2.マクラーンの魔女

 陽が森の向こうに落ち、畑仕事の後、日課の体術の鍛練を終えてフライハイトが家へ戻ると、妻のフェルトが彼を出迎えた。

 結婚前はブロカーデ村で一番の器量良しと言われたフェルトは、辺境の村にはあまりない繊細で整った顔立ちをしている。結婚し、子どもを産んでから全体的に丸みを帯びたが、少し冷たく見えていた顔立ちに柔らかさが加わって、フライハイトには以前よりも美しく見えた。

 しかし、今夜彼を出迎えた妻の顔はいつになく神経質そうに見えた。何かあったのかと声に出して問う代わりに、身重の妻の体を引き寄せてそっと抱きしめ、頬に唇を寄せた。二人目を身ごもっていても、まだ二十四という年齢は、フライハイトの唇に張りのあるすべらかな肌の感触を伝えてくる。ほんの少し上気していつもより熱い頬だった。

 フェルトはたくましい腕の感触を背に感じながら夫を見上げた。頼りない灯の下で、夫の顔は暗く見え、若葉色の瞳は陰って深い森の色をしていたが、その表情はいつものように優しい。大きな体躯は五つの年齢差以上に、彼女に安心感を与えてくれた。

 その胸に抱かれ、ぬくもりを感じ、土と草と汗の匂いを鼻孔に吸い込んでいるうちに、心の中に広がっていた不安感は消えていった。家の中の夜の気配に過敏になっていた神経がほぐれるのを感じると、フェルトはようやく笑みを顔に広げることが出来た。

「お仕事、お疲れ様でした」

 労いの言葉を口にした妻に誘われながらリビングへ行く。が、何か取りわけ夢中になることでもなければフェルトと共に出迎えてくれる息子の姿がそこにもないのに気づいて、フライハイトは妻を振り返った。

 フェルトの顔に不安の陰が戻るのをフライハイトは見た。その陰の原因が、バルトのことであるのに気づいて彼自身の胸にも不安が広がる。

「熱があるの。部屋で休ませてるわ。大したことはないみたいだけど……」

 フェルトは言葉をにごした。フライハイトは再び表情を曇らせた妻をじっと見つめた。昼間に見た時には、何の問題もないようだったが、小さな子どもの急な発熱は珍しいことではない。が、それ以外に彼女の心を不安にさせているものがあるようだった。

 けれどそれ以上問うことはせず、無言のままうなずいて、フライハイトは子ども部屋に足を向けた。そっと扉を開くと、灯を点けたままにして、バルトはベッドの上に横たわっていた。近づいてみると、息子は眠りの中にいて、その寝顔はいつもと変わりはないように見えた。

 フライハイトはまだあまりの部分の方が多いベッドの端に静かに腰を下ろした。幾度となく、こうして子どもの寝姿を見る度に、成長することを考えて用意した大きなベッドの上の体の小ささに胸を打たれ、愛おしさが募った。そして寝顔を見ているうちに一日の疲れが消えていき、新たに何か力強いものが身の内にたまっていくのを感じる。

 手を伸ばし、小さな額に触れると、そこは汗ばんで少し熱かった。ふいにバルトの瞼がひくつき、ぱちりと瞳が開いた。まぶしげにまぶたを瞬かせたあと、ぼんやりと視線をさまわよわせ、父親の姿をとらえると、少年は跳ねるように起き上がった。

「お父さん!」

 叫ぶように言って、しがみついてきた体をフライハイトは強い力で抱きしめた。息子の小さくて柔らかな体の手触りと幼い子ども特有の匂いに、胸がしめつけられるような感覚を覚えた。

「どうした、バルト?」

 しがみつく力の強さに、バルトの興奮と感情の混乱を感じ取り、フライハイトは背中を撫でてやりながら穏やかに問う。顔をフライハイトの大きな肩に押しつけて黙ったままのバルトに代わって、戸口で様子を見ていたフェルトが答えた。

「怖い話をいっぱい仕入れてきたのよ」

 それで、フライハイトは理解した。ブロカーデ村で子どもたちにとって一番恐ろしい話といえば、マクラーンの魔物の物語しかない。恐らく、昼間畑に来た後、仲間たちから色々な話を聞かされたのだろう。大抵は年長の子どもたちによって。小さな子どもは、彼らの格好の脅かしとからかいの餌食なのだ。自分たちが過去、同じ体験をさせられたことの仕返しである。

 フライハイトは昼間見た時の、息子のおびえた顔を思い出した。それまでもマクラーンの話は耳にしていたに違いないが、ただのおとぎ話として聞くより、真実であると信じて聞くとでは、心理的に大きく違う。信じさせたのは、他でもない自分だった。

「どんな話を聴いてきたんだ? おちびちゃん」

 フライハイトは息子に訊いた。最近ではそう呼ぶと決まって怒りだす呼びかけでうっかり息子に声をかけてしまったが、当のバルトはそれさえ気づかず、「おちびちゃん」と呼ばれていた頃に相応しい幼さで必死に父親にしがみついていた。

 フェルトが歩み寄り、フライハイトの隣に腰を下ろした。フライハイトはバルトを妻と自分の間に座らせた。両親に挟まれてようやく安心したのか、小さな子どもはほんの少し緊張を解いたようだった。

「話してごらん」

 まだ体に収まりきらない感情や混乱は、言葉にして吐き出すほうが楽になる。励ますように、か細い息子の肩に手を置いてそう言いながら、しかしフライハイトは心のどこかでそれを聞きたくないと感じていた。

「マクラーンにいるのは魔女だって……」

 しばらく黙っていたバルトが床の一点を凝視したまま、硬い声で言った。フェルトが少し落ちつかない視線をフライハイトに寄越した。彼女もブロカーデで生まれ育ち、人が夜の闇を恐れるように、マクラーンの恐怖がその心に根づいている。息子の生々しい不安と恐れが彼女の中のそれを刺激するのだろう。

「魔女は、ずっとずっとずっと長く生きてるって。人よりもずっとずっと長く、何十年も生きてるんだって!」

 そこまで一気に言ってバルトは息を吸い込んだ。「何十年」は、人にも普通にあり得る年月だったが、まだ六歳の少年にはそれが無限に近い時間のように感じられるのだろう。実際には、魔物は数百年を越える昔からマクラーンに居ると言われ、その正確な年月は誰も知らない。

「魔女は、人の血や内臓を食べて生きてるんだって。今もそうなんだって」

 少年の体がぶるっと震える。まるでつられたようにフェルトもかすかに身じろぐ。小さな膝の上で握りしめられた息子の拳に、白く細い手を伸ばし、包み込んだ。バルトは拳をといて母の手を握った。フライハイトは手を結びあった母子の間で、同じ感情が行き来するのを感じた。

 自分がその繋がりの中にはいないことを意識する。

「悪い子は魔女に食べられちゃうんだ。今までも食べられた子がいるって。僕も食べられちゃうかもしれないって」

 バルトは抑揚のない、低くひっそりとした調子で言った。まるでその言葉を聞かれることを恐れているかのように。

「誰がそう言ったの?」

 フェルトが眉をひそめて問う。バルトは少し口を開きかけたが、さっと唇を引き結んでかぶりを振った。小さな子どもの社会の中にも暗黙の約束がある。親の声にとがめる調子を嗅ぎ取ったなら、余計なことは言わない方がいいということを、バルトはもう知っていた。

 その途端、誰が言ったのかよりも、自分に対してかたくなになった息子の態度の方を母親は気にし、さらに追求しようとする気配を、フライハイトは視線で制止した。これは昔からある子どもを脅かす常套句なのだ。誰が言ったかは大した問題ではなかった。

「他には?」

 父親に促されて、バルトは続けた。

「魔女は都でとっても悪いことをしたって。子どもを沢山盗んで、食べたんだよ。すごくすごく悪い奴なんだ」

 バルトがふいに父親の方に顔を向けた。土色の瞳に恐怖と、そして怒りに似たものがあるのを見て取り、フライハイトはかすかな衝撃を覚えた。

「お父さん。魔女は本当に悪いことしたの?」

 バルトはフライハイトの瞳をのぞき込むような眼差しで、疑問をぶつけてきた。

 かつて自分が、そして多くの子どもたちが持っていた疑問と真実を知りたいという欲求を受け止める側になって、フライハイトは動揺していた。答えるべき言葉がわからないからではない。自分もかつて親に同じ事を訊いた。そして他の全ての子どもたち同様に、まるで用意されたかのような同じ答えを教えられたのだ。マクラーンの魔物に対する畏怖と嫌悪が受け継がれていくように、この疑問に対する答えも繰り返されていく。

 大人たちは言い続けてきた。魔物は大罪を犯し、捕らえられ、マクラーンへ幽閉されて罰を受けているのだと。

 動揺は、あらかじめ用意されたその答えを自分が語る時になって初めて、それを口にしたくないということに気づいたせいだった。何故なら、自分自身がその答えをいまだに受け入れていないからだ。

 誰も、マクラーンの魔物が犯したという罪について、教えてはくれなかった。誰も、それがどのような罪なのか、知らないのだ。なのに、罰を受けているということだけを納得することができるだろうか。

「お父さん?」

 バルトが肯定を求めて、少し感情的な声で父親に声をかけた。フライハイトは息子をじっと見つめて重い口を開いた。

「マクラーンの魔物は、あそこで罰を受けているんだよ」

 フェルトが懸念するような顔つきをしていたが、フライハイトは気づかぬふりをした。

「どうして? どうして罰を受けてるの? 悪いことしたんでしょ? どうしてやっつけちゃわないの?」

 父親の曖昧な物言いにバルトは困惑し、そしてその曖昧さに納得がいかず、質問を重ねた。

「魔女は悪いことをしたの。だから罰を受けなければいけないのよ。やっつけちゃうのはそれからなの」

 フェルトがきっぱりと言った。バルトは母親をさっと見上げた。

「いつ、やっつけちゃうの?」

「まだいつなのか、決まっていないのよ。いっぱい悪いことをしたから、いっぱい罰を与えなければならないの。あなたが大きくなるころには、わかるでしょう。さあ、もうベッドに入って」

 フェルトはその先を許さない母親の口調で言った。バルトは納得がいかぬげに両親を見比べていたが、答えは返ってきそうにないことを悟って、黙って従った。父と母は息子にキスをして、灯を消さないでという願いにそって、そのまま部屋を後にした。

 フェルトは夕食の支度をし、夫と共に食卓についた。無言のままのフライハイトにフェルトはほんの少し苛立ちをにじませた顔をしてみせた。

「気に入らないみたいね」

 彼女の口調は顔つきほどにはきつくはなかった。むしろどこかおびえているようだった。フェルトは無愛想だと人々から言われるフライハイトの変化の乏しい顔から、長く共に過ごす間に多くの感情を読み取ることができるようになった。今、その夫の中にある感情が、彼女は怖かったのだ。

「何が?」

 フライハイトは億劫そうに答えた。

「“魔女”の話よ」

「そんなことはない」

「あるわ」

 即座に切り返したフェルトの声は尖っていた。

「あなた、マクラーンの魔物の話になると、いつも不機嫌になるんですもの。あなたは……」

 彼女はしばし躊躇した。いつもなら避ける話題だった。しかし、そのことが、息子に何か良くない影響を与えるのではないかと、初めて危惧を覚えたフェルトは、それまで言い及んだことのない部分まで、衝動的に言葉を続けた。

「あなたはマクラーンに対して他の人とは違うように感じている。何を考えているの? 何故なの? それは、あなたが子どもの頃にあそこへ行ったことが――」

「やめろ」

 フライハイトが低い声で遮ると、フェルトはびくりと震えた。フライハイト自身、自分の声の思っていたよりも硬い響きに驚き、妻と顔を見合わせた。どちらからともなく視線をはずす。

 気まずい空気が流れ、その後は黙り込んだまま食事を終えた。いつものように食器の片づけを手伝うフライハイトの背に、フェルトが小さな声で言った。

「ごめんなさい」

 フライハイトが振り返る前に、その広い背に体を寄せ、腕を回す。頬を押しつけると硬い筋肉の感触が伝わる。

「謝ることはない。私がいけなかった」

 フライハイトが静かに言う声を聞きながら、フェルトは夫の不安定な部分を刺激してしまったことを悔いていた。

 フライハイトは子どもの頃、マクラーンの魔物を見たのだ。

 子どもには決して足を踏み入れさせないと決められているマクラーンへ彼は行き、そこで恐ろしいものを見てしまった。しかし、それがどのようなものか、フェルトは知らない。その時のことを夫自身から聴いたことはないし、フライハイトも誰にも言ってはいないだろう。そこで何があり、何を見たのか知っているのは、彼と共にマクラーンへ行ったヴァールだけだった。

 フライハイトのマクラーンの魔物に対する感情が、他の村人たちと違っているのは、その体験のせいだとフェルトには思えた。どこがどう違っているとは言えないが、夫はそれをかたくなに心のどこかに隠していた。まるで他人に触れさせたくはないかのように。

 それとも、考えすぎなのだろうか。村の男たちにとって、マクラーンの魔物が神秘のベールの向こうに存在するのは、子ども時代に限られている。いずれ男たちは十八の歳を越えれば「当番」の役割を与えられ、必ずマクラーンへ行き、そこにあるものを知る。早いか遅いかの差でしかない。

 が、女である彼女には、そのことについて一様に口が重くなる男たちの話だけでは実感しようがない。永遠にマクラーンは未知の恐ろしい場所であり続け、幼い頃のまま、近づいてはならないという戒めにより増幅された恐怖に支配されている。

 そしてその恐ろしい場所への「当番」が今年も夫に回ってくる。

「過敏になっていたわ。だって、来週ですもの」

 フライハイトは妻の声の震えを聞き取ると、振り返ってその体を抱いた。

「不安になることなど何もない。一年に一度のことだ。その前の年も、そのまた前の年も、何もなかった。今年も同じだ」

 フライハイトは言い、なだめるように妻の背を撫でた。フェルトの髪に鼻を寄せてその草と花の香りを嗅ぐ。妻と息子と、そして来年の春には生まれるはずの新しい子どもとの暮らし。何も不安なことはない。平凡で平和な日々がある。

 ただ、心の奥底で時折存在を主張するように小さく揺れるものをずっと閉じ込めてさえいれば。


 翌日にはバルトの熱も下がり、フライハイトは畑へと出掛けた。いつもと変わらぬ様子の夫の背を見送ってから、フェルトは息子をシューレへ連れていった。村の子どもたちはそこで午前中、生活に必要な知識や技術を習得する。

 子どもをシューレへ送り届けた後は、同じく子を連れてきた他の母親たちとしばしお喋りを楽しむのが日課だった。すでに付き添いなど必要のない子どもの供をするのは、むしろ女同士の交流を持つことが主な目的と言ってもよい。

 最近の話題は夏の終わりに王都で起こった謀叛騒ぎのことだった。

 クラーニオンを五百年に及んで支配してきた現王制に反対する一派が起こしたその事件は呆気なく失敗に終わったが、王を戴くことは太陽が空にあるのと同じ程、当然だと考えていた国民に与えた衝撃は大きく、王国の辺境にあるブロカーデ村にもその動揺がさざ波のように伝わってきた。ただ、辺境だけあって情報量は少なく、ことの顛末が届いたのも事件から既に二箇月近くが過ぎた頃のことだった。

 そのためか、村の中でもその話題は比較的若い層にのみ広がり、年寄りたちは興味を示そうともしなかった。また若い村人の間でも様々な噂話が飛び交いはしたものの、結局遠い世界の話という感覚があり、王制反対思想など狂人の戯言に過ぎないという意見で全員一致するせいもあって、さして盛り上がることはなかった。

 生活に満足している人間にとって、変化こそが危険な思想なのだ。女たちがこの話題を口にするのは、もっぱら現状の平和を確認することと、お伽噺めいた物語として楽しんでいるに過ぎない。

 ふと、フェルトは相変わらず同じことを繰り返し喋る主婦たちの声を遠くに聞きながら、フライハイトはどう思っているのだろうと、考えた。思えば食卓でその話をしたことがなかった。ここしばらくの間、どこでも同じ話で食傷気味のせいもあったが、家庭の中では意識的にその話題に触れなかった気もする。少なくとも自分の方からは。

 その理由を、フェルトは不安のせいだとわかっていた。もしかしたら、夫は自分とは違う考え方をするかもしれない。それは、村の人々とは違う考え方ということになる。

 胃の辺りにどんよりとしたものがたまるのを感じながら、フェルトは気を取り直した。昨日の小さな諍いといい、最近の自分は神経過敏になりすぎていると思う。妊娠しているせいなのかもしれない。

「どうかした?」

 向かいの家に住むエレーナが声をかけてきた。フェルトははっとして、物思いから我に返った。整っているとは言えないが、誰もが優しいと形容するエレーナの顔に、穏やかな笑みと憂慮が浮かんでいた。フェルトは安心させるように微笑んでみせて、首を振った。主婦の集まりに別れを告げ、二人は家路についた。

「最近、少し元気がないみたい」

 周囲に何かと口やかましい様々な年齢の主婦たちがいなくなってから、エレーナが心配げに訊いた。同い年の二人は幼いころから親友で、互いのことをよく知っている。二人だけになると多感な時代を共に過ごした頃の感覚が蘇ってくる。

 きっと、この優しい友は私の不安を感じ取っているのだろう、とフェルトは思った。

「うん、少し。何となく落ちつかないのよ」

 正直に告白する。言葉にしてしまえば、大したことはないような気がした。

「何か心配な事でも? それともどこか体の調子が悪いの?」

 エレーナが歩みを止め、彼女の方こそ心配を顔に現して、フェルトを見つめた。フェルトはきれいなすみれ色をした瞳に見つめられながら、困ったように笑った。このぼんやりとした不安の理由は自分自身にもわからないのだ。多分、身重だからだろうという理由は、望んでもなかなか子が授からないことに苦悩している友には言いにくい言い訳だった。

「どこも悪くはないわ。多分……、幸せだからだと思う。ちょっとしたことが不安になってしまうのよ。なにかあったらどうしよう、とか。馬鹿みたいね」

 フェルトは明るく言ったが、いかにも曖昧な答えだった。聡い友人は納得のいかない顔つきで、じっとフェルトを見つめている。フェルトはぎこちなく笑って、自分でもよくわからないの、と呟いた。エレーナもそれ以上は追求しなかった。

 二人で並んで歩きながら、他愛もない話しをしているうちに、フェルトの気鬱も少しずつ晴れていった。が、通りを挟んで向かい合った二人の家が見え始めた頃には、今度はエレーナの様子が沈んでいた。

「今日、このままあなたの家へ行ってもいいかしら?」

「ええ、構わないわ。前に約束していたお菓子、一緒に作りましょうよ」

 フェルトは努めて明るくそう答えた。唐突なエレーナの申し出の理由は訊くまでもなく、その気持ちは理解できた。今日は彼女の家が「当番」なのだ。今頃エレーナの夫のクラウスは、マクラーンに通じる門をくぐっている頃かもしれない。一人、それを想像して家で待っているのが、エレーナは耐えられないのだろう。

 そして来週は、私がエレーナの家で時間を潰すことになるんだわ、とフェルトは思った。再び、昨夜の夫の様子が心をよぎり、彼女の胸の中で硬いものがごろりと転がった。それは石のように重く冷たく、決してなくなることはなさそうだった。

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