第91話  お風呂上がりの金髪ドジっ子お姫さまが、黒髪美少女のキャミソールを何気なくめくったとたん、その場に居合わせた女の子たちが思わず目を丸くしちゃった件――ガールズトーク・イン・バスハウス


 広い石の湯船から出てきた少女が、湯で濡れた体をタオルで拭いて、脱衣所に足を向けた――。


 それは白い肌がほんのり桃色に染まったシャーロットだった。シャーロットは頭に巻いていたタオルを外し、肩まで伸びた金色の髪を手で軽く整える。それから下着とパジャマのズボンをはくと、上はキャミソールだけでふらりと歩き、大きな鏡の前の椅子に腰を下ろした。


「あ~、ちょっとのぼせちゃったかもぉ~」


 シャーロットは椅子の背もたれにだらりと寄りかかり、呆然と鏡の中の自分を見た。今夜は青いパジャマに水色のキャミソール、胸元にはいつもの青いペンダントロケットという、お気に入りの格好だ。しかし、毎日見ている自分の体が、いつまでたっても貧弱なままなので、シャーロットは思わず長い息を吐き出した。


「ほんと……こんなお子ちゃまなんかに、女王なんてぜったいムリでしょ……」


「――あら。何が無理なの?」


「ひゃんっ!」


 ため息混じりに呟いたとたん不意に声をかけられたシャーロットは、反射的に素っとん狂な声を上げて横を見た。するといつの間にかすぐそばに、長い黒髪をアップにまとめた少女が立っていた。桃色のキャミソールを着たジャスミンだ。


「あ、ジャスミン」


「こんばんは、シャーロット」


 ジャスミンはニッコリ微笑み、持っていたコップをシャーロットに差し出した。


「シャーロットもお風呂上りだったのね。お水飲む?」


「う、うん、ありがと……」


 シャーロットはコップを受け取り、コクリコクリと水を飲んだ。そして内心では、さっきのひとり言をジャスミンに聞かれてしまったかと思ってドキドキしていた。


(あー、どうしよ、完全に油断してたわぁ……。でも、『なにがムリなの?』って聞いてきたってことは、聞こえていなかったことだよね……)


「それでシャーロット。女王なんて絶対無理って、どういうこと?」


(あー、完全に聞かれていたかぁ……)


 淡い期待が一瞬で打ち砕かれたシャーロットは、生気の抜けた顔で半分白目を剥いた。するとジャスミンはクスリと笑って、さらに言った。


「もしかして、自分が王様になったら何をするのか妄想していたのかしら?」


「あぁ、うん、そうそう。妄想妄想、妄想してたの。じつはわたし、妄想するのってけっこう好きなんだぁ~。あは、あはははは」


「ふふ。シャーロットは本当に面白いわね」


 シャーロットが強引に笑ってごまかすと、ジャスミンも楽しそうに微笑んだ。それからジャスミンはシャーロットからコップを受け取ったが、そのとたん、シャーロットの胸元を見て首をかしげた。


「あら? シャーロットはお風呂でもそのネックレスをつけているの?」


「え? これ?」


 シャーロットはジャスミンの視線を追って、自分の胸に目を落とした。そしてペンダントの先に付いている青いチャームを指でつまみ、ジャスミンの方に軽く向けた。


「さすがにお風呂に入る時は外すけど、それ以外は大体いつもつけてるかな。これはお父さんにもらったロケットなんだけど、普段から肌身離さず持つようにって言われているの」


「そうなんだ。ちょっと触ってもいいかしら?」


「うん。べつにいいよぉ~」


 ジャスミンがそっと手を伸ばしてきたので、シャーロットは体を前に乗り出した。


「あ、でも、ロケットは開けないでね。お父さんが絶対に開けちゃダメって言ってたから」


「ええ。わかったわ」


 ジャスミンはニコリと微笑み、青いロケットに軽く触れた。そしてすぐに1つうなずき、手を離した。


「ありがとう、シャーロット。それで、そのロケットの中には何が入っているの?」


「それが、わたしにもわかんないんだよねぇ~」


 シャーロットは椅子の上に座り直し、青いロケットを軽くつまんだ。


「お父さんは教えてくれなかったんだけど、たぶんなにかのお守りなんじゃないかなぁ。うちのお父さんって、そういうのけっこう気にする人だから」


「そうね。ホーリウムのケースに入れるぐらいだから、きっと由緒正しいお守りなんでしょ」


「……へ? ホーリウム?」


 その瞬間、シャーロットは口をポカンと開けてジャスミンを見上げた。


「ホーリウムってたしか、ものすごく貴重な魔法金属じゃなかったっけ? このロケットって、ホーリウムでできてるの?」


「ええ。触った感じですぐにわかったわ」


「でも、ホーリウムって白い金属じゃないの?」


「基本はたしかに白だけど、どんな色にも着色できるそうよ」


「えっ? うそ。ほんとに? わたし、ホーリウムなんて生まれて初めて見たんだけど……」


 シャーロットは思わずロケットをつまみ上げて、まじまじと見つめ始めた。物心つく前から毎日身につけていたペンダントが、まさか特殊な魔法金属でできていたとは夢にも思っていなかったからだ。


「え~、どうしよぉ~。なんだか急に、持ち歩くのがもったいないような気がしてきたんだけど……」


「ふふ。お守りだったら、持ち歩かないと意味がないでしょ」


「それはまあ、たしかにそうだけど……ま、いっか。もう10年以上も身につけてるし、今さら気にしたってしょうがないよね」


 急に悩むのが面倒になったシャーロットは、軽く肩をすくめてロケットから指を放した。すると不意にジャスミンが、左右を見渡しながらシャーロットに訊いた。


「そういえば、シャーロット。新しいルームメイトの人はどうしたの? 一緒じゃないの?」


「ほえ? それってネーナのこと?」


「そうそう。ネーナさん。一緒にお風呂に入らなかったの?」


「うん」


(ぜったいムリです)


 ジャスミンに訊かれたとたん、シャーロットはわずかに引きつった笑顔で答えた。ネーナ・スミンズの正体はネインなので、風呂に入る時は誰も使わない夜中にシャーロットがこっそり連れてくることになっていた。しかし、そんな事情をジャスミンに話すわけにはいかなかったので、シャーロットは事前に考えていた言い訳を口にした。


「えっとぉ、みんなの部屋に配る一輪挿いちりんざしが夕方に届いたんだけど、少し傾いている不良品がけっこう混ざっていたの。ネーナは今、その不良品を削ってバランスを整えているから、お風呂はあとで入るんだって」


「あら、それは大変そうね。よかったら私も手伝いに行きましょうか?」


「あ、ううん、それはだいじょうぶみたい」


 ジャスミンの申し出を聞いたとたん、シャーロットは慌てて両手を左右に振った。


「ネーナって、そういう作業を1人でするのが好きって言ってたから」


「――あら、なぁに、シャーロット。作業ってなんのこと?」


 不意に誰かが口を挟んできたので、シャーロットとジャスミンはそろって顔を横に向けた。すると声の主はキャミソール姿の上級生たちだった。1人は細い体つきをした金髪少女のカリーナで、もう1人は茶色い髪のアンナだ。


 その2人を見たとたん、シャーロットは思わず『げっ、寮長と副寮長……』と心の中で少し焦った。シャーロット自身は何も悪いことをしていないのだが、ソフィア寮に潜入しているネインをかくまっているという負い目があったからだ。


「こ、こんばんは」


「こんばんは、カリーナさん、アンナさん」


「はい、こんばんは」


「こんばんはぁ~。シャーロットとジャスミンはいつも仲良しなんだねぇ~」


 シャーロットとジャスミンが挨拶すると、カリーナは澄ました顔で返事をして、アンナはにこやかに両手を振りながら微笑んだ。


「それでシャーロット。作業ってなんのこと?」


「え、えっとぉ、それはそのぉ……」


「夕方に届いた一輪挿いちりんざしに少し不具合があったみたいで、ネーナさんがチェックしているそうなんです」


 ジャスミンに適当な嘘をついてごまかしたシャーロットは、カリーナに質問されて思わず言葉に詰まってしまった。しかしそのとたん、隣に立つジャスミンが淀みのない口調でカリーナに説明した。


「それで、そういう細かい作業を、ネーナさんは1人でするのが好きだという話をしていたんです」


「あ、そう。だったらいいけど」


 ジャスミンの話を聞いて、カリーナは納得顔でうなずいた。


「ネーナとは3時にお茶を飲んだけど、たしかにあまり社交的な性格ではなかったわね。だから、1人でいるのが好きでもべつにおかしな話ではないでしょ。だけど、ポーラのために用意する一輪挿いちりんざしに不具合があったのなら、それはソフィア寮全体の問題よ。だからシャーロット。その作業に人手が必要だったら、いつでも私たちに声をかけるように、ネーナに伝えてちょうだい」


「あ、はい、わかりました」


 カリーナに伝言を頼まれたシャーロットは、すぐに首を縦に振った。するとカリーナの隣に立つアンナが、ニコニコと微笑みながらシャーロットに声をかけた。


「つまりね、シャーロット。寮長は、『1人で仕事を背負い込まないでねぇ~』って、ネーナのことを心配しているの」


「ちょっとアンナ。私はべつに、そんなこと一言も言ってないじゃない」


 アンナの言葉を聞いたとたん、カリーナはちょっぴり頬を膨らませてアンナをにらんだ。その2人のやり取りを見て、シャーロットとジャスミンは目を見合わせてクスリと笑った。するとカリーナは不満そうな顔をシャーロットたちにも向けたが、ジャスミンの体を見たとたん、不思議そうに首をひねった。


「あら、ジャスミン。あなた、ずいぶんと体が引き締まっているわね」


「そうですか? べつに普通だと思いますけど」


「そお? でもなんか、よく見ると腕や肩にもけっこう筋肉がついているような……。変ねぇ。なんで今まで気づかなかったのかしら……?」


 カリーナはさらにジャスミンの全身をまじまじと見つめて呟いた。しかしジャスミンは、気にすることなくニッコリと微笑んでいる。すると、カリーナにつられてジャスミンを見つめていたシャーロットが、ジャスミンの体に片手を伸ばした。


「そう言われてみると、たしかにジャスミンってけっこう鍛えてそうだねぇ~。腰なんてほら、見るからにキュッと引き締まってるし――って、えっ!?」


 シャーロットは、ジャスミンが着ている桃色のキャミソールのすそを何気なくつまみ、胸の辺りまで軽くめくり上げた。そのとたん、シャーロットとカリーナとアンナは同時に目を丸くした。


「う……うそ……。なんなの、この腹筋は……?」


「ジャスミンあなた……何というか、ものすごい腹筋をしてるわね……」


「うわぁ~、すっごぉ~い。ジャスミンのお腹、かっこいい~」


「あら、そうですか?」


 シャーロットとカリーナは思わず愕然とした声を漏らし、アンナはうらやましそうな声を上げた。ジャスミンはそんな3人を見て、一人優雅に微笑んだ。


「これぐらい、べつに普通だと思いますけど」


「「「いやいやいやいやっ! ぜんぜんふつうじゃないってっ!」」」


 3人の少女たちは同時に首と手を横に振った。


 さらにアンナは自分が着ているベージュのキャミソールとカリーナの黄色いキャミソールをめくり上げて、白い腹をさらけ出した。


「ほら見てよジャスミン。わたしなんてもぉプヨンプヨンだし~、寮長だってお肉はないけどフヨフヨしてるでしょ~」


「ちょっとアンナ。人前で変なことしないでよっ」


 カリーナは慌ててキャミソールを引き下げた。しかしアンナは手を離さず、再びカリーナのキャミソールをめくり上げて脇腹をくすぐり始めた。


「え~、ちょっとぐらいならいいでしょ~? ほらほらほらぁ~」


「ちょっ! ちょっとアンナっ! やめっ! いやっ! あんっ! ちょっとっ! ――キャッ!」


 アンナは嫌がるカリーナに軽く抱きつきながらくすぐりまくった。しかしその直後、バランスを崩して2人まとめて床に倒れた。


「だっ! だいじょうぶですか!?」


 シャーロットは慌てて椅子から立ち上がり、ジャスミンと一緒に2人の手を引いて起こした。するとアンナは自分の頬に手を当てながら、照れくさそうに微笑んだ。


「てへへぇ~。転んじゃったぁ~」


「何が転んじゃったよ……」


 ジャスミンの手につかまって立ち上がったカリーナは、呆れ顔で息を漏らした。


「まあいいわ。それではシャーロット。私たちはそろそろ部屋に戻るから、ネーナにはあまり1人で抱え込まないように言っておいてちょうだい。それとアンナ。あなたはあとでお説教だから、覚悟しておきなさい。それじゃ2人とも。湯冷めしないように気をつけてね」


 カリーナは澄ました顔でそう言うと、脱衣所の出口に向かって歩き出した。するとアンナはニコリと微笑み、シャーロットとジャスミンに小声で言った。


「寮長っていつもあんなふうに怒るけど、ほんとはお説教なんかしたことないの」


「アンナ! 早く行くわよ!」


「はぁ~い」


 カリーナに大声で呼ばれたアンナは、ペロリと舌を出して肩をすくめた。それからシャーロットとジャスミンに手を振って、楽しそうに鼻歌を歌いながらカリーナと一緒に脱衣所をあとにした。その2人の上級生を、シャーロットとジャスミンは微笑みながら見送った。


「それじゃあ、シャーロット。私たちもそろそろ部屋に戻りましょうか」


「うん。ちょっと荷物まとめてくるねぇ~」


 ジャスミンに声をかけられたシャーロットは、すぐに青いパジャマの上着を羽織り、脱いだ制服やタオルを入れたカゴを手に取った。そしてジャスミンと一緒に脱衣所をあとにした。


 ソフィア寮の2階にある大浴場を離れた2人は、階段をのぼって3階に移動し、星空の下の屋上庭園をゆっくりと横切っていく。それから315号室の前でジャスミンと別れたシャーロットは、自分の部屋の前で足を止めて、廊下の左右を見渡した。


(右よし、左よし……誰もいないよね……?)


 念入りに人の気配がないことを確かめたシャーロットは、パジャマとキャミソールをまとめてめくり上げた。そして自分の腹を軽くつまんで指でつつくと、渋い表情を浮かべながら小さな息を吐き出した。


「ああ……。やっぱりわたしもフヨフヨだったか……」


 予想どおりの現実を目の当たりにしたシャーロットは、ガックリと肩を落とし、しばらくその場に立ち尽くした。それから『――よし。明日から体を鍛えよう』とほんのチョッピリ心に誓い、316号室のドアを開けた。



「ただいまぁ~」


「……ああ。おかえり」


 部屋に戻ったシャーロットは、奥に向かってのんびりとした声をかけた。すると机に向かっていたネインが振り返らずに返事をした。どうやら魔法陣の模写に没頭している様子だ。


「どぉ? うまくいきそう?」


「……ああ。問題ない」


 シャーロットは壁際に積まれた木の箱を眺めながらネインに背中に近づいた。それは夕方に運び込まれた、一輪挿いちりんざしの詰まった箱だ。するとネインは机の上に置いていた一輪挿いちりんざしを手に取り、隣に立ったシャーロットの方に向けた。シャーロットが受け取って見てみると、一輪挿いちりんざしの底の部分に1枚の紙が貼ってある。しかし魔法陣が見当たらなかったので、シャーロットはわずかに首をかしげた。


「あれ? 何も描いてないけど、もしかして魔法陣を内側にして貼ったの?」


「ああ。この魔法陣は、魔女が使う魔法に反応して作動するからな。表にする必要はないんだ」


「ふーん、そうなんだぁ」


 シャーロットはあまり興味なさそうに呟いて、一輪挿いちりんざしを机に戻した。それから、一心不乱に魔法陣を模写しているネインを見つめながら口を開いた。


「その魔法陣って、全部で202枚描くんでしょ? いつごろ描き終わりそうなの?」


「……そうだな。けっこう慣れてきたから、たぶん3日……いや、2日で終わるだろ」


「そうすると、金曜日ってことね……。それじゃあ、土曜日の朝にお花を配達してもらって、みんなの部屋に配ろっか」


「ああ。その予定で頼む。それと、花の手配を頼んでもいいか?」


「うん。今はどうせ授業がないから暇だし、明日の朝にでも行ってくるね」


「悪いな。そうしてもらえると助かる……」


 ネインは話しながら手を動かして、ひたすら丁寧に魔法陣を描いていく。その一生懸命な横顔を見つめながら、シャーロットはふと尋ねた。


「ねぇ、ネインくん。ちょっと訊いてもいいかな?」


「……ああ」


「ネインくんのお父さんって、どんな人だったの?」


「尊敬できる人だった」


 ネインは即座にそう答えた。それがあまりにも迷いのない声だったので、シャーロットは一瞬呆気に取られて、次の言葉が出てこなかった。


「そ、それじゃあ、どういうところが尊敬できたの?」


「さあ、どういうところかなぁ……」


 ネインは魔法陣を描く手を止めることなく、少しだけ考え込んだ。そしてゆっくりと言葉をつむいだ。


「オレが4歳の時に妹のナナルが生まれたんだが、父さんは子どもみたいに跳びはねて喜んでいた。そして毎日真面目に働いて、いつも明るく笑っていた。あの時のオレにはわからなかったが、たぶんあれが幸せというヤツだったんだ。そしてそういう普通の幸せを守るために、父さんは必死になって頑張っていた。そういうところを、オレは心から尊敬している」


「そうなんだ……」


 ネインの話を聞いて、シャーロットはわずかに顔を曇らせた。ネインが亡くなった父親のことを、過去形ではなく現在進行形で尊敬していると答えたのが、シャーロットにはうらやましかった。


 もちろんシャーロットも、育ての父であるモーリス・ナクタンのことは尊敬している。しかし、実の父が前の国王サイラス・クランブリンだと知ってしまった今となっては、自分の心がよくわからなくなっていた。


 サイラス・クランブリンは、どうして実の娘を手放したのか。そしてモーリス・ナクタンは、他人の娘をどういう気持ちで育てていたのだろうか――。


 今まで家族と信じていた人が、ある日突然他人になってしまった。その事実をクレアから知らされたシャーロットは、今日まで時間をかけて何とか受け止めてきたのだが、やはり心に穴が開いたような気持ちはなかなかすぐには埋まらなかった。


 それはまるで大きな川に流された小枝のような、寄る辺よるべのない喪失感だ。だからシャーロットは父親というものを知りたいと思い、再びネインに尋ねてみた。


「それじゃあ、父親っていうのは、誰でも子どものことを大事に思っているのかな……?」


「……どうかな。それは父親になってみないとわからないな」


「それはまあ、たしかにそうだよね……」


「だけど、父親に限らず、親というのは子どもを大事に思っているはずだ」


「そうなの?」


「ああ」


 ネインは一瞬だけシャーロットに目を向けてうなずいた。


「オレは昔、がけ崩れにって、岩の下敷きになったことがある」


「……えっ?」


 思いがけないネインの言葉を耳にして、シャーロットは思わず呆然とした。しかしネインは落ち着いた口調でゆっくりと話し続ける。


「その時、母さんは自分の命を振り絞ってオレを助けてくれた。しかし、この世のすべての親が、オレの母さんと同じようなことをできるとは思わない。それにオレの村にも、自分の子どもを教会に捨てて姿を消した人がいる。一口に親と言っても、結局は1人の人間だからな。個人の能力には差があるし、他人には言えない事情を抱えている人も多いだろう」


「他人には言えない事情……」


 シャーロットはその言葉を口の中で繰り返した。


「そうだ。人にはそれぞれの事情がある。複雑な事情で子どもを育てられない人も多い。様々な事情で子どもを大事にできない時もあるはずだ。だけど、自分の子どもが大事ではない人はいないと思う。少なくともオレはそう信じている」


「だからネインくんは、あのカメオを、持つべき人に渡したいと思ったんだね……」


 そのシャーロットの言葉に、ネインは無言でうなずいた。


「だけど、そうだよね……。誰にだって、人には言えない事情があるよね……」


 シャーロットは呆然と呟きながら、ベランダに通じるガラスの扉に顔を向けた。そして黒い夜空を眺めながら、小さな息を1つ漏らした。


(ほんと、どうしてだろ……。どうしてわたし、気づかなかったんだろ……。サイラス陛下には、きっとなにか事情があったんだ。わたしを他の人に預けたのは、人には言えない事情があったからだ。そんなこと、ちょっと考えればすぐにわかることなのに……。どうしてわたし、自分の気持ちしか考えていなかったんだろ……)


 シャーロットは椅子から立ち上がり、ガラスの扉に手を触れた。そして外に目を向けると、はるか彼方の暗い天空で星がいくつかきらめいている。その遠い輝きを見つめながら、シャーロットは自分がどこに立っているのか、もう1度考えた。


 自分がどこで生まれ、どこで育ち、そして今、自分は何を考えなければならないのか――。


(ああ、そうか……。これが運命なのかも……。こうやって、わたしがわたしについて考えることが、わたしの運命なんだ……。だったら、わたしが選ぶ道は――)


 シャーロットは胸の青いロケットをそっと握った。そして、長い間揺れていた心がゆっくりと落ち着くのを感じながら、胸の中で父の名前を呟いた――。


 するとその時、不意にネインがシャーロットに声をかけた。


「……悪いけど、その扉は開けないでくれよ」


「えっ?」


 シャーロットは反射的に振り返った。するとネインは顔を上げてガラスの扉を指さした。


「また鳥が飛び込んできたら困るからな」


「あ、そゆこと」


 それがネインの冗談だと気づいたシャーロットは、思わずクスリと微笑んだ。それから嬉しそうに目を細め、明るい声で感謝を告げた。


「ねぇ、ネインくん。今日はいろいろ話してくれてありがとね」


「ああ。オレの方こそ、シャーロットにはいろいろ感謝しているからな」


 ネインはそう言って、手首に巻いた白と緑の革紐に目を落とした。それから再び魔法陣を描き始める。そのネインの姿を眺めながら、シャーロットはふと思い出して質問した。


「あ、そうだネインくん。お風呂どうする? たぶん、わたしとジャスミンが最後だったから、もう誰もいないと思うけど」


「あぁ、風呂か……」


 訊かれたとたん、ネインは自分の脇に鼻を近づけて匂いをいだ。


「そうだな。せっかくだから、軽く汗を流しておくか」


「それじゃ、いこっか」


 ネインが立ち上がってタオルを手に取ったので、シャーロットもランプをつかんでネインと一緒に廊下に出た。


 そして2階の脱衣所に入ったシャーロットは、こっそり横目で大きな鏡を盗み見た。そこには服を脱ぎ始めたネインの体がはっきりと映し出されている。しかしネインはシャーロットの視線に気づくことなく、そのまま大浴場へと入っていった。


 そうして脱衣所に1人残ったシャーロットは、激しく鼓動する心臓を両手で押さえながらポツリと呟いた。


「どうしよ……。ネインくんの腹筋見たら、なんだかドキドキしてきたんだけど……」


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