オーバーライト(3)~鬼ごっこ
案の定、家には誰もいなかった。
総合病院の副院長である父は院内政治で、動物愛護団体の役員である母は野良猫の保護で忙しくしている。いつものことだ。
ぼくは冷え切った夕食を電子レンジで温め直す間に、津川先輩とその家族のことについて考える。
先輩には幸さんという七歳年上の姉がいた。三歳からピアノを習い始め、高校時代には県内のコンクールで優勝するほどの奏者にまで成長した幸さんは、家族やピアノ教師の勧めもあって、東都の音大に進学し本格的に音楽を学ぶことになった。
音大でも幸さんの技術は高く評価され、プロの楽団から声が掛かったことも何度かあったそうだが、答えはきまってノーだった。幸さんは五十海市に戻って音楽教師になることを望んでいたのだ。
けれど幸さんはその望みを叶えることなく逝ってしまった。
東都の自宅アパートで手首を切って自らの命を絶ったという。
幸さんが大学四年生の夏のことだった。
遺書はなかった。
学業や友人関係で悩んでいた様子もなく、自殺の一週間前には幸さんと同じく都内の大学に進学した高校時代の同級生が主催した同窓会に出席さえしている。同窓会を主催した女性は後に『地元の私立中学から内定をもらったことを嬉しそうに話していました。とてもこれから死のうと思っている人間には見えませんでした』と語ったという。
その頃、津川先輩は中学三年生。幸さんの影響でピアノ教室に通ってはいたものの習い事の域を出ることはなく、せいぜい学校行事の合唱会で伴奏をするくらいのものだったという。周囲からもさほど期待されてはおらず、先輩自身も高校に進学したらすっぱり止めようと思っていたそうだ。
しかし先輩は実の姉の死をきっかけにピアノを続ける決意をした。
先輩の両親はあまり良い顔をしなかったようだ。特に母親が自宅でのピアノ演奏を嫌がった。それで先輩は五十海高校に進学してすぐに会員一人きりのピアノ同好会を起ち上げた。
さいわいブラスバンド部は校舎から少し離れたところにある音楽堂で活動しているので、放課後に音楽室を使う部活はいない。だから先輩は入学以来毎日のように音楽室でピアノの練習にいそしんでいるという。
先輩が以上のことをぼくに話してくれたのはそれほど昔のことではなかった。
何故話してくれたのかはわからない。当時は新聞報道もされたと言うし、志紀でも知っているくらいだから今更人に話すことに頓着はないのかも知れないが、もしかしたらぼくが努めて軽い調子で尋ねたつもりの質問の裏に、張り詰めたものを感じ取ったのかも知れない。
――先輩がピアノを弾こうと思ったきっかけは何だったんですか?
――始めたきっかけは昔すぎてよく覚えてないなぁ。でも、続けることにしたきっかけなら、覚えているよ。
と、テーブルの上に置きっぱなしにしていた携帯電話が唐突に震えだした。
ディスプレイを見ると、電工部OBの
「おー佐村、元気してるか?」
甲高く、そして電話機を遠ざけたくなるほど大きな声。
昨年までの電工部長は相変わらず元気そうだ。
「ぼちぼちですよ。それより珍しいですね。先輩が電話をかけてくるなんて」
「いやー、この間のゴールデンウイークに帰省したときはお前に会わずじまいだったからなあ。寂しくしてるんじゃないかと思って電話したのよ」
「会わずじまいもなにも、連絡をよこさなかったじゃないですか」
そう言ってから気が付いた。
「もしかして部室に来たんですか?」
「おうよ。誰もおらんから一人さびしーく、タブレットでFGOやっとった」
「それは寂しいですね」
「他人にしみじみ言われるとつらいよ?」
それからしばらく話題はぼくの工作物のことになった。
ろくでもない先輩だが知識は豊富でアドバイスも的確だった。
「――俺に言えるのはこんなとこだな」
「ありがとうございます」
「それで、実はもう一個要件があってだな」
「何です?」
「お前さん、黒歴史ボックスは知ってるか?」
「部長の代のメンバーが残していった段ボール箱のことですね」
「中を見たことは?」
「触ったこともありませんよ」
そもそも卒業式の後で『これは我々世代のタイムカプセルだから絶対に開けるなよ』と言って、ロッカーの奥に突っ込んでいったのはあなたでしょう。
「そうかぁ」
先輩は電話の向こうでため息を吐いたようだった。
「どうかしたんですか?」
「なかったんだよ」
「何がです」
「黒歴史ボックスの一番奥に隠しておいたんだ」
「だから、何を」
「スタンガン。自家製の、超強力なやつ」
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