論点二、スオウさんの奇怪な言動は、脳の損傷のせいなのか。

 スオウさんの脳に損傷が残ったことについては劇中で繰り返し語られるが、その損傷が具体的にどのような影響を与えているのかは明らかにされていない。仕事を続けることも困難な状態であったという以上は、何も記されていないのだ。麻痺などの身体的な障害については劇中で言及されていないが、脚本にスオウさんの所作について特別な注釈がないことを鑑みると、本編の範囲では問題にならないということなのだろう。一方で精神状態についていえば、スオウさんの言動を見る限り、とても「健康的」であるとは考え難い。それはクラタが推測するとおり脳の損傷の影響なのだろうか。あるいは別の要因による精神的不調の表れなのだろうか。はたまた、そもそもスオウさんは精神的に「不健康」な状態ではないのだろうか。

 外傷性脳損傷は、先述した運動障害のほか「高次機能障害」という状態を引き起こすとされている。具体的には、記憶障害や「病気である」という意識の欠如(病識欠如)、感情のコントロールができない(脱抑制症状)といったものだ。ただ、劇中に登場するような了解不可能な妄想・幻覚については、どちらかというと統合失調症の代表的な症状とされている。すると、スオウさんの不可解な言動は脳の損傷のせいではなく、実は統合失調症のせいなのだろうか。統合失調症の原因は医学的に明らかになっていないようだが、人生の転機となるようなストレスが引き金になるケースもあるという。

 では、スオウさんが家族との死別によって、統合失調症を発症したのかというと、僕はそうは思わない。スオウさんは最初から最後まで、冷静に物事を判断できる状態、乱暴に言えば“正気”だったのではないだろうか。

その唯一の、しかしもっとも強力な理由は、ラストシーンでスオウさんがでクラタを罵倒するセリフだ。


「俺に勝ったつもりか。愚かな奴め」

「これは人間の首なんかじゃない。血も通わない冷え切った西瓜だ」


 この発言は、自らの言動や目の前の状況を理性的に把握していなければ出てこないものだろう。つまり、スオウさんは、両親と妹が交通事故で死んだことは正しく認識したうえで、まるで妄想にふけっているかのように、西瓜を銀の盆に載せ、美しき妹として崇めているのである。

 だとしたら、なぜスオウさんは、わざわざ西瓜を妹の首として銀の盆に載せて愛でているのか。そもそも、このストーリーの元になっているのは落窪さんの夢だから、落窪さんが夢を見た時点ではそこに意味や意図はなかっただろう。しかし、おそらく落窪さんは、夢の内容を脚本に移植する際、何か論理的な背景を考えているはずだ。

 その背景について、僕にはたったひとつの可能性しか考えられなかった。それは「スオウさんはクラタをからかうために、西瓜の儀式をやって見せていた」というものである。スオウさんは、クラタをそそのかし、その後輩がどんな反応を見せるかを楽しむためだけに、西瓜に囚われたかのように“演じていた”というわけだ。おそらく、そこで用意された大舞台は、クラタが訪れる直前に即席でととのえられたものではなかっただろう。スオウさんは退院してから数ヶ月かけ、無心に冷蔵庫を磨き、毎月のように西瓜を買い替える様子を叔父夫婦に見せることで、彼らの目すら欺き、共犯者にする。そして、あたかも大きな落とし穴をこしらえた悪餓鬼のように、その穴に落ちる犠牲者を今か今かと待ち受ける。ナイーブな犠牲者が罠に引っかかる様を見て嘲笑うためだけに、エディプスコンプレックス的な感情に支配された振りをし、自らを“狂人”であるかのように貶める。ひょっとすると、「俺を見てクラタも同じことをするはずだ」と確信したうえで、安易に真似をしたクラタを侮辱してやりたいという、途方もない最終目的すらあったかもしれない。正気では考えられない試みのように思われる。だが、繰り返しになるが、スオウさんはきっと「正気」だ。正気だからこそ、それは危険なのである。

 すると、スオウさんはなぜ、これほどまでにクラタを辱めることにこだわるのか。やはりそこには同性愛的な感情があり、病的なまでの執着に至っているのだろうか。あるいは、クラタがスオウさん自身の鏡映しであるとしたら、これは自傷行為ともいえるのかもしれない。自傷行為の原理については、多少インターネットで調べただけでは、正直よくわからなかった。一般的には「死を望むほどの絶望から逃れ、生き延びようとするため」「出血や痛みによって、生きている自分の身体を実感するため」といった動機から、自傷が行われるようだ。さらに、旧約聖書の『列王記上』には、宗教的な儀式として自傷行為が行われている描写もあるという。この「儀式」という説明を見たとき、僕の中で何かが腑に落ちたような気がした。強引な解釈かもしれないが、僕の考えるスオウさんの「自傷行為」の動機は二つだ。ひとつは、家族を失ったことによる絶望から逃れ、自らの命をつなぐため。もうひとつは、家族を失ったことに対する彼なりの宗教的儀式、すなわち葬儀を行うためである。根拠は、この芝居の核となる営み、つまり、西瓜を銀の盆に載せ、定期的にその果実を交換するという、まさにそこにある。日常生活的な「意味」を持たず、確固たる形式にのっとって行われるそれは、「儀式」といっても差し支えないだろう。

 もし、この解釈が妥当だったとすれば、奇怪なストーリーと含みを持った演出によって、壮大かつ深刻な悲劇が誕生することになる。もちろん「家族を亡くした絶望から逃避するための儀式的な自傷行為」というテーマ自体は、おそらくもっとシンプルなストーリーと演出で体現できるはずだ。だが、複雑で不気味、そして耽美なストーリー・演出だからこそ、それは唯一無二の芸術表現、あるいはエンターテインメントとして、観客を引きつけるものになるといえるだろう。まるで、美しい幾何学的な自然の造形をもって、ねっとりと獲物を捕らえる蜘蛛の巣のように。

 ただ、演出家・脚本家としての落窪さんが、必ずしもこのようにまとまりのよい“きれいな”ストーリーを想定しているとは限らない。むしろオチのない、ときにはストーリーすらないような芝居――いわば「演劇」という表現形式を極限まで純化した芝居――のほうが、落窪さんの作品には多いのだ。加えて、自傷行為に関する部分は、完全に僕の仮定的な解釈で、説得力には欠ける。最初の考察では、スオウさんとクラタだけでなく、そのモデルとなった落窪さんと僕も鏡映しの関係であるという話だったはずだ。だが、現実には、落窪さんが僕を傷つけることによって、また落窪さんがスオウさんに傷つけられるクラタを演じることによって、自傷する理由が見当たらない。ひょっとすると、僕の知らないところで落窪さんは深く絶望しているのかもしれないが、少なくとも落窪さんは実際には家族と死別してはいない。

 それでも、僕はこの結論を採用することに決めた。もし、現実世界の落窪さんがスオウさん同様、深い絶望の中にいるのだとしたら、さらにその原因について考察しなければならないが、とりあえず今回の思考実験はここでいったんけりを付けてしまいたかった。それは、スオウさんの心理や意図をある程度論理立ったものとして理解できたほうが、役者として演じやすいから、というだけではない。僕は何より、自ら解釈したこの蜘蛛の巣のようなストーリーに、自ら捕らわれてしまったのである。その解釈を導き出したことにより、僕は自分自身の頭と体で消化したスオウさんを演じることができる。そして、落窪さんや、落窪さんの夢による支配から逃れられる。そんな突破口を、僕はようやく見つけたつもりでいたのだ。その蜘蛛の巣が、もともとは落窪さんの仕掛けた罠であるということなど、すっかり忘却の淵へ置き去りにしてしまって。

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