勘違いされっぱなしのTSロリ花魁さん
葛城2号
第1話前編
悪くはない、人生だった。
死を迎えた後に我を取り戻した彼は、亡骸となった己の身体に縋りつく妻や両親、兄妹の泣き顔を見下ろしながら、率直にそう思っていた。
みどり以外何もない農家の三男坊として生を受けたのは、もうどれぐらい昔の事であったか。時を重ね、幸運にも嫁を貰ったかと思えば病に侵されて自身の命を落とすこととなったが、彼は後悔していなかった。
戦や村同士の小競り合い、疫病や餓死がそう稀な事ではない時代に生を受けた定めなのだろうか。一人残してしまう妻のことや、孝行することが出来なかったことは悲しかったが、それでも成人して子は残せたのだ。これで上等だと納得することが出来た。
そう、上等だ。成人まで生きられなかった幼馴染もいたし、人買いに売られてしまった幼馴染もいた。それに比べたら、家族に囲まれ、妻を娶り、子を残せただけでも十二分に御の字だと……彼は本気で思っていた。
『お別れは、済みましたね』
だから、だろうか。命を落として幽霊となった彼は、泣き叫ぶ妻の姿と、涙を落とす両親兄妹。そして、青白いまま動かない己の顔を見て、現状を素直に受け入れた。
そして、いつの間にか傍に佇んでいた、見慣れぬ恰好をした男。その男は自らを名乗るようなこともしなかったが、この世の者ではない何かなのだということは、すぐに分かった。
不思議なことに、怖れや不安を男に対して抱くようなことはなかった。見慣れぬ風貌もそうだが、男の顔には全く覚えがないのにも関わらず、彼は男に対して何ら忌避感を覚えはしなかった。
どうしてかは分からないが、彼は理解していた。目の前の男は、己に危害を加える存在ではないということを。この男は、ただ定められた役目を果たす為だけにここにいるということを、彼は不思議と理解していた。
と、同時に、男がどのような目的で自身の前に姿を見せたのか。それも、彼は理解していた。
男は、告げに来たのだ。己の死後の行き先……つまり、転生先を。
今の今まで死後のことなど考えたこともなかったが、今は分かる。己はもうすぐ、今のこの姿と記憶を捨て、新たな身体と心を経て生まれ変わるのだということが。
何故、それが分かるのか。それは、当の彼にも分からなかった。ただ、気付けば理解しているのだ。今の己がどういう存在で、目の前の男がどういう存在で、己の今後がどのような事になるのか……言われずとも、気付けば彼は全てを理解していた。
その男も、彼が理解していることを把握しているのだろう。彼の反応を伺うつもりはないのが所作から見て取れる。そう、彼が理解するよりも早く、何処からともなく取り出した書物を開き……ぺらぺらとページを捲り始めた。
思わず、彼は目を瞬かせた。本自体があまり目にしたことがない彼にとっては、本一つとっても物珍しい光景だ。我知らず覗き込んでみようとしたが、不思議な事に……開かれたそこはまるで靄が掛かったかのように書かれているものを見ることが出来なかった……と。
『次のあなたの旅路ですが……』
ああ、もう来るのか。さっさと先へと進めようとする男に、彼は我知らず拳を握りしめ、固く目を瞑った。
脳裏を過るのは、これまでの日々。けして裕福とは言い難い暮らしであったが、幸せであった。せめて、この想いだけでも妻や両親に届いてくれればと願い、大人しく最後の審判が下されるのを――。
『油虫となります。では、油虫としての良き旅路を』
『待って、待ってください』
――待った。いや、待とうとしたが、無理だった。
思わずと言った様子で彼は男の肩を掴んだ。対して男は気に留めた様子すら見せず、『……何か?』淡々とした反応であった。そのことに彼は一瞬ばかり怯み掛けたが、えいやと気力を奮い立たせて唇を開いた。
『油虫は勘弁してください。よりにもよって、どうしてソレなんですか?』
『さあ、私には何とも。私はただ、伝えるだけですので』
『他の、他のはないんですか?』
そうですねえ。そう言って、男はぺらぺらとページをめくる。相変わらず何が書かれているのかはさっぱり読めないが、そこに己の行き先が記されているのだろう。自然と、彼の視線はそこへと向けられる。
いくら何でも、油虫はないだろう、油虫は。いや、他の虫が良いという話ではないが、よりにもよって油虫。色々ある候補の中でも最悪なのを引いてしまったのかもしれない……そう、思っていたのに。
『では、大きな大きな油虫となります。では、大きな大きな油虫としての良き――』
『他には、他にはないんですか!? 油虫以外の、他のやつは!?』
『現時点では、ありません。大きな油虫か、小さな油虫。そのどちらかになります』
『あの、俺、何か悪い事をしましたか!? どうして、よりにもよって油虫なのですか!?』
『特別非道を成したわけではしていませんが、徳を積んだわけでもございません。まあ、順当な結果でしょう』
現実は、悲しいぐらいに非情であった。いや、実際に命を落としているこの状態で非情も糞もないが、とにかく油虫は嫌だ。必死に、矜持も様も放り捨てて彼は男に土下座をした。
しかし、男は相変わらず淡々とした様子で首を横に振った。本当に、それ以外の選択肢がないのだろう。ほんの僅かだが、すまなそうに視線を逸らすのを見て……彼は、がっくりと肩を落とした。
……いや、待て。
脳裏を過った天啓に、彼はカッと目を見開いた。
生まれ変わった先が油虫一択なのは、分かった。それを変えられないということも、眼前の男にもどうすることも出来ないということも分かった。
だが、しかし。
生まれ変わるのが嫌で、このまま(幽霊として)過ごすのならば……どうだろうか。それなら、とりあえず油虫になるのは避けることが出来る。そう思いついた彼は、素直に男へと尋ねた。
『可能ですが、おススメはしません』
すると、返答がそれであった。おススメはしないというのは、どういうことなのだろうか。続けて尋ねてみれば、『一度それを選ぶと、当分先まで転生が出来ません』男は特に隠すこともなく理由を教えてくれた。
男の説明では、こうだ。
彼はまだ自覚出来る程そうなってはいないが、死を迎えた魂(今の彼の状態)は時間が経てば経つほど例外なく不安定な状態になるらしい。不安定とは何ぞやと尋ねれば、言葉通りだと男は続けた。
進行具合は人それぞれらしいが、まず起こるのは、自分が何者なのかが分からなくなるという記憶の喪失。次いで、感情の抑制が出来なくなり、それに合わせて徐々に自我そのものが失われてゆく。
そして、最後は人の姿すら保てなくなって……怪異と呼ばれる、『人でも獣でもない、おぞましい何か』へと変貌し、生きとし生ける者を貪る存在に成り果ててしまうのだという。
先ほどから淡々と彼の転生を促そうとしたのも、それが理由だ。怪異へと成り果ててしまえばもう、男にはどうすることも出来ない。一度そうなってしまえば、例え御仏であってもどうにも出来ないのだと、男は話を終えた。
なるほど、それならおススメしないと断言した男の言葉も分かる。
彼自身、まだ実感はない。しかし、男の言葉が真実であるのは、これまた何故か分かる。遅かれ早かれ、このまま時が過ぎれば何時かは怪異と呼ばれる化け物に成り果ててしまうのも分かってしまっていた。
けれども、だからといって、だ。
怪異となるか、油虫となるか。ある意味究極の選択肢を今すぐ選べとは、あんと御無体な。せめて心の準備が……いや、準備したところで嫌なのは変わらないが、でも、怪異と成り果てるのは御免被る。
そう長い時が残されていないと分かっていても、うんうんと彼は頭を抱えた。その姿は事情を知らぬ者から見ても哀愁を誘う有様で、事情を知る者からすれば、それはそれは同情を誘う姿であった。
『……一つだけ、他の道もあります』
さすがに気の毒と思ったのか、それともあまりに悩むその姿に憐憫の情を抱いたのか、それは誰にも分からない。ただ、ぽつりと零されたその言葉は、『――ほ、本当ですか!?』彼にとっては紛れもない仏陀の糸に他ならなかった。
しかし、どうするというのだろうか。
先ほどの説明を聞く限りでは、彼が取れる選択肢は転生するか怪異となるかの二つ。それ以外の選択肢……まさか、生き返らせるのだろうか。それならそれで、物凄く有り難いのだが……。
『いえ、何人たりとも理を外れてはなりません。生き返るのではなく、神々の御許と成りて、そこで修行を重ね、新たな転生先が見つかるのを待つのです』
『か、神の御許にて修行を……ですか? そ、そんな大役、私ではあまりに力不足では……』
村のなかでは信心深い方ではないが、それでも神や御仏に対する敬意の念は常にある。仏門や神道の門を叩いたことはないが、それでも仕える者たちに対しても一目置いている彼にとって、男が用意した提案は畏れ多いの一言であった。
というか彼は、生まれてこの方農家としての生を受け、農業人としての人生を歩んだ身。修行という言葉に若干の気後れというか、どういったことをするのかが全く想像が出来ず、思わず彼が及び腰となるのも無理のない話であった。
『神の御許にて仕えるのは、そう難しいことではありません』
それは、男も分かっているのだろう。怖気づく彼の気持ちを宥めるかのように、男は彼の肩を三回ほど軽く叩いた。
『それよりも、修行に耐え忍べるか否かが重要なのです。神の御許に仕える以上は、相応の役目を果たさねばなりません』
『その……役目を果たす為に修行が必要、ということなのですか?』
『順序が逆になりますが、そうなります。そうして修行を重ねた後、何時になるかは分かりませんが、新たな転生先が現れた後に御許を離れるのです』
ですが、それは長く険しい道となりましょう。そう、男は言葉を続けた。
男の言う通り、神の御許に仕えるのは生半可な覚悟では務まらない。何故なら神と人間とではその性質が根本から異なっており、人が神に合わせてその性質を変えねならぬからだ。
この場合における性質とは、人が人である以上は避けられない本質のことで、言ってしまえばそれを作り変えるのが『修行』なのだが、これがまた辛く険しい道なのだという。
例えば、三大欲求の一つである食欲。生きる上では絶対に切り離せない欲求である。神にもそういった欲望はあるが、問題なのは人のそれとは根本的な感覚が違うということ。取るに足らない雑念として切り捨てるに人が至るには、相当な年月を掛けて修行を重ねねばならないのだ。
食欲一つ取ってしても、そうなのだ。人が人である以上は絶対に持ち合わせている様々な欲望を昇華させ、神と同じ感覚にする。
これがまあ実際にやるとなると難しく、現世において名の知れた高僧であっても実際に神の領域に至れたのは極々稀なのだと男は説明を終えると、さて、と開いていた本を閉じた。
『どうしますか? おススメとしては油虫への転生ですが、決めるのあなたです』
『あの、仮に油虫を選んだとして、その油虫の次はどうなるのですか?』
『油虫です』
……しばしの間、沈黙が二人(?)の間を流れた。忘れているかもしれないが、傍には泣き崩れる家族たちの姿がある。何ともシュールな光景であった。
『その、油虫の後は?』
『油虫です』
『……その、次は?』
『油虫です』
『あの、もしかして私、油虫に祟られていたりしませんかね!?』
『それで、どうしますか?』
『――修行します! どれだけ苦しくともやり遂げます! どうか、よろしくお願いします!』
悲鳴をあげる彼を他所に、男は変わらず淡々としていた。今しがた閉じた本を再び開くと、靄が掛かって見えないそこに指先を宛がい、するすると何かを描くように指先を動かした。
『御許に仕えさせても良いと承諾してくれる神々を探しているのです。どの神に当たるかは私にも分かりませぬが、時間はそれほど取らせません』
いったい、何をしているのだろう。そう思って目を瞬かせる彼の内心を呼んだのか、男はそう呟きながら指先を動かし続け……不意に、その指を止める。
すると、指先が靄の中へと沈んだ。不思議な事に、指先が本を貫通するようなこともない。するりと手首まで入り込んだ指先が戻され、ぱたん、と本が閉じられた時には……その指先は、赤い粒を一つまみしていた。
それは、宝玉か飴細工か何かだと見間違いそうになるほどに、美しい粒であった。
無言のままに差し出されたので、彼はそれを受け取る。『飲みなさい』拒否は許さないと言わんばかりの声色に、彼は幾分か慌てた様子でそれを口の中へと放り込み……ごくりと、音を立てて呑み込んだ。
……。
……。
…………?
覚悟を決める間もなかった彼は、固く目を瞑っていた目を開けた。いったい何を飲まされたのかは分からないが、何かが起こるだろうと予測していたからだが……何の異常も起きていない自らを見やり、次いで、男を見やった……次の瞬間。
かくん、と。予告なく、いきなり目線が落ちた。それまで男と彼の目線は味高さだった。なのに、あっ、と思った時にはもう、彼の目線の高さは男の鳩尾ぐらいになっていた。
あまりの急激な変化に驚いた彼はその場に尻餅を付いた。『うぎゃあ――っ!?』反射的に声をあげた彼だが……尻の痛みに意識を向ける前に、今しがた己が喉から発せられた声色に、ギョッと目を見開いた。
いちいち比べたことはないが、先ほどまで耳にしていた自身の声、は紛れもなく大人の男性の声であった。しかし、それがどうだ。今しがた発した己の声は、それが己の声だと信じられないぐらいに甲高いものであった。
まるで、女の声だ。いや、女よりも甲高い。これではもはや、女というよりは生娘……いや、もはや少女と言われても差し支えないぐらいの、年若い声色で……って。
『――何じゃこりゃあ!?』
立ち上がる際に己が姿を見やった彼は、その生涯において並ぶことがないぐらいの大声をあげた。何故か、それは自らの身体が、今まで見知った男の身体ではない……少女のそれになっていたからだった。
しかも、今しがた身に纏っていた服がなくなっているのだから、見間違うわけもない。
男の証があった場所には、女の証が鎮座していて、胸は膨らんでいる。腰は分かる程度に細くなっていて、その分だけ尻周りが太くなっているように見える。子供の身体だが、その身体は女の兆しを見せ始めていた。
『お、俺が、お、女になっている!?』
ぺたぺたと胸を触れば、男の時にはなかった確かな弾力がある。『ひぃ!?』思わずあげた大声ですら甲高く、己が発したとは信じ難い可愛らしい悲鳴に……ぎゃあ、と悲鳴を上げた彼はその場から飛び退くようにして立ち上った。
『――さあ、それでは行きますよ』
『へ、え、あ、あの、これはいったいどういうことで……』
『承諾した神は女神でしてね。男のまま御許に仕えるのを許すのは外聞が悪いと仰られましたので、女になっていただきました』
混乱に事態を呑み込めていないでいる彼……いや、彼女に、男は相も変わらず淡々とした様子で理由を告げると、床をどんと踏みつけた。途端、彼女となった彼の足元に黒い穴が現れ……落ちかけた彼女は、寸での所で縁を掴んだ。
しかし、それだけであった。どうやら、少女となった今の力は見た目相応になっているようで、思うように身体を持ち上げられない。男であった時の感覚ならば既に這い上がっているはずが、逆に少しずつ指先から力が抜けていく感覚を覚えた。
助けてくれ――そう声を荒げたが、今の彼女の声は誰にも届かない。
泣き崩れる家族や妻はもう、彼女をその目に捉えることは出来ない。彼ら彼女らが目に出来るのは、物言わぬ亡骸と成り果てたかつての己だけ。ここで混乱のあまり助けを呼ぶ彼女のことなんて、想像すらしていないだろう。
今更後悔したところで、もう遅い。既に、彼女は選択してしまったのだ。油虫になる定めを覆すが為に、これから長い時を掛けて修行を重ねなければならないということを――と。
『あっ』
と、声が出たと同時に、つるりと指先が縁より離れる。一瞬の浮遊感を覚えたかと思った次の瞬間、ぐっと圧し掛かる重力にも似た力が……彼女を穴の向こう、暗闇の奥深くへと……落ちて行った。
……。
……。
…………そうして、御許に仕えても良いと承諾してくれた女神の下にて修行の日々を送ることとなった彼……否、彼女。
辛く険しいものだと聞いていたのである程度覚悟はしていたが、考えが甘かったことを彼女は初日に痛感した。そんな覚悟など軽く吹き飛ばす程の過酷な修行が、彼女を待ち構えていたからだ。
――まずは、人間として生きた癖を削ぎ落すんから始めんしょう。わちきの手伝いはそれからなんし。
彼女を受け入れた女神がそう言って彼女に課した最初の修行は……座禅であった。だが、ただの座禅ではない。言葉にすればそれだけだが、寝食一切を切り捨てた、座禅という名を語る拷問(詐欺)そのものであった。
具体的に何をしたかと言えば、岩の上でひたすら座禅を組む、それだけ。ただし、座禅を崩すことはおろか疎かにすることすら駄目。雨が降ろうが風が吹こうが、微動することなく座禅を維持し続けるというものであった。
最初の内は、まだ大丈夫であった。しかし、30分、1時間と時を重ねた頃、少し痺れてきたかなと思った辺りからが始まりであった。
痺れが瞬く間に痛みへと変わり、それが苦痛を通り越して激痛へと姿を変えるのに、そう時間は掛からなかった。
しかし、辞めるわけにはいかない。これはまだ、修行の中でも初歩の初歩。入口にすら立てていないのだ。ここで辞めれば怪異になるのもそうだが、面倒を見てくれると承諾してくれた女神の顔にもそうだが、あの男の顔にも泥を塗ることになる。
それだけは、駄目だ。見込みがないと破門を言い渡されるならまだしも、自ら堕落するのは駄目だ。そう己に言い聞かせながら、彼女は必死の思いで座禅を続けた。
硬直して足が痛もうが、尻から激痛を通り越した何かになろうが、虫やら鳥やらが身体をすり抜けたり糞を落としたりしようが、けして座禅を崩してはならない。ただひたすらに、ありとあらゆる雑念を捨てて彼女は修行に取り組んで行った。
……霊体となった今の彼女には、肉体的な苦痛は存在しない。だから、本当なら何時間だろうと何十時間だろうと平気なのだが、しかし、人として生きた癖……すなわち、『魂に刻まれた思い込み』が、そうさせないのだ。
それがどういうことかと言えば、だ。例えば、霊体には本来定まった形というものは存在しない。その姿が人であれ獣であれ、何かしらの形を取るのは肉体の時の癖がその姿を形作ってしまうから。
それ程に、癖とは厄介なのだ。幼子の魂百までとは言うが、生まれたその時より培ったソレは、一朝一夕でどうにかなるものではない。
彼から彼女へと姿を変えられたのも、単純に男では不味いというだけではなく、ある種の切っ掛けを促す意味合いも実はあったのだ。
そういう諸々の事情もあって、最初の修行である座禅は、饒舌にし難い酷い苦痛を彼女にもたらし、女神より宜しいと言われるまでには、相当の年月を必要としたのであった。
――座禅が終わりんしたんなら、お次は滝行とまいりんしょう。
その言葉と共に始まった二つ目の修行は、滝行であった。これもまた辛く険しいものであり、座禅だけでは捨て去りきれなかった人間としての癖を捨て去るまでに、彼女は幾度となく肉体的な死を錯覚することとなった。
具体的に何をしたかといえば、座禅とだいたい同じ。女神より宜しいと言われるまで、ひたすら滝行を続ける。ただ、それだけ。意識を失って滝壺に呑み込まれようが、溺死や凍死する錯覚に苛まれようが、とにかく滝行を行った。
それが終われば、今度は女神監修の元で、様々な欲望を見せつけられた。捨て去ったはずの肉体の愉悦、こみ上げてくる欲望を自在にコントロールし、それらを意のままに掌握する我慢の修行であった。
これもまた、辛く険しい道のりであった。欲望を抑えきれず手を出せば、待っているのは座禅と滝行。分かっていても、堪えきれない。時には男に戻されて女神自らの手で欲望を煽られ、時には女だけが味わえる愉悦を焦らされる。目の前で降り積もった快楽への予感が精神を揺さぶり、幾度となく彼女は座禅と滝行を繰り返すこととなった。
何とか宜しいと太鼓判を押されれば、次は孤独に対する修行。これは、闇に閉ざされた場所にて座禅を組み、ただひたすら己の中に渦巻く『力』を(この時にはもう、彼女は『力』を認識出来ていた)見つめ続けるというものだった。
霊体となった彼女には、発狂という逃げ道はない。時間の感覚を忘れ、自らの形すらも忘れ、存在しない幻覚や幻聴に苛まれながらも、彼女は耐えた。幾度となく楽にしてくれと叫びながらも、彼女は耐えて耐えて耐えて耐えて……やり遂げた。
――最後は、御山の頂上にて祈りを捧げんしょう。
そうして、幾つもの修行を終えた後。これで御許に仕える為に必要となる最後の修行だという言葉と共に告げられたのは、山登り。頂上に滞留する精気を吸収し、人と神の中間へと格を上げた、その時になって初めて。
――伊都姫(いとひめ)。これからは、自らをそねぇに改めなんし
――名を仕ること、感謝の極み
彼は……本当の意味で彼女となり、御許に仕えることを許された。彼が彼女となって、優に百と数年。今はもういないかつての家族のことを思う日もあったが、御許に仕える身として相応しいとされるまでに掛かった年月が、それであった。
それを早いと捉えるか、あるいは遅いと捉えるか。人と神とでは評価が真逆となるが、死後から修行を始めたことを考えれば、まあまあ早いのではないか……というのが、女神を含めた他の神々の評価であった。
……ちなみに、まだ転生先は油虫一択であった。
さすがにこの頃になれば、時間の感覚が人のそれとは掛け離れていたので、特に気に留めるようなことはなかった。新たな転生先まで、待てばよいだけなのだから。
そうして、男であった時の名を捨て去ったその日。伊都姫として女神の御許にて仕え、本当の意味で御付としての日々が始まったが……それはそれで、中々に大変な毎日であった。
というのも、だ。それまでは御許にて仕えることすら出来ない半人前の身であり、元男かつ修行中であるということで大目に見られていた立ち振る舞い……すなわち、礼儀作法を学ぶことになったからであった。
仕える女神の所作を真似て無礼を働かないようには心がけていたが、これからは心がけるだけでは駄目なのだ。御付として傍に控える以上は、言葉遣いだけでなく、指先一つ足先一つの運びも意識せずにこなせるようにならなければならないからだ。
その為にはまず、勉強である。何が駄目で何が良いのかを理解するだけでなく、求められるのは相当の知識。それを何とか詰め込み終えれば、身に纏っている花柄の元禄袖から振袖へと変えて、日常を送る。これがまた、難しいのだ。
ただの女児のようにでは駄目なのだ。
それこそ、花魁や太夫のように所作の一つ一つを洗練させなければならない。女神が出来るのに、使える御付が出来ないのでは話にならない。自らの失態が、そのまま女神の顔に泥を塗ることになるからだ。
なので、彼女は必死に作法の習得に取り組んだが……想いとは裏腹に、合格を貰えるまでには、これまたそれなりの月日を必要とした。元が男であったのが習得を遅らせたのだろうと、後に女神は酒の席で語る一幕があった。
また、他にも。伊都姫が仕える女神は、『性愛の加護を司る女神』。それ故に彼女へ御参る者たちの大半が『女』であり、乞うて願われる思いはソレに関することが多く……何とも生々しい願いに赤面を通り越して嫌気を覚えることも多かった。
しかし、それも最初の内だけであった。
来る日も来る日も訪れる人々。女神へと送られる願いを選別したり、届けたりを繰り返すヒビを送っている内に、何時しか伊都姫も……同情というわけではないが、慈愛の念を彼ら彼女らに抱くようになった。
たった二十数年とはいえ、男として過ごした時間があるからなのかは伊都姫自身にも分からない。気付けば、加護を与える女神の傍らにて、彼女は男としての目線で、女としての目線で、願いを聞いて……女神と問答をするようになっていた。
そうして、御付として手伝う合間、神には至れなくとも修行を続けること、さらに二百年。何時しかその『力』は神々からも一目置かれ、転生先が油虫固定であることに少しばかりヤキモキすることもあったが、忙しくも充実した毎日を送っていた。
……そんなある日。
――伊都姫、伊都姫はおるかや?
――はい、ここに。
女神が住まう社の中。女神の本体とも言うべき御神体があるその部屋に呼ばれた伊都姫は、何用かと顔をあげる。何時もであればその時間は、訪れる参拝客の願いを仕分けしているところだ。
一も二もなくまずは信仰を捧げてくれる参拝者の相手をと急かす女神にしては珍しい事態に、伊都姫は無表情のままに内心では疑問が吹き荒れていた……が。
――伊都姫。今日を持って、ぬしを御付の任から解きんす
――え?
保たれていた無表情も、敬愛する女神より突然の暇を与えられればあっさり崩れ去った。もしや、何か度し難い無礼を働いてしまったのだろうか。しばしして復帰を果たした伊都姫は、どうしてかと女神に問い質した。
――ぬしに責はありんせん。全ては、時代がそうなってしまいんしたんしよぅ。
すると、女神は特に隠すこともなく、突然の暇を与えることとなった経緯を伊都姫に伝えた。
曰く、もうかつてのように信仰が生活の一部となった時代ではなくなった。今はまだ自らが住まうこの神社にお参りに来る人たちがいるが、後数十年もすればその数は激減するだろう。
そうなれば己は確実に消耗し、いずれ今のように加護を与えることすら難しくなる。やがては、この社すらも取り壊され、立ち並ぶ家屋の一角にひっそりと勧請されることになるやもしれない。
その後は、人々より忘れ去られて消滅してしまうといったところだろうか。神である己はここから離れることは出来ないし、離れても長くは存在出来ない以上、それは盛者必衰の定めとして受け入れるもりだ。
――しかし、ぬし……伊都姫は違う。
伊都姫は神の御許にて仕えてはいるが、その本質は神ではない。伊達に数百年の修行を重ねただけはある破格の実力を持つが、その本質は霊体……すなわち、数多に存在する浮遊霊に分類される。
つまり、伊都姫は例え参拝客が途絶えたとしても何ら問題はない。その『力』は全て伊都姫自身が生み出したもの。故に、伊都姫自身はこの社を離れて何処へでも行くことが出来るのだ。
だが、このまま己の御許にて御付を続けているとなると話は変わる。本質が霊体であるとはいえ、神の御許に仕える以上は『縁』が繋がる。『縁』が繋がるということは、仮に女神の御身に何かが起これば……少なからず、伊都姫の身にも悪影響が及んでしまう。
それだけは、避けなければならない。こればかりは伊都姫の尽力であってもどうこう出来る問題ではなく、また、己に付き従って共に滅びの道を歩むことは許さない。そう、はっきりと断言する女神の姿に……伊都姫は、黙って頭を垂れた。
――委細、承知致します。未熟ながらも今日まで目を掛けていただき、言葉にし難き幸福な日々でございました
――何も感も放り出すようで申し訳ありんせんが、どうか御自愛を……いつの日か、転生したぬしに加護を与えるのが、わちきの密やかな楽しみんでありすから
――勿体無きお言葉、この伊都……感謝のあまり、涙が止まりませぬ
掛けられた言葉に、伊都姫は言葉を震わせた。厳しい修行に耐え、神の御許についた矜持も今だけは放り捨て、曇り一つない滑らかな木目の床にぽたぽたと涙を落としたのであった。
……本音を言えば、伊都姫は女神と共に滅びの道を歩んでも良いと思っていた。
元々は転生という目的を果たすまでの付き合いとなるはずだったのだが、そう割り切るには些か同じ時を歩み過ぎた。どうしようもないぐらいに情が湧いてしまうには、あまりに長過ぎた。
そう……長過ぎたのだ。
かつての伊都姫の家族や妻はもう、とっくに輪廻へと組み込まれ、新たな姿かたちとなって生を得ている。人として、男として生きた記憶こそ忘れてはいないものの、かつての彼ら彼女らに向けていた思いはもうおぼろげな思い出に過ぎない。
故に、彼女にとって気の置けない相手はもう、眼前の女神だけなのだ。
その御方から、懇願されてしまった。ならば、伊都姫は断れない。性愛や友愛、かつての妻に向けたものとは根本から異なる、無垢なる愛情。この御方の為に転生を諦めることになっても悪くはないと、本気で考えられた相手に願われればもう、伊都姫は黙って受け入れる他なかった。
……だが、そうなると、だ。
袖で涙を拭った伊都姫は、しかしながら、と顔を上げて居住まいを正した。それを見て、内心を察したのだろう。それまで少しばかり寛いだ姿勢であった女神も居住まいを正し、伊都姫を見やった。
――行く宛てがない、で、ありんすか
――お恥ずかしながら……未熟故に修行修行の日々。顔見知りぐらいは数在れど、身を寄せる程の相手は……すっかり出不精になりまして……
――いやいや、ぬしはようやっておりんす。しかし、そねぇならば困りんした……いくらぬしとはいえど、所を持たず過ごせばいずれは怪異に堕ちてしまいんすねぇ
申し訳なさそうに視線をさ迷わせる伊都姫の姿に、果てさて困ったと女神は目を細めた。
……何故、そのような状態になっているのか。
元(男の)人間であるとはいえ、礼儀作法を叩き込まれた御付暦二百年。勝手が違うとはいえ即戦力としては申し分なく、声の一つや二つは掛けられてもおかしくはない……はずなのに。
――矜持ばかりが高い御方は大勢、されど、実力は二流三流。俗世に浸るのはわちきも同じんすが、近頃はあまりに……
――あ、あの、どこに目や耳があるかは分かりませぬ故、そう過激なお言葉はお控えを……
――御付に劣るんをば認められずに陰口ばかり叩く御方なんぞ、同じ神々に名を連ねることもお恥ずかしいわちきの思い……お分かりなんし?
ほんに、情けない。そう言いたげに深々とため息を零す女神の姿に、伊都姫は些か居心地悪そうに肩をすくめた。そう……行く宛てがないと口にした最大の理由が、それであった。
現時点において御付として伊都姫を受け入れるには、伊都姫はあまりに強く成り過ぎた。神々としての術こそ使えないものの、その『力』は強大かつ膨大。並の神々では、その足元にも及べないぐらいになっており、御付として従える女神すらも既に超えている。
当然だが、伊都姫自身には何ら含むところはない。単純な『力』と神としての素質は別ものと考えているので、それがそのまま格に繋がるとは微塵も考えていない。しかし、そうは思わない神は多いというのが現状なのであった。
ならば、残る手段は二つ。神々の中でも上位に位置する御方ばかりが住まう高天原へ向かうか、社を離れて『拠り所』を見つけるかだが……どちらを選んだとしても、厳しい道のりになるのは想像するまでもなかった。
前者は言うまでもなく、後者も相当に辛い道のりだ。何せ、霊体にとっての『拠り所』は生者のように好みに合うか否かというような、単純なものではない。
言うなれば、波長が合わないと駄目なのだ。そして、この波長の合う『拠り所』を見つけるのはとても骨が折れる作業である。最悪、見つけられないまま時が流れて怪異と成り果てたとしても、何ら不思議なことではない……とはいえ、他に選択肢が……いや、待て。
――そうだ。それならいっそのこと、座敷童として『拠り所』を作れば良いんすよぅ!
さて、どうしたものか。思考を巡らせる最中、妙案を思いついた女神が、ぽん、と膝を叩いた。それを聞いて、なるほど、と伊都姫は思わず手を叩いた。
……『座敷童』
それは座敷や蔵に住まう霊的存在の一つを差す。家人に悪戯を働くが害悪をもたらす類の霊的存在ではなく、逆に富をもたらして幸運を授ける、縁起の良いモノとして知られている存在である。
この座敷童には諸説(神々であったり、精霊であったり)あるが、実はこの座敷童だが……他の様々な霊的存在とは決定的に違う点が一つあったりする。
それは、座敷童は住まう場所を『波長の合う拠り所に作り替える』という点だ。
家屋などを『拠り所』とする霊的存在は多いが、『拠り所』が持つ波長を作り変えることが出来るのは座敷童だけ(あるいは、上位神のみ)。
いちど『拠り所』としてしまうとそこに縛られてしまい、龍脈を通じてでしか動けなくなることや、『拠り所』が壊れれば消滅してしまうというデメリットもあるが、怪異になる危険性がなくなるのは得難いメリットだ。
もちろん、成ろうと思って成れるものではない。御山にこもるなどをして修行を重ねて清い身で、ある程度の『力』を持ち、それでいて神格を持っていなければ成れない存在なのである。
しかし、幸いにも伊都姫には資格があった。修行によってその身は清められており、並の神々では歯が立たぬ『力』を持ち、かつ、中間とはいえ神格に手が届いている状態だから……自らに術を掛けて『座敷童』へと成るのは、そう難しいことではなかった。
……。
……。
…………こうして話は決まった。
最後だからとこれまでの日々を夜通し語りあいて、翌日。女神自ら掛けられた術により御付から『座敷童』へと成った伊都姫は女神の御許を離れ、新たな『拠り所』を探して旅に出た。
一歩、また一歩。距離が離れるにつれて胸中に吹き荒れる寂しさに心が震えることもあったが、彼女はけして振り返ることはしなかった。女神が語った願いが、それらを優しく摩ってくれたから。
何時の日か、転生した己に加護を与える日を待っている。
最後に抱き締めながらそう囁いてくれた女神の思いを胸に秘め、伊都姫は歩く。山を越え、谷を越え、川を渡り、東へ向かい、西へ向かい、北へ向かい、南へ向かい、ここだと思える『拠り所』を見つける為に。
そうして、巡り巡って見つけたのは、とある山間に広がっていた村の一角にある、古くて小さな家であった。
長い山道を抜ければ港に出ることが出来るその村のことを伊都姫はすっかり忘れ去っていたが、奇しくもそこはかつての彼女(彼)が住んでいた場所のすぐ近くであった。
当時は空き家となっていたそこに決めた彼女は早速そこを『拠り所』にし、住みついた。少ししてその空き家に若い夫婦が移り住んできたが、『座敷童』となった彼女は夫婦を追い出すことはせず、その『力』を用いて見守ることにした。
やがて、夫婦の間に子が産まれた。子はすくすくと育ち、弟が出来て、妹が出来て。共倒れになるのは不味いと他の村人たちの様子を見やりつつ、邪な考えを持つ者が来れば撃退し、あまりに天候が荒れれば高天原に行って願い出て。
長年積み重ねた修行の成果というべきか、今でいうワーカーホリックというやつか。座敷童としては過分……過分過ぎる程に働き続け、徐々に裕福になってゆく夫婦やその子供たち、村人たちの笑顔を見やりながら、伊都姫はその時を待ち続けた。
……。
……。
…………そうして、百五十年ほどが早々と過ぎて。
かつての古ぼけた家屋は新築改築増築を繰り返してすっかり生まれ変わり、屋敷と評して差し支えないぐらいの豪邸になった、その家の一角。いつの間にか作られた専用の部屋の、隅。そこに……百五十年前と変わらない出で立ちの伊都姫が、居て。
『……はい、お手数をお掛け致します。私はかつて――様に連なる神々の一柱の御付をさせていただきました、伊都姫と申しま――ああ、いえいえ、お世話になっております、はい』
『はい、はい、そうです、はい……はい、新たな転生先の件で連絡させていただきました。あの、お忙しいなか真に申し訳ありませんが、私の新たな転生先はあれからお変わりに……え、まだ油虫?』
『……いえ、いえ、構いません。はい、待ちます。ええ、待ちますとも。数百年を待ったのです。あの御方も、初志を曲げたとあらば不本意となりましょう。ええ、待ってやります、抗ってみせますとも……!』
――まさか、数百年近くが経ってもまだ油虫以外の転生先が見つからないとは……当時の伊都姫は予感すらしていなかったことだろう。
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