六月二十三日(火)
オーバーライト(1)~異国から
今日もまた音楽室からピアノの旋律が聞こえてくる。
ぼくは半田ごてを持つ手を止めて耳を澄ます。伝統ある
当時を知る卒業生は口をそろえて学校側の横暴だと主張していたが、おかげで
子供の情景。
作曲家ロベルト・シューマンが、後に彼の妻となるクララ・ヴィークから『あなたは時々子どもみたいなところがある』と言われたことをきっかけに作ったとされる全十三曲からなるピアノ曲集。
津川先輩は秋に開催されるコンクールに向けて、電工部室の真下に位置する音楽室で、毎日この曲集の練習に取り組んでいる。課題曲となっているのは第七曲のトロイメライだけだと言うが、始めと終わりに一回ずつ通しで弾くというのが先輩のいつものやり方だった。
――最初から好きだったわけじゃないからね。ひとつひとつ、確かめながら進みたいんだ。
シンプルだけどどこか幻想的な第一曲が終わり、より明るくリズミカルな曲調の第二曲が始まった。このまま聴き入っているのも悪くないとは思うけれど、ぼくにはぼくの居場所がある。何より放課後という時間はいつだって、望むほどには長くないのだ。
窓から顔を出して、一度深呼吸をする。振り返れば、工作机の上で未完成のユニバーサル基板がぼくの帰還を待っていた。
いつの間にかピアノの音が聞こえなくなっていたことに気付いて顔を上げると、壁時計の針は六時を回っていた。窓がすっかり茜色に染まっている。夏至を目前に控えて随分と日が長くなってきているようだ。
ぼくは一度大きく伸びをすると、卒業生が置いていった古いコーヒーメーカーの電源を入れた。溶けたはんだの臭いが充満する部室でコーヒーの香りを楽しむことは難しいが、それでも作業後の一杯はたとえようがなく魅力的だと思う。
タンクにたっぷり二杯分の水を注ぎ、コーヒーができるのを待つ間に、工作机の上を整理する。そのうちに階下から足音が聞こえてきた。
「
「どうぞ」
ぼくはドアを開けて、声の主――津川先輩を招き入れた。
「いつもうるさくしてごめんね」
「いつもうるさくないですよ。コーヒー、飲んでいきますよね?」
「ありがとう」
そう言って、
どういうきっかけで始まった習慣なのはかわからないが、津川先輩は毎週火曜日になると、こうやってお茶請け持参で電工部に遊びに来てくれる。
「クッキーですか?」
「ううん、今日はマカロン。佐村君の口に合うと良いけど」
柔らかく微笑んだ拍子にシトラスミントの黒髪がふさりと揺れた。顔見知りになった頃にはまだ耳たぶのあたりまでしかなかった髪が、この頃はセーラー服のカラーの中程まで伸びてきている。先輩のすらりとした長身と思慮深そうな瓜実顔には、今の髪型の方が似合っているとぼくは思う。
「マカロンに口を合わせますよ」
あまり独創的な言い回しじゃないなと思いつつ、ぼくは先輩を椅子に座らせた。
「ネズミさんの制作は捗ってますか?」
「亀の歩みです」
ぼくがコーヒーをカップに注ぐ間、津川先輩はいつも工作の進み具合を聞いてくる。こういう時にあまり専門的な話をするヤツはモテないのだと、
「制御装置でてこずっているんですよ。FPGAを使えば簡単に実装できるんですが、どうせ作るならとことんまでアナログ電子回路に拘りたくて」
ぼくが作っているのはモーターとバッテリーを積んだ小さな四輪ロボットで、先輩がいうようにいわゆるマイクロマウスとよく似た外見をしている。
もっとも、この四輪車には複雑な迷路を探索するような能力はない。その代わりにDVDサイズの円盤を回す機構と光センサが取り付けられていて、完成した暁には光センサで円盤の色を読み取って様々な動作をする予定だった。
あくまで完成すれば、だが。
「電子工作のことはよくわからないけれど、譲れない一線って大事だよね」
「コーヒー豆については妥協の産物ですけど」
「そう? 私は嫌いじゃないけどな。佐村君のコーヒー」
微笑んで、先輩はマグカップを受け取った。
それからしばらくは静かな時間が続いた。
先輩がマグカップを口元に運び、ぼくがマカロンをかじる。
感想は必要なかった。静かでいることが、答えだった。
心地のよい静寂を破ったのは、ドタドタという激しい足音だった。
勢いよくドアが開き、一人の少女が姿を見せた。
「おーす! 入るよっ」
糸川志紀は今日も元気だった。
「って、まーた
そしてまた、残念でもあった。
「えろえろはしていない」
「お邪魔してます。志紀ちゃんもマカロン食べる?」
「ありがたやありがたや。和馬さんよ、あたしにもコーヒーぷりーず」
そう言った時にはもう、志紀は空いている椅子に腰を落ち着かせている。肉付きが良い割に小柄で妙にすばしこい彼女の動きにはどこか猫めいたところがある。
うっすら茶色がかったベリーショートは丸顔によく似合っていると思うし、大きな瞳をなぞる二重まぶたに美術的考察を巡らす男子も少なくないと言うのに、部室でのこのだらしなさだけはいかんともしがたい。
「たまに来たと思えば良いご身分だな、幽霊部員」
「ほほほ。そんなことを言って良いのかね? 我こそは電工部の救い主であるぞ」
志紀の言っていることはあながち嘘ではない。三月に先代部長を含む多くの部員が卒業したことで、電工部は定員割れによる廃部の危機に瀕していたのだ。新入生の獲得もまったくの不首尾に終わり、ぐったりと机に突っ伏しているぼくに横から「和馬の部活に入ってもいいよ」と声を掛けてきたのが志紀だった。
「動機が不純なんだよ。動機が」
彼女は以前から文芸部とバトミントン部と放送部と手芸部を掛け持ちしていて、どの部にも時々しか顔を出さないというスタンスをとり続けていたのだ。掛け持ちする部が多ければサボる口実も作りやすい。それが志紀流の処世術というやつだった。
「ひどーい。困っているクラスメートを助けようというあたしの純粋な気持ちをそんな風に言うなんて」
ま、そういう一面も持ち合わせてはいるんだろうけどな。
とは言え直流と交流の区別もつかない人間が電工部に入るというのは正直どうかと思うぞ。
「ミヤちゃん先輩もピアノ同好会を部に格上げするときは相談してくださいね。マカロンひとつで手を打ちますよ」
「もうふたつ目に手が伸びてるじゃねーか」
ぼくは志紀のためにコーヒーを入れてやりながらぼそりと言う。もちろん津川先輩はにこにこと笑っているだけだ。
落日の電工部室で時折開かれる
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