野良犬の喰うところ(13)

 俺が古里井酒造を訪れたのは、東都から戻ってきた二日後のことだった。


 店先で打ち水をしていた二奈さんは、俺の姿に気がつくと無言で会釈をした。


「少し、良いですか」


「何でしょう」


 乾いた声。嫌われたものだと内心自嘲の笑みを浮かべつつ、俺は照屋さんから預かってきた例のわら半紙を二奈さんの胸元に突き出した。


「宏人さんのねぐらからこの脅迫文が見つかったそうです」


「穏やかではありませんね」


 一つ一つ丁寧に読んでから、二奈さんはそう言ってわら半紙を俺に返した。その目には軽蔑の感情――あるいは軽蔑の感情に似せた何かの光が宿っていた。


「宏人さんはかつて何かの罪を犯した。そしてそのことを知った何者かから、五十海を出て行くよう脅迫されていた。それが、宏人さんの失踪の真相です」


「罪、ですか」


「ええ。時効のない罪――つまるところは、殺人罪です」


 二奈さんは一層の軽蔑を表すかのように目を細めた。


「夫が人殺しだったと、そう仰るんですか?」


「はい。唯華さんを殺害した本当の犯人は、宏人さんです」


「……わからないことを言いますね。姉は野犬の群れに襲われたんですよ?」


「野犬の群れが唯華さんの体を餌食にしたことまでは否定しません。しかし、唯華さんを死に至らしめたのは、彼らではありません」


 俺は強い口調で言い切って、二奈さんの瞳をまともに見返した。視線が交差したのは一瞬のことで、すぐに彼女は視線を逸らして虚構の光を俺から隠してしまう。


「順を追って話していきましょう。十六年前のあの日、自分の意思で古里井家を出た唯華さんは、その足で宏人さんの元へと向かいました」


 その時宏人さんがどこにいたのかはわからない。わからないが、人目に付かない場所に車を止めて唯華さんが来るのを待っていたことは間違いない。


「宏人さんは唯華さんをハイエースの後部座席に乗せて、毛布か何かで身を隠すように指示すると、予定の時刻に古里井家に着くよう車を出しました。そうして、唯華さんを車の中に残したまま何食わぬ顔で二奈さんたちの前に姿を見せたんです。重要なのは宏人さんが古里井家を訪れた時、彼のハイエースには唯華さんが乗っていたということです。おそらく後ろの座席で毛布か何かをかぶって身を隠していたのでしょう。唯華さんは誰にも気づかれることなく、午後九時頃までずっとハイエースの車内に潜んでいたのです」


「ますますわかりませんね。被害者であるはずの姉が何故そんなことを?」


 顔を背けたまま、二奈さんが言った。


「確かに唯華さんは殺人事件の被害者ですが、ある計画の首謀者のひとりでもあったんです」


「ある計画、とは?」


「その前に、唯華さんは家庭教師の宏人さんと秘かに付き合っていたのだと思います。しかし、当時唯華さんはまだ高校生です。両親が大学生の宏人さんとの交際を認めてくれるはずもありません。悩んだ末に彼女が出した答え――それが駆け落ちでした」


 一度口を閉ざして二奈さんの横顔を見るが、何の変化も見られない。それで俺は二奈さんが、これから俺が話そうとしていることの何もかもをずっと前から知っていたのだと、改めて確信する。


「午後九時。唯華さんは計画に従って、父親の元に『野犬の群れに襲われている』と嘘の電話を掛けました。近隣の山に意識を向けさせるのが狙いでした。捜索する側としては、どうしても近隣の山など狭い範囲の捜索を優先せざるをえませんからね。その間隙をついて、まずは唯華さんが宏人さんに用意してもらった隠れ家に潜伏し、折を見て宏人さんも行方を眩まし、隠れ家で合流するというのが、唯華さんの作り上げた駆け落ちの計画でした」


 当時の彼女よりもずっと年上になってしまった俺からすれば、随分と浅はかな計画に見える。残された者の気持ちを踏みにじる残酷な計画だとも。そして、彼女の浅はかな計画は、より残酷な悪意によって踏みにじられることになる。


「唯華さんがどれほど宏人さんのことを愛していたのかはわかりませんが、一つ間違いなく言えることは宏人さんの方は唯華さんのことを愛しているどころか疎ましくすら思っていたということです。宏人さんはだから、唯華さんが作り上げた計画を利用して、全く別のシナリオを進めることにしたんですよ」


 俺は緊張の余り喉の辺りが微かに震えるのを自覚しながら、続けた。


「唯華さんからの電話で揺れる古里井家をよそに、宏人さんは秘かにハイエースの車内へと戻り、そこで唯華さんを殺害します。おそらくはロープか何かを使って絞殺したのでしょう。それから再び屋内に戻った宏人さんは、午後十一時まで古里井家の人々と行動を共にした後、着替えを取りに帰るという口実で古里井家を出て、ハイエースで沢郷の山道へと向かいました。そして、あらかじめ野犬の餌付けをしておいた場所まで来ると、車を止めて、山道沿いの斜面に唯華さんを遺棄したんです」


 森村は野犬に唯花さんを襲わせるのは確実性に欠けると判断したが、それは唯花さんが生きていればの話だ。


 遺体となった彼女ならば、容易に野犬の餌場へと運び出すことができる。遺体となった彼女であれば、野犬は容易にその肉を漁ることができるのだ。


「ほどなく唯華さんの遺体は野犬の群れによって発見され、その餌食となりました。捜索隊が見つけた時はもう、体中食い荒らされていたそうです。もちろん、首まわりもそうでした」


 森村は『首筋を噛まれた時に強い負荷が掛かって頚椎を損傷し、それが直接の死因になった可能性もある』と言ったが、首に強い負荷が掛かった真の理由は、野犬に噛みつかれたためではなく、宏人さんに首を絞められたためだったのだ。


「唯華さんの遺体を野犬の群れに与えることで、絞殺の痕跡を消し去ると共に、自らの罪を彼らになすりつける――それが、宏人さんの狙いでした。ただし、遺体の損壊が想定よりも少なく、唯華さんの死因が絞殺と特定された場合にも備え、唯華さんからの偽りの電話を利用して自分のアリバイを確保することも忘れませんでした。唯華さん殺害後、宏人さんがしばらく古里井家に留まっていたのもアリバイ工作の一環だったんです」


 森村は二奈さんには午後七時二十分から午後十一時までのアリバイがあることを指摘したが、裏を返せばそれは宏人さんにもアリバイがあったということに他ならない。唯華さんが沢郷の山中で死亡したという前提に基づく偽りの現場不在証明だったわけだが。


「十六年前の事件に関する俺の推理は以上です。ここまでは間違いありませんか?」


 二奈さんはあくまで白を切り通すつもりらしく、汚らしいものを見るような目つきで俺を見て「何故私に間違いはないかと尋ねるんですか?」と聞き返してきた。


「宏人さんを脅迫していた人物が二奈さんだからです」


「身に覚えのないことです」


 自分の夫が実の姉を殺害し、その罪を逃れるために野犬の餌にしたという俺の説明に対して何ら感情の変化を見せず、事件とは無関係な自分を演じ続ける――そのこと自体が異常だということに、二奈さんは気づいていないのだろうか。あるいは気づいてなお、そう演じ続けているのだろうか。


「脅迫状の一つに『時を欺きし者に、しかし、時効はない。』とありました。確かに宏人さんのシナリオにはアリバイ工作も含まれていました。しかし、繰り返しになりますがアリバイ工作はあくまで唯華さんの死因が絞殺と特定された場合に備えてのものであり、唯華さんの死因が野犬の襲撃によるものと判断されている状況ではさほど意味のないものです。にも関わらず殊更アリバイ工作の存在を仄めかしたのは、脅迫者自身がアリバイ工作に強い関心を持っていたからではないでしょうか。三年前の時点においてその条件に最も適合する人物は、宏人さんのアリバイ工作によって自身のアリバイが保証された人物――二奈さんです」


「詭弁ですね。そんなあやふやな理屈では、自白を引きだすことなんてできませんよ」


 その通りだと思う。しかし、俺にはどうしても聞き出したいことがあった。


「俺は刑事じゃありませんからね。それならそれで構いません。ただ、最後に一つだけ質問をさせてください。脅迫者はいつから宏人さんが唯華さんを殺した犯人だということを知っていたんでしょうか?」


 二奈さんはしばらく考え込んだ後で、自分の手のひらを見つめて、言った。


「――夫との縁談は私が望んで進めたことでした」

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