7.訪問者
毎週繰り返すブロカーデへの荷物運搬の仕事にゲシェンクは嫌気がさしていた。いくら肉体的な労力からすれば、割りのいい高額な賃金を貰っていてもうんざりだった。
最初に、この仕事に空きが出来た時、彼はそれを喜んだものだ。自分のような特別な才を持たない平凡な人間が高給を取ることなどできるものではない。仕事の内容に贅沢など言う気はなく、ゲシェンクは大喜びで引き受けた。嫌悪がないと言えば嘘になるが、それを差し引いても賃金の高さと、日雇いのその日暮らしの生活をしていた男には、安定した仕事というものに魅力を感じたものだ。
契約は三年。まとまった金額の前金を受け取った。続けたければ再契約して延長できる。期間に限度を設けたというより、少なくとも三年は務めなければならないという拘束的な意味があるのだと気づいたのは、仕事を始めて一月もたたない頃のことで、すでにすっかり嫌気がさしていた。
ゲシェンクが契約を結んでから、ようやく一年が過ぎた。今は前任者が契約不履行で三年を待たず
もっとも、以前は養わねばならない家族がこの仕事の枷となっていたが、今では妻子を捨てることに対するためらいが、次第に薄れてきている。ゲシェンクの胸に苦々しい思いがこみ上げてきた。この仕事を始めてから、彼の家庭は壊れてしまった。ただ、荷物を自分の村から別の村へ運ぶだけの仕事に過ぎないのに。友人は離れていき、近所づきあいもなくなった。小さな自治体ではそれが意味することは深刻だった。
ただ、「荷物」を運ぶだけなのに。だが、その「荷物」が問題なのだ。
荷馬車に揺られながら、ゲシェンクは暗鬱とした気分に陥っていた。すでに荷台から漂う悪臭は感じなくなっていたが、それはつまり自分もその匂いの一部になっているという事だった。路上を行き交う人々は自分の乗る荷馬車を見ると、まだ遠くにいるうちに道から外れて大きく
こうしてブロカーデまでの道程を、頭上を舞い、荷馬車の至る所に止まっている大量のカラスどもを供にして、彼は憂鬱な気分を心にため続けていた。
その日、ゲシェンクは自分の村とブロカーデとの中間にある森を通っていた。そこまでは過去一年繰り返してきた行程となんら変わりはなかった。
薄暗い森の中で前方に道を塞ぐものを見て取って、馬の歩みを緩めた。目をすがめながらゆっくりと近づき、馬を止めた。恐らくは週に一度、自分が操る荷馬車しか行き来しないと思われる荒れた道の上に、若い男が倒れていた。この辺りで人間を見かけるのは初めてだった。それ故、最初、人が行き倒れているということよりも、人の存在そのものに彼は驚かされた。このあたりはそうした土地なのだ。
奇妙なことに、ブロカーデに近づくにつれ、人の姿が見えなくなる。半島の突端という地理的条件のせいもあるだろうが、それにしても村の周囲の人けのなさは異様であった。そのことをゲシェンクはずっと不審に思っていた。この一年、一度も自分の他にブロカーデへ向かう人間を見かけたことがなかったことも、ブロカーデから出てくる人間と出くわしたことがないことも、不思議だった。
それだけでなくブロカーデという村自体、ひどく奇妙だった。彼がこの一年で自ら感じ取った排他的な土地だという感想以外、村に関しての知識はない。何故なら、彼の村の誰もブロカーデ村について知らないのだ。その村に行ったことがある人間も、来た人間もいない。その村がどんな所なのか、そして自分が運んでいる荷物が何に使われているのか、知っている人間はいなかった。
そんな奇妙なことがあるものだろうか。
もっとも、その疑問に最初のうちこそ興味を覚えていたが、既にどうでもよくなっていた。自分の仕事と生活の問題で手一杯だったし、なにより、詳しいことを知らないほうがいいような気がしているせいだった。
それでも、ゲシェンクは憂鬱で単調な仕事に突然現れた変化に動揺し、わずかに興味を覚えた。倒れている男は場所的に考えてブロカーデの村人かもしれなかった。
死んでいるのだろうか? ゲシェンクは恐る恐る馬車から降りて近づいてみた。若い男のようだった。見たところ、怪我をしているようではない。少し離れたところから覗き込むようにして、横を向いている顔を確かめると、その色からして息はあるようだった。
「あんた、どうした? 大丈夫か?」
声を掛ける。倒れている男は動かない。注意深く見つめた後、しばらく逡巡してから、もう少し近づく。ゲシェンクはふと荷馬車から離れていることに不安を感じて振り返った。荷馬車の幌や、人のいなくなった馭者台に大量のカラスが止まっていて、自分をじっと見ていた。
何となくぞっとした瞬間、突然カラスが一斉に鳴き、羽をばたつかせた。何事かと驚いた時、足首を掴まれる感覚にはっとし、倒れている男の方を向く。途端に強い力で引っ張られ地面に転がる。そのまま男に体の上に乗られ、身動きが取れなくなた。
「何をしやがる!」
叫ぶゲシェンクは自分の首筋に冷たく鋭い物が押し当てられるのを感じた。実際にそれが体内に突き入れられるより先に全身の血が瞬時に凍えた。硬直したように動けないでいると、周囲の木立の中から数人の男たちが出てきて自分を取り囲むのを見、ようやく待ち伏せされたことを悟った。
輪の中から一人の痩せた男が近づいて来、表情のない顔でゲシェンクを見下ろした。薄暗がりに男の白っぽい髪と白い顔が浮き上がって見えた。ゲシェンクは混乱したまま、白い顔の中で穴のように見える暗い色の瞳にひどく冷厳な光を見て取ると、体と共に心の力も萎えた。何が起きているのか理解できなかったが、男の放つ冷たい気配は、首に当てられた刃物よりも彼を凍えさせた。
なかば放心したようにゲシェンクは男の質問に答えた。自分の名前、年齢、家族、そして生まれ育った村の話、これから行く村の話、そして「荷物」のことを話した後、彼らが誰なのか、何をしようとしているのかを知ることのないまま、ようやく忌まわしいブロカーデへの運搬の仕事からおさらばすることになった。
男たちはゲシェンクの死体を森の奥へ引きずっていった。あらかじめ掘っておいた穴へ落とす。血の臭いに誘われたカラスが穴に舞い下りて、ゲシェンクの亡骸に乗った。みるみるうちに、ゲシェンクの供をしてきたカラスの大群で、穴は真っ黒になった。
男たちは荷馬車に近づき、幌をめくり上げた。汚物から発生したガスと共に、湿気を持った生温い空気が溢れ出すと同時に強烈な臭気が悪意のように押し寄せてきた。男たちはその凄まじさにに思わずたじろいで、呻き声を上げた。一人が奇妙な声をあげ、道端に走り寄り、吐いた。
白い顔の男は躊躇することなく自ら荷台に上がり、樽の一つの蓋を開けた。そこにこもっていた空気はねっとりとした湿りけと不快な熱を持っていた。強烈な匂いに、わずかに顔を歪める。暗い樽の中に詰まった液体はどす黒く見え、発酵しているらしくポコポコと悪臭の泡を弾けさせている。他の男たちは呼吸を止めて男の側に来、引きつった顔でそれを見つめた。
「なるほど、あいつの言った通りだな」
ミーネが抑揚のない声音で言うと、部下たちは青褪めた顔でうなずいた。息を止めていても皮膚から匂いを吸収しているような気がした。
「それにしてもひどい匂いだ」
囮として倒れていた男が口でそっと息をしながら顔を歪めた。他の男たちも一斉にうめいて同意する。そうしたところで、彼らの指導者が計画を変更しないことはわかっていたが、悪臭とその根元となっている「荷物」は、どんな覚悟も気力も奪うおぞましさだった。ブロカーデまでの道行はひどいものになるだろう。
男たちは荷台から樽を下ろし、森の奥へ運んだ。ゲシェンクを捨てた穴に樽の中身の半分程を流し入れる。どろどろに溶解した臓物や血が湿った音を立てて落ちていく。男たちはその穴に土を戻し入れた。荷物を運搬する仕事にうんざりしていた男は、その一部と意地汚い数羽のカラスと共に穴の底で眠ることになった。
幾分軽くなった樽を荷台に乗せた後、ゲシェンクから聞き出した話に合いそうな幸運な男を一人、ミーネが選んだ。他の者はミーネと共に荷台に乗った。幌を閉めると途端に臭気が立ち込めてきて呼吸ができない程だった。男たちの一人が喉の辺りで奇妙な音をさせ、口許を押さえた。
「荷台の上に吐くな。自分の入る樽の中にしろ」
ミーネが言うと、暗がりの中でもわかるほど白くなった顔の男はがくがくと頷き、言われたとおりにした。どちらにしろ、樽の中に入れば、何度も吐くことになりそうだった。
ミーネは樽に頭を突っ込んでいる男の痙攣する背を無表情に見つめながら、ある男から聞いた不思議な物語を空想していた。このおぞましい汚物を餌にしている魔物の物語だ。
汚辱にまみれた美しい魔物。お前の大切な魔物は私が貰うことにする。美しさよりもその力そのものが必要なのだ。だが、美しいのはいい。美しさが一つの力となるのだから。
ミーネは、その男の表情のない顔を思い出しながら、ゆるく笑った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます