枯れ始めたか」と茶化すように言われたが、案外そうかもしれないと思っていた。

 そう、思っていたのに。

 自分は今、ドキドキしている。

 茂雄さんはどんなチョコが好きで、どんなふうに渡したら喜んでもらえるのか。

 彼のことを考える度、胸がキュッとして苦しくなる。

 以前付き合っていた人に対しては、こんなこと無かったのに。


「……あ、もうこんな時間。イベクエ周回する約束してたのに、遅れたらまずい」


 結局この日も私はチョコを買うことができなかった。

 こんなことをもう一週間近く繰り返しているというのに。

 色んな店を巡れば巡るほど選択肢が増えてしまったので店を一つに絞ったところまでは良かったが、そこからチョコを選ぶまでが長かった。

 せっかく、バレンタインデーに会う約束を取り付けたのに。

 その日に想いを伝えようと決心したのに。

 自分がこんなにも臆病だとは思わなかった。

 しかし、そんなことを考えてもバレンタインデーはもうすぐそこまで迫ってる訳で。

 あと数日で選ぶことができるのかと、私はため息をつきながら帰宅した。


◇◇◇


 この年のバレンタインデーは土曜日で適当に理由をつけて会う約束をするのは簡単だった。


「ごめんなさい、私の買い物に付き合わせてしまって」


 私が新しいPCが欲しいから選ぶのに付き合って欲しいと茂雄さんにお願いして、私達は家電量販店に行った。

 デートに行くような場所で無いのはわかっているが、あからさまにデートに誘うのは恥ずかしくて、そんなことを口走っていた。


「気にしないでください。僕としては時子さんに頼られて嬉しいです」


 もう何度も会っているというのに、相変わらず彼は敬語のままだ。

 私がなかなか踏み出せずにいるのは、このよそよそしい態度も原因かもしれない。

 いや、それは言いがかりか。結局は、私が意気地無しなのがいけないのだ。


「……それにしても、カップルが多いですね」


 家電量販店を出た後、どこかでお茶でもしようとなってカフェにやって来たのだが、どこもかしこもカップルと思しき男女で席が埋まっている。

 バレンタインフェアもやっているし当たり前といえば当たり前なのだが、この状況で私達がここにいると……。


「いらっしゃいませ! ただいまバレンタインフェアでカップルのお客様にプレゼントをお配りしております!」


 店員の女性がそう言って、私達にプレゼントを渡そうとしてきた。


「ち、違います!」


 思わず、力強く否定してしまう。

 ちらりと茂雄さんを見れば、顔を赤くして俯いていた。

 店員に謝られたものの、何となく微妙な空気のまま私達は席に着く。

 特に会話も無いまま注文をして、お互いに黙って俯いたまま品物が運ばれてきた。


「……あ、こ、ここのデザート美味しいのよ。一口どう?」

「あ、はい。いただきます……」


 何とか振り絞った話題がこれだ。

 自分にもっと会話力があればと、これほど後悔したことは無い。

 彼は私が注文したパンケーキを一口分切り分け、口に入れた。


「ん! 本当だ、とても美味しいです!」


 その瞬間、パァッと彼の顔に花が咲く。

 それを見て、私の心臓が大きく跳ねた。

 彼はいつだってニコニコしているけれど、この満面の笑みの破壊力たるや、乙女ゲーの攻略対象ですら敵わないだろう。

 あくまで私の中では、だけれど。


「でもこれ、時子さんには少し甘くありませんか?」

「え? まあ、確かに甘めだから私はブラックのコーヒーと一緒に食べてるわ」

「ああ、そうなんですね。僕はブラックは苦手なので、飲める時子さんを尊敬しますよ」

「尊敬って、そんな大袈裟な……」


 ふと、私は気づいた。


「……私、茂雄さんに味の好みを教えたことなんてあったかしら?」

「教えていただいたことはないですけど、何度かお会いしていますし、貴女のことを見ていればわかります」


 ――それはつまり、会う度に私をずっと見ていたということ?

 口をついて出そうになるそれを、私はコーヒーと共に流し込んだ。

 流石にそれは自意識過剰が過ぎる。

 茂雄さんは他人をよく見ている人で、私以外の人でもこういうふうなことができるのかもしれない。


「凄いわね。見ただけで人の好みがわかるなんて」


 動揺を顔に出さないよう、努めて冷静を装う。

 持っているカップが小刻みに揺れているのには気づかないで欲しい。


「いえ、それは、その……」


 何故か、彼は言い淀んでいる。

 何その反応。

 期待なんてしたくないのに、ちょっとだけ期待しちゃうじゃない。

 彼はしばらく視線を泳がせていたけれど、不意に自分の荷物を見つめた後、私に視線を戻した。


「……あ、あの。実は、お渡ししたい物があります」


 彼はカバンの中から綺麗にラッピングされた長方形の箱を取り出し、私へ差し出した。

 あからさまなハート模様の包装紙に、私の頬が熱を帯びていくのを感じた。


「……開けてもいい?」

「は、はい、もちろん!」


 早る胸を抑え、受け取った箱の包装を丁寧に解く。


「……万年筆?」


 箱の中身は万年筆だった。

 一見すると黒っぽい青色に見えた軸は、箱から取り出すとまるでステンドグラスのような透明感がありながらも深みのある青に変わり、ペン先の金と相まって神秘的な美しさとなっている。


「綺麗……」


 思わず、そう呟いていた。

 ハッとして顔を上げると、彼と目が合った。


「気に入ってもらえて良かったです」


 彼はほっとした様子だった。


「万年筆に凝っていると聞いてましたから、チョコレートをお渡しするよりこちらの方が良いかと思いまして」

「チョコレート?」

「はい。確か、『逆チョコ』と言うのでしたか? 最初はチョコレートにしようと思ったのですが、時子さんは甘い物がそんなにお好きではないようでしたから」


 照れたように笑う彼。

 けれど、その頬の赤さよりも、私の顔の方が真っ赤になっているに違いない。

 茂雄さんは時々私が驚くようなことをしてくる。

 本人はきっと意識していない。でも、その度に私の胸はドキドキする。

 吊り橋効果なんかじゃない。そんな言葉で片付けたくない。

 ああ、本当に。何故、こんな恋する乙女のような気持ちになってしまうのか。


「……それを、何故私に?」


 言った後で、なんて意地悪な質問だろうと思った。

 返答なんて、彼の反応を見ればわかり切っている。

 だから、これは明らかな誘導尋問だ。

 しかし、彼がそれに対して怒ることはなく。

 ゆっくりと深呼吸した後、意を決したように口を開いた。


「――好きです、時子さん。僕と付き合ってください」


 彼の目はどこまでも真っ直ぐに私を見つめている。

 きっと、今の私はどうしようもなく情けない紅潮した顔を晒しているのだろう。

 誘導尋問のような事までして言わせたかった言葉なのに、その返しが口から出てこない。

 ただ、「はい」というだけ。

 それなのに、私の口は開いては閉じを繰り返すだけで、音を発してくれない。

 再び、無言の時間が流れる。


「……あの、お気遣いなく。ダメならダメと、はっきり断わって下さっても僕は気にしませんから」


 私の態度に痺れを切らした……というより、勘違いした茂雄さんから発せられた言葉に、私は狼狽する。


「あっ、ここのお金は僕が払いますね。時子さんを困らせてしまったお詫びです」


 そう言って、彼は立ち上がった。

 ――違う、違うの……!

 彼を引き留めたいのに、身体が動かない。声すらも出ない。

 彼はレジでお会計をし始めていた。

 引き留めるには、もうここしかない。

 震える足を叱咤して、乱暴に荷物を掴んで彼に向かって駆け出した。

 彼は丁度お会計を終え、店から出ようとしていた。


「ま、待って!」


 彼の腕を勢いのままにガシッと掴む。


「と、時子さん?」


 困惑気味の彼に、ちゃんと説明しようと、自分の想いを伝えようとする。

 けれども、頭が混乱してなんと言えば良いのかわからない。

 店の入口で起こった出来事に、段々と周囲の目が私達へ向く。

 焦りに焦った私は、元々今日渡す予定だったチョコを取り出した。

 それを、彼に無理やり押し付けるような形で渡す。


「これは……?」


 そして、彼が唐突に渡されたそれに気を取られているうちに。

 私は全力ダッシュでその場から逃走した。

 後ろで私の名を呼ぶ声がした気がするが、もう後には引けない。

 走り出した足は止まらず、私は彼の反応を見ずに帰宅してしまったのだった。

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