6.花の娘
その夜、フライハイトが帰宅すると、いつものようにフェルトが迎えてくれた。顔には笑みがあったが、その下にうっすらと疲労と緊張が見て取れた。しかしフライハイトは何も言わず、そっと妻を抱きしめ、小さな子どもにするように、額に口づけた。「当番」の日が近づくにつれ、高まっていく彼女の緊張を、そんな風になだめることしかできなかった。
小さな足音がして、バルトが眠そうな顔をリビングから覗かせた。遊び疲れてうたた寝でもしていたのだろうか、茶色い髪が四方八方を向いている。フライハイトは歩み寄り、自分の幼い頃に似てひどく小さな体を、自分がかつて父親にそうされたように抱き上げて、キスをした。羽のように軽い息子は満面の笑みを浮かべ、フライハイトの頬に音付きのキスを返した。
バルトの輝くような笑顔に、胸が暖かなもので満たされ、心の奥底でざわめいているものが静まるのを感じた。ふと、自分が父親に感じたように、息子も自分という存在を誇りにしてくれているだろうかと思う。そして自分が父親にとって誇りとなる存在ではないと思い込んで悩んだ子ども時代の惨めな気持ちを思い出す。こうして息子を持った今、もしも父親と今の自分が同じであれば、自分は父親にとって誇りであっただろうと思えた。バルトを誇らしく思うように。
小さな体から花の香りがした。息子を腕に抱いたままリビングに入るとその理由がわかった。大きな二つの籠にいっぱいの花がある。フェルトが祭の準備を始めたのだ。村では年に一度、秋の終わりに祭が行われた。祖先の霊を慰め、一年の労働を慰撫し、豊作を祝い、新しい年の繁栄を祈願する。
その年に十八になった娘の中から巫女役が選ばれる。巫女といえば大袈裟だが、要は祭の彩りのようなものだ。選ばれた娘は毎年新しい衣装で着飾る。集められた花々はその衣装に色と香りをつけるためのものだった。フェルトはその花を葉と茎に仕分けしている。茎の部分が染料となり、鮮やかな青い色を生み出す。
「今年はバルトが手伝ってくれるから助かるわ」
フェルトが言うと、バルトははにかんだ顔をしてから、少し得意気に笑った。フライハイトは息子の頭を撫でてやることで、息子の労働を認めてやった。
食事の後、バルトをベッドに入れると、時間は夫婦二人だけのものになる。フライハイトは花の仕分けを手伝いながら、リンドから聞いた話を持ち出すかどうか迷っていた。
フライハイトがヴァールの件で子どもの社会から追い出されてしまった時、幼なじみのフェルトだけは違っていた。性別で集団が別れてしまう年頃になっていたこともあり、積極的にフライハイトと親しくすることは難しくなったが、それでも顔を合わせれば昔通りの親愛を示してくれた。成長して、二人が親密になってからは、フライハイトを通して、ヴァールとのつきあいに加わることもあった。最初のうち、フェルトはヴァールを恐れていたが、受け入れようと努めていた。フライハイトを驚かせたのは、ヴァールの方が彼女に興味を持ち、彼にしては珍しい積極さを見せたことだった。
子ども時代は孤立していたフライハイトだったが、十代も半ばを過ぎる頃には肉体的な成長が目ざましく、大人びた落ち着きが出てくるにしたがい、元々の誠実で大様な性格もあって、自然に信頼や尊敬を集めるようになった。村の大人の社会に加わる頃には、孤立した状態は消えていた。
しかし、ヴァールは完全に村の社会から隔絶した存在だった。トゥーゲントの死後、天涯孤独となったあとも、フライハイト以外の人間と一切つきあおうとしなかった。そんなヴァールにフライハイトは危惧と不安を募らせていたので、彼とフェルトが親しくなることに安堵を感じたものだ。ほんの少しにしろ、ヴァールが自分以外の人間に興味を持ったことがひどく嬉しかった。
「どうかした?」
フェルトが穏やかな声で訊いた。いつも寡黙であるがゆえに、ほんの少しの仕草や声の調子で心の動きがわかるらしい。フライハイトはそんな妻の聡さに気づいて、ほんの少し笑った。
十年近い時を経て知ったヴァールの消息は意外なもので、そして不安をかき立てられるものでもあった。ただでさえ、このところ不安定なフェルトに聞かせるべきではないのだろう。それでも話したいと思うのは、自分以外で唯一ヴァールと繋がりがあった彼女に、知っていてもらいたかったからかもしれない。
フェルトは単調な作業を続けながら、一言も言葉を挟まず、じっと聴いていた。話し終えた後もしばらく黙ったままの妻の指先をフライハイトはぼんやりと見つめた。白く細い指が薄い青色に染まっている。ふいにそのきれいな色にざわざわと心の奥底が騒いで、苦い気持ちになる。それを飲み込んでいる間に、フェルトはつっと立ち上がって台所へ消え、しばらくして二人のために淹れたお茶を運んできた。カップを夫の前に置くと、彼女は今気づいたように、自分の指先を見つめた。
「これ、なかなか落ちないのよね。布に染めるとすごく綺麗だけど」
そう言って、指先を鼻に近づけ、匂いを嗅いだ。花の香りよりも植物独特のえぐみの強い匂いがする。
「あの年、私は“花の娘”になりそこねたわね」
フェルトはそう言って、ふわりと笑った。しかしその笑みはどこか寂しげで、フライハイトは妻がこうして毎年この季節に花の仕分けをする度に、それを思い出して心を痛めていたことに初めて気付いた。
村の娘が一生のうち、たった一度のチャンスで選ばれる“花の娘”にフェルトが指名された年の祭は、華やかさなどみじんもなく、喜びも賑わいも無く、ただ忌まわしい記憶のみを村の人々に残した。
その年、一ヵ月も前から準備されていた祭壇と巫女が入る予定の
祭壇にぶちまけられた動物の血と臓物を見るまでもなく、村の人間の全てが、誰の仕業であるかを理解していた。罰を与えるべきだといきり立つ者もいたが、結局それを実行する者はいなかった。それまで、本人にはどうしようもない出自を理由に、いわれのない差別と迫害を繰り返してきた罪悪感があったからかもしれない。或いはその結果起きた数年前のリンチ事件の記憶がまだ生々しく彼らの中にあり、これが報復だと感じていたのかもしれない。
事実、それは報復だったのだろう。その事件の記憶が彼ら以上に強く残っていたのは当然ヴァール自身で、受けた苦痛を忘れたわけでも許したわけでもなかった。その異常とも思える徹底的な破壊の痕跡を目の当たりにした時、村の人々は、負の感情を投げられ続けてきた男の蓄積された怒りのすさまじさに衝撃を受け、恐れを感じたのだ。
祭は場所を変えて簡素に執り行われたが、“花の娘”の式典は取りやめになった。フライハイトがフェルトの家に行くと、彼女は自分の部屋で青い花の色の衣装を身にまとい、
フェルトの嘆きと哀しみは彼を切なくさせたが、その当時もその後も、ヴァールを問い質すことも、責めることも一切しなかった。その行為の間、ヴァールの心を吹き荒れていたものを思い、ただ胸がえぐられるように痛んだ。何も出来なかった子どもの頃に聞いた、ヴァールの地の底から響いてくるような呪詛の言葉が、その心の叫びが蘇ってきて、無力感にさいなまれた。
妻の小さなため息で、過去の記憶から引き戻され、当時と変わらないほっそりした指先の青い色を見つめながら、フライハイトは今までに何度も考えてみたことを再び考えた。ヴァールとフェルト、二人の間には何かが確かにあった。それが何であったのか確かめようはなかったが、ヴァールの彼女への想いは、自分のものと同じだったのではないかという気がしてならない。唯一その孤独な心に止めた女を、自分が奪ってしまったのかもしれないという罪悪感が胸にわだかまっている。
祭の後、急速に関係を深めていった自分とフェルトを、ヴァールはどう思っていたのだろう。そして、今もヴァールの話題に何も言葉を発しない妻の心の中には何があるのだろう。
フェルトの指先が腹のふくらみを撫でているのを、フライハイトはぼんやりと見つめた。
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