この日は稽古のあと、ポスターとチラシの制作に付き合わされた。商店街が静まり返り、街灯だけが人魂のように浮かび上がる深夜零時過ぎ、僕は大学のサークル棟から徒歩十分の距離にある落窪さんの部屋に連れ込まれた。

「色味はこれでいいと思うんだが、タイトルなんかのフォントはどうだ? 俺はA案がいいと思っている。デザインはある程度シンプルなほうが作品への想像を掻き立てるからな」

 Macのデスクトップパソコンをのぞき込むと、ポスターデザインの中央には、顔の半分を白い花で覆われた愛子ちゃんの顔が大きく配置されていた。背景は赤と緑の絵の具をまき散らしたようになっていて、どこか海辺に打ち砕かれた西瓜を想起させた。デザインは、都内の制作会社でデザイナーとして働く知人に頼んだそうだ。落窪さんはこうして、自分の作品にプロの大人を巻き込むことがしばしばあった。そういえば、去年の自主公演ではプロのPAを呼んでいたと思う。落窪さんの人脈からの発注ということもあり、これらの費用は落窪さんのポケットマネーから出ているようだが、落窪さんがどこから金を捻出しているのか、僕は時々不思議になる(落窪さんがアルバイトをしているという話を僕は聞いたことがない)。

「確かに、あまりおどろおどろしいのはイメージに合わないよね」

「お前もそう思うか? そうだろう。第一、あの芝居がおどろおどろしいと思うか? 俺にはむしろ爽やかさすら感じられるんだが」

 落窪さんの部屋は殺風景だが、決して散らかってはいない。むしろ整然として生活臭を感じさせないところが、逆にどこか薄気味悪かった。僕のアパートなど、稽古が佳境を迎える時期は散らかり放題だ。部屋には日付が変わったあとに寝に帰るくらいなのに、そのたびに芝居関係のこまごまとした書類や小道具の材料なんかを持ち込んでしまって、いつの間にか倉庫に布団を敷いて寝ているような感じになる。最終的には、もはや布団を敷きっぱなしにして、その周りの空いたスペースへパズルのように荷物を埋め込んでいくような状態になるのが常だ。むろん、掃除機をかける時間なんてないから、これらの荷物には必然的に白い埃がうっすらと積もる。一度、突然やってきた母親にそんな部屋を見られて、叱られるどころか呆気にとられ、言葉一つかけてもらえなかったこともあった。小骨が喉に引っかかるような罪悪感はあるが、本番が終わるまでは、荷物の山も、それらを覆う埃の膜も、見てみぬふりを決め込むことにしている。

 だが、落窪さんについていえば、そのようなところは一切ないようだった。書類やノートがあるべき場所に片付けられたデスク、塵ひとつ落ちていないフローリング、哲学や社会学、芸術学についての専門書が背筋をそろえて並ぶ本棚、水滴すら残っていないキッチン、客を待つホテルのようにメイキングされたベッド。落窪さんはヘビースモーカーであるはずだが、部屋は煙草の臭いすらしなかった。落窪さんの部屋には何度か来たことがあるが、そのたびに、この人は息をしているのだろうかという気になってしまう。トイレにだって行くかどうか怪しいと思うくらいだ。

「決定だな。A案で入稿するぞ。おい、せっかくだから酒でも付き合え」

 落窪さんは音もなく立ち上がると、冷凍庫から氷を出して手際よく二つのグラスに転がした。そして、黒いカラーボックスの下段から、半分ほど残ったブラックニッカの瓶を取り出して、それぞれ半分ほど注いだ。落窪さんはグラスを掲げ、下から底をのぞき込むと、手の中でそれをもてあそぶようにしてカラカラと音を立てた。ウィスキーの琥珀色が、落窪さんの顔の上できらきらと波打った。

 重要な決定をするとき、落窪さんはこうして僕に声をかけるとが多い。信頼されているということなら素直にうれしいと思うが、結局は今回のように、落窪さんが独りで決めることだ。それでも落窪さんは、自分の決定に対する客観的承認をどこかで求めているのだろうと僕は考えている。人が思っているよりも、この人は弱気なのではないだろうかと、ふと思うこともある。

「愛子はいい“アイコン”だよ。女優としてはどうかわからないがな」

 僕はウィスキーの最初の一口を口に含みながらうなずいた。確かに、愛子ちゃんの役者としての実力は未知数だ。彼女は落窪さんが学内で見つけてきて、まるでナンパか、あるいは誘拐みたいにして、強引にうちの劇団に引き込んだのだ。理学部に咲く白い椿のような十九歳。愛子ちゃんには女性というより、少女のような面影があった。

「愛子ちゃんも、落窪さんがいなくなったらどうするんだろうね」

 事実、落窪さんの自主プロジェクト以外で愛子ちゃんが舞台に立ったことはない。それに、舞台に立ったとしても、つぶやくように一言二言しゃべるか、あるいは今回のように、立ったまま何もしないような役しか演じたことがない。舞台上の彼女に期待されているのは、何らかの原義的な“アイコン”としての役割であって、その演技力ではないのだった。愛子ちゃんが実際、どんな人柄なのかということもあまり知られていない。僕が知っているのは、小声が意外に通ることと、おそらく手先が器用であり、そのためか本公演のときには小道具を作ってばかりいるということだけである。華奢な後ろ姿で、時に透き通るような声を聞かせながら小道具に息を吹き込むその姿は、劇団のあらゆる男性陣を釘付けにしたのだった。それだけでも、落窪さんが愛子ちゃんを見つけてきた甲斐はあったというものだろう。

「なんとかやるだろう。劇団は嫌いじゃないみたいだからな」

 実は、愛子ちゃんと僕には一度噂が立ったことがある。とはいっても、あくまで僕が片思いで、愛子ちゃんはまったく意に介していないという筋書きだ。不本意だが、一方で致し方ないという気もしていた。何せ、劇団随一のダークヒロインが相手だ。僕も正直なところ、それほど悪い気もしていなかった。ただ、個人的に少々厄介だったのが、その頃の僕には付き合っている女の子がいて、しかも彼女は同じ劇団のメンバーだったことだ。僕とその子が付き合っていることは、劇団の誰も知らなかったから、話が余計ややこしくなっていた。結局、二ヶ月足らずで噂は沈静化して、僕と付き合っている彼女との間にも特段問題は起こらなかったが、彼女とは結局、半年後に別の理由で別れてしまった。

 今思えば、愛子ちゃんにとっても鬱陶しい一件だっただろう。彼女には年上の――おそらく社会人の――恋人がいるとまことしやかに語られていた。僕はスーツを着てネクタイを締めた大人の男性が、愛子ちゃんのことを人形のように可愛がる姿を想像した。ごつごつとした指がゆっくりと、しかし暴力的に彼女の黒髪を撫でる様を想像して、思わずぞっとした。

「この花は合成?」

 気分を変えたくて、僕はチラシについて当たり障りのないことを口にした。

「合成に決まっているだろう、馬鹿。こんなでかい花があるものか」

 馬鹿なんて言うことはないだろう。理不尽に罵られたことが悔しくて、僕は残りのウィスキーを一気に飲み干してやった。胸の下が熱くなってひりひりした。

「なんで椿にしたの?」

「花なら何でもよかったんだよ。ただ、季節的に見合った花が椿しかなかったんだ」

 その椿は、僕のイメージとは異なる八重咲のものだった。そういえば、落窪さんは一時期、八重咲の花に強く惹かれていた時期があったようだ。あるときは、石垣の塀から木香茨の花がのぞく一軒家を見て、突然インターフォンを押し、マイク越しにあの黄色い花は何だと問いただしていた。出てきた初老の婦人は目を丸くして立ちすくみ、少しはまともそうに見えるであろう僕が、近所の大学の学生であることを説明しても、訝しげな表情を崩さなかったことを覚えている。またあるときは、キャンパスで花弁を散らす八重桜の木の下に立ち、何かぶつぶつ言いながらその花を見上げていた。僕がその姿を見かけたのは昼食に行く前だったが、食事を終えて庭へ出たあとも、落窪さんはまったく同じ場所から動かずに独り物思いにふけっていて、見ているこちらの口元が思わずほころんでしまったものだった。創作のモチーフとして、落窪さんは意外と花を気にかけているのかもしれない。僕なんて、落窪さんに言われるまで、この白い八重咲の花が椿であることも、椿が冬の花であることすら知らなかった。

「いいだろう、椿も」

「うん、白がきれいだよね」

 あのあと、独りで調べたのだが、椿は花が花首から落ちるという特徴がある。首から落ちた白い花。それはまさに、スオウさんが銀の皿に載せて愛でる妹そのものなのだ。そんな首だけになった妹を演じる愛子ちゃん。僕には落窪さん同様、愛子ちゃんもどこか人間味を欠いた存在に感じられる。無口で、ごくまれにくすくすと笑っていても、あのブラックホールのような目は決して笑わない。劇団ではそつなくこなしているが、大学内に友人がいるのかはわからない。以前、学部共通の教養の授業で彼女を見かけたときは、ノートをとることもなく、サガンの小説を読み続けていた。

 偶像的少女。

 彼女は大学二年生だが、ちょうど公演の頃に二十歳を迎えることになる。彼女が大人になる。少女ではなくなる。それは非常に象徴的でショッキングな出来事のように僕には思われた。僕は子どもの手から離れた風船が、空高く昇っていく様を思い浮かべた。ちっぽけな手にはもう二度と届かないところへ行ってしまうひとつの夢。僕は空想の中で、抜けたような青空に向かってどんどん遠ざかっていく白い風船を、ずっとずっと眺めていた。

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