5.魔女の子(2)
「戦争の話を、知っていますか?」
急に訊かれてリンドは戸惑った。
「戦争? いつの? どこの国の?」
リンドが訊き返す。子どもの頃、大人に問えば必ずこれと同じ応えが返ってきたので、フライハイトはいつしかその問いを誰にも向けなくなった。
「この国の、クラーニオンでの。今から三十年程前にあった内乱の話です」
「内乱?」
戸惑うリンドの顔を見ながら、フライハイトは困ったように笑った。そうするしかなかった。その話を、フライハイトはあの日の後も何度かヴァールから聴いた。それはどれも初めて聴くことばかりで、それまでもその後も、村の人間の口から聞いたことはなかった。それでも、フライハイトはそれが本当の話のような気がしてならなかった。少なくともそれを語るヴァール自身がいかにも下らないという口調でありながら、本当はその戦争の話を信じているのを感じ取ったからかもしれない。
「誰からそんな話しを?」
リンドは訊いてみたものの、当然答えは明らかだった。
「三十年程前に内乱が? 俺はもう三十五だが、そんなことがあった記憶はないし、その後も聞いたことはないな。このブロカーデの村は三百年も前からここにある。過去にはいい時代や悪い時代や、多少の波はあったのかもしれないが、おおよそは平和だっただろう。今みたいにな。内乱だと?」
言葉を濁してリンドは笑った。いかにもねじれた子どもの考え出した愚にもつかない空想か妄想だった。フライハイトの前では決して言葉にはしないが、ヴァールは気味の悪い子どもだった。彼のことを考える度――滅多にないが――何とも言えない不快感が胸にわだかまる。それはヴァール自身のせいだとリンドは決めつけていたが、その底にある罪悪感については無意識に考えないようにしていた。
リンドは黙ってしまったフライハイトにつきあい、そのまま無言で酒を飲み干した。フライハイトがビアをつぎ足す。戦争か、とリンドが言葉を弄ぶように頭の中で転がした時、ふいに体術の師匠の記憶が蘇った。
若い頃、ただ強くなりたいという単純で原始的な理由でリンドは体を鍛えた。が、そんな自分と師匠との間に差を感じることがあった。その差が何なのかわかるのに時間がかかったのは、自分が持つ必要のないものだったからだ。自分だけでなく、村の若者の誰もが持とうとはしないものだった。自分にはなく、けれど彼の師が皮膚のように張りつけていたもの、それは危機感だった。
師は何かを恐れていたようだった。見えない何かを恐れるように、差し迫った何かに備えるように自分を厳しく鍛え、その情熱をそのまま弟子に伝えようとしていた。
今も師を駆り立てていたものが何だったのか、リンドにはわからない。この歳になって、体力の衰えや力の喪失といった逃れようのない老いのことかと想像するようになったが、師の心の中には何か決まった対象があるように感じられた。そして、師だけでなく、リンドが幼い頃は村の大人たちの間に、今はない奇妙な緊張感が確かにあった。体術にしても、男たちは皆、身につけておかなければならないもののような熱心さで修練に打ち込んでいた。もしも、戦争或いは争いが身近であれば、今もそうだったのかもしれない。ブロカーデの体術は、殺傷能力を持った実戦向きの武術だからだ。
しかし、実際にはそのようなものは、ありはしなかった。
クラーニオンは現王の元で長く平和が続き、ブロカーデにしてもクラーニオンの辺境に位置する場所がら、他国の豪族や無頼の集団の襲撃を受ける可能性もあったが、そうした勢力からも忘れられた小さな村だった。
では、あの当時のどこか緊迫した雰囲気はなんだったのだろう。リンドは長らく忘れていたそれを思い出し、何故か不安な気持ちになった。師のまとっていた切迫した気配は、当時の大人たちが持っていた力への渇望と欲求は、一体何だったのだろう。
しかし、その疑問はリンドの心の中からどこかへと流れ去っていった。彼は不安感を、体に回りはじめたアルコールのせいにした。何にしろ、戦争など下らない与太話だ。あの男のおかしな頭の中で創り出された愚にも付かない妄想に違いない。
リンドの記憶の中にその姿が蘇った。最後に見たのは彼が村を出た九年前。ひょろ長い体に黒い髪、黒い瞳。陰鬱な暗いその瞳で、人の心を見透かすような目付きをしていた。深い森の中にたまる暗闇に似た男だった。
あいつはいかれていた。多分、あの頃からヴァールはいかれていたのだとリンドは思う。それが、最近久しぶりに耳にした彼の噂に結びついて、妙に納得がいった。
「トゥーゲントがそう言うのさ。あいつはいかれてる」
ヴァールは自分の父親を名前で呼んだ。
二度目に会った時、フライハイトがずっと気になっていた戦争のことを訊くと、ヴァールは嘲る口調でそう答えた。
少年が父親から聴いたのだという話によれば、戦争というのは十年程前に今のクラーニオン国王デュランが即位する際に起きた内乱のことだという。前王の死をきっかけに、王位を巡って乱が起きたが、数カ月の後、現王側が勝利し、即位したのだという。
「あいつは酒で頭が壊れてるんだ」
乱酔した父親の口が紡ぎだした物語だという。しかし、フライハイトはまるで異国のお伽話を聞くように、興味を惹かれた。たとえ、その話を他の誰も知らず、真偽も定かで無いにしても。そして、信じていないような口振りでありながら、自分と同じ興奮がヴァールの中にもあることを感じ取ると、秘密を共有しているような親近感を覚えた。
最初に話をしてから、ヴァールは度々、ウサギのいる丘に現れるようになった。最初の時と同じように風下にいて、フライハイトが餌を与え、ウサギがそれを食べるのをじっと見ていた。フライハイトはヴァールの存在に最初は戸惑いもしたが、すぐに気にしなくなった。
ヴァールは様々な事を話した。それまでヴァールの声すら聞いたことがなかったので、寡黙なのだと思っていたが、少年は思いのほかよく喋った。フライハイトが無口なので、ほとんどヴァールが一人で喋った。少年が語る話は多種多様で、そのどれもが聞いたこともないようなものばかりだった。彼は誰も興味を持たないようなことに興味を持ち、誰もが当然だと思っていることを不思議に思い、そして誰も知らないことを知っていた。フライハイトはヴァールの口から出てくる話に驚き、唖然とし、興奮した。
「何故、皆が知らないことを知ってるの?」
ある日、ナキウサギの丘で訊いた。
「知りたいから知ってるのさ。皆は知りたくないから知らないのさ」
ヴァールはそんな風に言って口の端を歪めた。フライハイトが黙っていると、ヴァールはふいっと横を向いた。それが、どう応じていいのかわからず戸惑っている時の少年の癖だと、フライハイトは既に知っていた。
「うち、本が沢山あるんだ」
そっぽを向いたままヴァールがぼそりと言った。王都から魔物の「食事」が届けられる時、輸送人が置いていった本や新聞があるのだという。おそらく、それを頼んでいるのはトゥーゲントのようだったが、本人は手も触れず、ヴァールがそれらを片端から読んでいた。
その話を聞いてフライハイトは目を輝かせた。少年たちにとって都はマクラーンの魔物の次に関心の高い話題だった。その興味の傾向は全く違うものだが。しかし大人たちは都の話をしたがらないし、ましてや遠い都から送られてくるものを持っている人間などいない。実は、そのことがずっとフライハイトは不思議だった。大人たちは子どもと違って自由であるのに、何故都に興味を持たないのだろう、何故都に行ってみないだろうかと。
「閉鎖的だからな。村にいる奴らはここの生活に満足してるんだ。だから都のことには関心がないのさ。子どもにも余計な知識を与えないようにしてるんだ。出ていくなんて思わないようにするために」
ヴァールはいつもフライハイトの質問に何でも答えてくれたが、今度も難しくてよくわからなかった。
「ヘイサテキって何?」
「閉鎖的っていうのは、一つの場所にずっといて、そこだけの暮らしに満足して、それを守って他のものを入れないことさ」
ヴァールはフライハイトから借りた小型ナイフで木片を削りながら言った。少年の器用な手の中で木片は何かの動物の形に変わっていく。それを興味深げに見つめながら、フライハイトは少年の言葉を考えていた。この村の暮らしは好きだった。仲間に意地悪はされてもそれが深刻な程辛いわけではない。不満もあるが、満足もある。村以外の土地への興味があったが、ここを離れようとは思わない。それが「ヘイサテキ」というものなのだろうか、と思った。
同時に、ヴァールはこの村を出ていきたいのだろうかと思った。この村で、ヴァールは蔑まれ、虐げられている。けれど、当の本人はそのことを気にしてはいないように見え、いつも超然としている。それでもやはり本当は辛いのだろうか。
辛いのだろう。
ヴァールはいつも独りぼっちなのだ。一人でいたがる素振りが、本音か強がりかはわからない。けれど、自分と会った時はいつも言葉が溢れるように止まることのない少年のことを思うと、やはり孤独なのだろうと思う。
「その本、見に行ってもいい?」
フライハイトが言うと、ヴァールはナイフを動かしていた手を止めて、顔を上げた。そこにはっきりと驚きの表情があった。
「駄目?」
フライハイトもヴァールの反応に驚いておずおずと言うと、ヴァールは何故か顔を赤らめて怒ったようにそっぽを向いた。
「俺のうちなんて来ない方がいい」
再び木片を削りはじめたが、その手の動きに集中力はなかった。
来ない方がいいという理由を、フライハイトはよくわかっていた。ここでこうして会っていることは誰も知らない。ほんの少しでも親しくしていることがわかれば村の仲間たちがどう思うか想像できた。
ヴァールは作りかけの木像をぽいっと放り投げ、小型ナイフをフライハイトに返すと立ち上がった。そのまま何も言わず背を向けて帰っていった。フライハイトの足元には出来損ないの木像が転がっていた。それは奇形のウサギのようだった。
それからヴァールは丘に現れなくなった。
会わなくなってからの間、フライハイトは村の中でヴァールの姿を探した。時折見かける彼はいつも俯いていて、たとえ真ん前に人が立っていてもその足ぐらいしか見えなかっただろう。誰も見ないことで全てを拒んでいるように思えた。
しばらくして、ウサギも姿を見せなくなった。奇形の体が生命を保てなくなったのか、それとも住処を変えたのかはわからない。フライハイトは丘に来る理由をなくしてから、いつの間にかウサギの餌やりを丘に行く理由にして、本当はヴァールに逢いたかったのだと気づいた。同時に、誰にも知られないようこっそりと丘の上だけでヴァールと逢っていたことにやましさも覚えた。
ようやくもう二度とウサギには会えないのだと諦めた日、フライハイトは村の外れにあるヴァールの家へと向かった。そのずっと先にある少年の家のことを考える。ヴァール自身に対する恐怖心はすでになかったが、それでもその家と「世話係」に対する恐怖は依然として残っていた。
ヴァールの家は村の集落から離れて一軒だけ森の中にポツンとあった。孤立している理由は、その家に近づくにしたがいはっきりしてきた。その吐き気をもよおす悪臭は、魔物の「食事」を入れるための樽の匂いだった。それらはさらに森の奥に置かれていたが、匂いはその場所と家とを結んでいるように強く漂っていた。
少し離れてついてきていた村の子どもたちの姿は少なくなっていた。子どもやそして大人たちが、その家に続く森の道に入っていくフライハイトをじっと見つめていた。それは監視者のような鋭い視線だった。実際、彼らは無言でフライハイトを咎めていた。
その中の幾人かが、見張るようにフライハイトのあとをつけてきた。彼が何をしようとしているのかを確かめるために。
ヴァールの家が視界に現れた。
腐敗した臓物と血液の強烈な悪臭に息苦しさを感じて、フライハイトは息を詰めた。匂いに誘われた無数のカラスが屋根を黒くするほど集まっている。この匂いの中での生活など想像もできない。しかし、なにより家全体を覆う空気の淀みと心底ぞっとするような気配に、フライハイトはたじろいだ。それは子どもたちには行くことの許されないマクラーンの魔物の家を想像させた。ヴァールの家は、それ自体が邪悪な意思を持ち、フライハイトを圧倒した。
足が震える。このまま駈けて引き返したい衝動で、体中の筋肉がバネのようにはじけ飛びそうだった。ここが来てはいけない場所であることを、強く意識する。
今ならまだ引き返せる。そして、ちょっと道を間違えただけだとでも言い訳すればいいのだ。誰もがそんな馬鹿げた言い訳を信じないだろうが、その信憑性よりも、彼らの側に戻ってきた事実の方が村の中では大事であることを知っている。
そして、もう二度とヴァールとは会わないのだろうか。
脳裏に背高で痩せぎすの暗い瞳の少年の顔が浮かぶ。彼の子どもらしくない物言いと、低く抑えた話し声が耳に残っている。ずっと押し込めていた場所から溢れ出て来たように沢山の言葉を熱心に語るヴァールを思い出す。その心の奥にあるものをフライハイトは見、聞き、感じた。それらを全て捨ててしまえるだろうか。
フライハイトは前方の不吉な佇まいの家を見上た。ごくりと唾を飲み込むが、からからに乾いた喉を通るものは何もなかった。震える足に力を入れなおし、その家に向かった。
周囲の木々や屋根に止まったカラスが見慣れぬ客に警戒し始める距離に達した時、突然、家の中から男の怒鳴る声と何かが壁か床に叩きつけられて壊れるけたたましい音が響いた。数羽のカラスが屋根の上で跳ねると、屋根自体が動いているように見えた。
フライハイトがその音とカラスの動きにすくみあがった時、その場の緊迫感とはそぐわない静かな動きでドアが開いた。光の射さない暗い屋内から薄汚れた服を来た背高な少年がするりと抜け出てきた。背後から父親のものらしいどこか常軌を逸したわめき声がする。開かれた時と同じようにドアが静かに閉まる。
ヴァールは俯いたまま背を丸めるようにしてフライハイトの方へ歩いてきた。そして突っ立ったままのフライハイトの足を見て、ぎょっとしたように顔を上げた。さらにフライハイトを見止めると、驚いたように目を見開き、そして周囲と、フライハイトの背後に素早く視線を泳がせた。
フライハイトが口を開くより早く、ヴァールは彼を避けるように通り過ぎ、足早に歩き去ろうとした。フライハイトが追いかけようと振り返った時、自分を監視している年長の子ども数人が目に入った。怒りと脅えが一瞬、体を震わせた。が、彼らには構わずヴァールを追った。
「来るな」
先を行く少年が聞き取れない程の小さな声で言い、足早にどんどん歩いていく。
「ウサギが……」
話すきっかけを作りたくて、フライハイトは追いすがりながら言いかけた。
「話しかけるな」
再びヴァールが振り返りもせず不機嫌に言う。フライハイトは口を噤み、なすすべなく後を追った。
「ついてくるな」
ヴァールの口調がナイフの切っ先のように鋭くなっていた。その声の厳しさに、フライハイトは足を止めた。少年の背はどんどん遠くへ離れていった。自分を拒絶する硬い背中だった。その背に、恐怖に高ぶった子どもたちのヒステリックな罵声が浴びせられたが、ヴァールはいつものようにじっと地面を見つめたまま振り返りもしなかった。フライハイトは思いがけず泣きたい衝動を覚えたことで、どれほど自分が彼と話をしたかったかに気付いた。 その姿が消えた後、フライハイトは仲間たちにあれこれ訊かれたが、答えなかった。そのせいで小突かれたり、叩かれたりした。自制を失うほど興奮した年長の少年に、悪戯にしては度が過ぎる力で頬を殴られた時、子どもたちのヴァールに対する憎しみと嫌悪の強さを思い知らされた。彼らはヴァールの側に寄ることすら許さないのだ。そして、ヴァールはそれを知っていたのだと思った。それでも、どういう理由であれ、友人たちの暴力よりもヴァールの拒絶の方が辛かった。
その夜、いつもより痣の多い息子の傷を穏やかな母の手が手当てした。何も言わず、訊かず、ただ優しく頬を撫でる母に、ささくれた気持ちを慰められながら、フライハイトはヴァールのことを思った。誰が彼を慰めてくれるのだろう。今、どうしているだろう。こうして優しく自分を撫でてくれる母ですら、ヴァールのことになると、どんなに隠してもわかるひんやりしたものを感じさせるのだ。この村の大人たちと同じように。
翌日からフライハイトは懲りずにヴァールを見つけてはついて回った。それを仲間に見とがめられて、無理やり子どもたちの遊び場に連れていかれ苛められたが、解放されるとすぐにヴァールを探した。ヴァールは言葉を発しなくなり、フライハイトの存在自体も完全に無視していた。けれど、ついてまわるうち、フライハイトはその丸めた背中が自分を十分に意識していることを感じていた。
日に日にフライハイトの怪我は増え、彼に対する反感は高まっていった。次第に子どもたちの間に不穏な空気と緊張が漂い始めていた。しかし、大人たちはその理由に気付いていても、見て見ぬふりをした。
ある日、その緊張は極限に達し、ぶっつりと切れた。
子どもたちの小さな心の中から溢れだした醜い感情は、フライハイトではなくヴァールに向けられた。それまで、魔物の食事係であるという恐怖の対象であったトゥーゲントの存在がある意味抑制となり、子どもたちが直接ヴァールに対して暴力を振るうことはまれだった。が、子どもたちの苛立ちと反感はその境を越えてしまった。
フライハイトが見ている前で、ヴァールは少年たちに取り囲まれた。彼らの尋常ではない殺気に危険を感じたフライハイトが周囲の大人たちに向けたすがる視線はことごとく無視された。ヴァールは森の中のマクラーンへ続く門の近くまで連れていかれた。
ヴァールを引きずっていく少年たちの後を追って森に入り、遠くに彼らの姿を見つけた所で、フライハイトは別の少年たちに押し止められた。
森の外れに巨大な壁がある。どこまで続いているのか誰も知らない壁は、ここと向こうの世界を隔てている。その向こうには魔物が住んでいるという。
フライハイトはこちら側にも魔物はいるのだと思った。
聞くに絶えない、胸を抉るような悪口雑言が森の静寂に響く。その中心にいる少年の姿は、フライハイトのいる場所からは遠くて見えなかった。
が、彼の幼い心を切り刻むような恐ろしい音が聴こえてきた。
叩く音、殴る音、蹴る音、人が人の肉体と心を痛めつける音。ぞっとする音だった。
「やめてっ」
フライハイトは声が出なくなるまで叫び続けた。無我夢中で狂ったように暴れた。強かに殴られ、鼻が嫌な音をたてた。途端に火がついたように熱くなった鼻から驚く程の血が流れ出した。興奮した数人の少年がさらにフライハイトの腹を殴った。一瞬息がつまった後、激痛が体を貫いた。体を折り曲げて激しく嘔吐すると、折れた前歯が何本かはき出された。それでもフライハイトは暴れ続けた。しかし、小柄な体を押し止める力は弱まらなかった。
永遠とも思える時間がのろのろと過ぎ、少年たちはようやく嵐のように荒れ狂う感情を放出しつくし、動かなくなったヴァールを残して去って行った。
ようやく解放されたフライハイトはよろけながらヴァールの元へ走った。酷い有様だった。素裸にされたヴァールの全身は血まみれで、至る所が赤黒く腫れ上がり、片腕と片足があり得ない方へねじ曲がっていた。ぴくりとも動かないのを見て、フライハイトはくぐもった悲鳴を上げた。死んでしまったのだと思った。
動転したまましゃがみこんで恐る恐る覗き込んだ顔は、流れ続けている血に汚れ、膨れ上がり、元の形を失っていた。フライハイトがショックのあまり泣きべそをかきながらそっと頬に触れると、痛みのためか肩がびくっと震え、呻き声がヴァールの腫れ上がった唇から洩れた。生きていることに安堵したものの、その肉体になされた暴虐にフライハイトは血反吐と共に嗚咽を漏らした。
自分のせいなのだと思った。本当なら自分が痛めつけられていたに違いない。でも、どちらにしろ何故、こんな酷い仕打ちをうけなければならないのだろう。自分が、ヴァールが何をしたというのだろう。そして、何故、自分は何も出来なかったのだろう。
フライハイトはしゃくり上げるような声で泣き続けた。それまで泣いたことなどほとんどなかったが、突き上げてくる哀しみに涙が止まらなかった。そして、体から流れ落ちた涙のあった場所に、重くて熱いものが溜まっていった。その怒りと憎しみの黒い感情は少年には持ち慣れないものだったが、体の中でどんどん大きくなっていき、その重さのせいで息ができないほどだった。
「泣くなよ」
くぐもった声でヴァールが言った。フライハイトははっとしたように彼を見た。涙でさらにヴァールの顔が歪んで見えた。少年が起き上がろうとしているのに気づいて、フライハイトは手を貸した。しかし起きあがることは到底できず、苦痛のためにヴァールは呻き声を漏らすしかなかった。
フライハイトが心配げにその顔を覗き込むと、ヴァールは空のどこかをきつい眼差しで睨んでいた。フライハイトが思わずその方を見上げると、蔦が絡まり苔むした巨大な壁があり、こちらに倒れてきそうな威圧感があった。
呻き声の他、ヴァールが何かを呟いているのが聴こえて、フライハイトは視線を戻した。藍色の瞳に壁が映っていた。その奥にぎらぎらした光があった。
「ちきしょう、ちきしょう」
ヴァールは震える声で繰り返し、瞼を瞬かせた。涙が溢れてきて、腫れ上がった頬を濡らすのを、フライハイトは嗚咽を漏らしながら見つめていた。
結局、フライハイトは村に駆け戻り、畑に出ていた自分の父親に助けを求めた。父親は血だらけの顔と、滅多に泣かない息子の嗚咽とその必死の形相を見、何も問わずに森へ来てくれた。ヴァールは最初、その手を拒もうとしたが、とても一人で動ける状態ではなかった。
手足の骨折の他に全身の打撲に加え内臓にも少なからぬ損傷を受け、起き上がれるまでに一月、それから杖なしで歩けるまでにさらに半年、暴行が残した体の傷が癒えるまで一年はかかった。それも見た目のことであり、ヴァールは右耳の機能を失い、右目の視力を落とした。早く走ることもできなくなった。その後も時折腰痛を伴う酷い腹痛に悩まされるようになった。
さすがに度が過ぎたことと、大人たちも知っていて止めなかったことに多少の呵責を感じていたのか、その後ヴァールの家を訪れるようになったフライハイトにちょっかいを出すものはいなかった。
こうして、二人が親しくなるのを咎める者はいなくなったが、その代わり、ヴァールと共にフライハイトも子どもたちの集団から完全に孤立した。それは村の中で居場所を失うということだったが、フライハイトは気にしなかったし、彼らと一緒にいたいとも思わなかった。むしろまだヴァールの方がそのことを気にしていたようだったが、次第にフライハイトが側にいることを受け入れるようになった。
フライハイトはそれ以後も以前と変わらずシューレに通い、家を手伝い、そして力を欲する強い衝動と欲求から修練場に通うようになり、その他の時間の多くを、ヴァールと共に過ごした。
ヴァールはフライハイトに様々なことを教えてくれ、刺激を与え、シューレの教師や他の大人たち以上にフライハイトにとっては師となった。
二人でその年齢に相応しい子どもっぽい遊びをして楽しむことも多かった。虫を採ったり、川遊びをしたり、秘密の基地を作ったりといったようなことだ。フライハイトは最初そうした子どもっぽい遊びに、ヴァールが心底熱中し、楽しんでいることが意外だった。が、結局、物知りであることや、どこか大人びてはいても自分とそれほど差があるわけでなく、普通の子どもと変わりはないのだとすぐにわかった。ただ、やることなすこと、いちいち小難しい理屈や理由をくっつけるのには、時々参ったが。
他の子どもたちとのつきあいは絶えたが、最初から自分とヴァールしかいないのだと思えばどうということはなかった。そうして、二人のつきあいはヴァールが村を出る十七の歳まで続いた。
「お前は、いかないのか?」
ヴァールの事を思い出す度に、最後にはその声と、そしてその時の顔が思い出されて、胸の奥底が疼いた。
「どうした?」
リンドの声に、我に返った。自分を見る顔に気遣わしげな色を見つけてフライハイトは瞳をわずかに伏せた。リンドはフライハイトにとって、師であると同時に親に近い存在だった。父親は十三の時に死に、母親はその二年後に逝った。村の平均的な寿命からすれば、両親とも若過ぎる死と言えた。特に、いかにも強く逞しかった父親が驚くほど呆気なく病気で死んでしまったことは、彼にとって強い衝撃となった。その死は、命の脆さや人生の不確かさをフライハイトに教えた。
一人残され、頼る大人も無く、そしてヴァールの件で、心のどこかに村の人々に対してうち解けられない気持ちがあったフライハイトを気遣い、仕事やその他の様々なことを手助けしてくれたのがリンドだった。今でも相談相手と言えば、リンドをおいてほかに無い。彼にはいつも正直でありたいと思っている。それでもヴァールのことに関しては、父ほどに自分を理解してくれないことはわかっていた。
リンドの問いにフライハイトは黙ったまま首を横に振った。
「あいつが出ていってから、もう九年になるか……」
リンドはフライハイトに向けた視線を手元のゴブレットに戻し、ぽつりと言った。
「昔は、この村の連中も都に出かけたり、逆に余所から人が入植してきたりしていたらしいな。そう言えば、俺の師匠も都へ行ったきりだ」
「あなたの先生が?」
フライハイトは意外そうに訊き返した。昔はブロカーデにも人の出入りがあったという話は知っていたが、リンドの師の話は初めてだった。
「ああ。ふいに村からいなくなって、聞いた話では都へ行ったと。何しに、何故行ったのかは、わからなかったが……」
リンドはしばらく考え込むような顔で黙り込んだ。その当時の戸惑いを思い出したのだ。それまで村を出るなどという話は一度も聞いたことがなく、何も言わず、ある日突然いなくなったのだ。村の年寄りから都に行ったという話しを聞かされたが、具体的な事情は何もわからず、納得することはできなかった。
「まあ……、もう歳からすれば死んじまってるだろうが。俺もこの村で生まれたんじゃないし。がきの頃に親に連れられて来たんだ。かすかに、ここ以外の土地のことを覚えてるよ。ぼんやりとな」
「ご両親は早くに亡くなったんでしたか」
「親父は俺が小さい時にな。ここへは俺を連れてお袋だけがやって来た。そのお袋も死んじまったから、以前俺たちがどこにいたのか、確かめることはできないけどな。もしかしたら、どこか別の土地に親戚でもいるのかもしれない」
この村の外へ出てみたいと、あるいは生まれた故郷に行ってみたいと思ったことがあるのかと、フライハイトは訊いてみたい衝動を覚えたが、言葉にはしなかった。その問いに、自分自身の胸の奥に疼くような感覚が起きた。
「今はこの村もすっかり出入りがなくなってるな。多分、どこも同じなんだろう」
リンドの言葉に、フライハイトは「閉鎖的」と言う言葉を思い出した。物心ついてから、村の外から来た人間は無く、出ていった人間はヴァールだけだった。どこも、同じように「ヘイサテキ」なのだろうか。それを不思議だと感じることは、おかしいのだろうか。しかし、自分も村を出ることを選ばなかったのだ。
「さっきの、戦争の話だけどな。あいつはそういうものに憧れていたのか? 戦争で、何もかも壊しちまうことを、ヴァールは望んでいたのか?」
会話から意識が離れていたフライハイトは、リンドの唐突な問いかけにぎょっとした。そのリンドは彼を見ようとせず、フライハイトは困惑し、理由がわからないままひどく不安を覚えた。
三十年程前にあったという内乱の話は、確かにヴァールから聴いたものではあったが、実際にはその父親が情報源だった。ヴァールと親しくなった後、フライハイトも酔っぱらったトゥーゲントからその話を聴いたことがあった。フライハイトは熱心に話を聴いたが、理解はできなかった。半ば酒に冒された脳はすでに正常さを失っていて、その口から語られる混乱した物語の中から真実を探し出すことは難しかった。二人で何度か話し合ってみたこともあったが、ヴァールが特に戦争そのものに強く興味を惹かれているという印象を受けたことはない。何かに興味を覚えているとすれば、戦争ではなく、それを含めたクラーニオンの歴史のようなものだったと、フライハイトは理解している。
「夏に都で謀叛があったのは知っているな」
「ええ」
背筋に慄えが走った。予感を覚えたのだ。フライハイトは自分の心臓がひどく騒がしくなった理由を悟った。
「昨日、運搬人が置いていった新聞に、あの事件を起こした組織のことが書いてあってな、中にあいつの名前があった」
リンドの口から何が語られるのか、フライハイトはなかば予測していたにもかかわらず、衝撃は少なくなかった。その気配を感じたのだろう、リンドがちらりと視線を向け、すぐにそらした。
「新聞には、その男は“マクラーン”出身だと書かれていた」
「マクラーン?」
思わずフライハイトは問いなおした。
「ああ。ブロカーデではなく、マクラーン。いかにも奴らしい」
リンドが苦く笑いなから言うのを遠くに聞く。この村の人間が口にした時、「ヴァールらしさ」などという言葉は、正当なものではあり得ない。しかし、この時はフライハイトもリンドと同じ感慨を持った。ヴァールにとって、ブロカーデはこの世から無くなって欲しい場所に違いない。
それにしても何故なのだ、とフライハイトは心の中でヴァールに向かって問いかける。
謀叛は病に伏した現王に代わり、近々王位に就くといわれている王子の命を狙ったものだった。現王制の転覆を謀り、国を丸ごと変えようという大それた企てだったという。ヴァールは、彼に冷たく非道なこのブロカーデを憎み、出ていった。自分の能力を活かし、自由に生きられる場所を探しに行ったのではないのか。どこかでそれを見つけたのではないのか。どこでどう間違って、そのような企てに加担することになったのか。
ふいに、フライハイトは戦慄を覚えた。謀叛は失敗に終わった。実行犯たちは逮捕され、投獄されたとも処刑されたとも聞いた。
「ヴァールは?」
思わず身を乗り出していた。
「逃げたらしい。いまだに行方はわからないという。少なくとも、俺が読んだ新聞がつくられた時点では。記事が書かれた日付は二ヶ月前だった」
途端に安堵を見せたフライハイトに、リンドは難しい顔つきを向け、問いかけた。
「どうする?」
「え?」
動揺が治まりきっていないフライハイトはその問いを即座に理解できなかった。
「帰ってくるかもしれない。おまえを頼って」
リンドはまるで悪魔がやってくるかのように、周囲を憚るような口調で言った。フライハイトは即座に、それはあり得ないと思うと同時に、違和感を覚えた。
罪を犯して逃亡しているのであれば、追手たる役人がその出身地に姿を現さないことなどあるだろうか。謀反からこの数ヶ月、村には役人どころか外から来た者は、運搬人以外誰もいなかった。その運搬人も、村はずれの決められた場所に樽を置いていくだけで、中にまで入ってきたことはない。もしかすると、ヴァールが出身地とした「マクラーン」という土地名は、ブロカーデだけで通用するものであり、他には知られていないということはあり得るだろうか。
他に考えられるとすれば、この情報そのものが間違いであるか、あるいはすでにヴァールの身柄はしかるべき状態に置かれているかだ。前者であることをフライハイトは期待したが、確かめる術はない。
何にせよ、ヴァールが自らの意思でここに戻ってくる可能性はなかった。ブロカーデはヴァールにとって、存在しないに等しい場所なのだ。罪を犯した逃亡者であれば尚のこと、救いなど、どこにもない故郷に帰ってくるはずはない。
それとも、リンドが言うように、自分を頼ってくることがあるだろうか。ある、とフライハイトには思うことができなかった。
お前は、いかないのか?
別れの時の、ヴァールの声と顔が蘇った。藍色の瞳に浮かんでいた感情が何だったのか、今もわからない。いや、わからないふりをして自分を誤魔化しているのかもしれない。あの時、切羽詰まったヴァールの瞳に浮かんでいた期待とあきらめと、そして失望を、認めたくないのだ。それは、彼と一緒に行かなかったことで、二人で結んできた絆が、失われた瞬間だった。
自分は彼を裏切ったのだろうか?
フライハイトは、心の中で問いかけた。
ヴァール、今お前はどうしているんだ。ブロカーデを出て、生きる場所を見つけたのではないのか。
しかし、答えが返ってくることはなかった。
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