3.当番の日

 マクラーンとブロカーデ村とは、簡単には乗り越えられない高さと、破壊することのできない頑丈さをもつ壁で区切られていた。眼前にそびえる威圧的なその壁に、クラウスは言い知れぬ不安を呼び起こされた。

 魔物から村を守るために造られたと伝えられている長い長い壁に沿って進んでいくと、馬車が一台ようやく通れる程の小さな門扉が現れた。その前にフード付の外套をまとった村長の小柄な姿がある。扉の鍵を持っているのは村の長だけだった。クラウスは馭者台に座ったまま、一週間に一度だけ開かれる鉄の門が、重く不気味な音を立ててゆっくりと動くのを陰鬱な気持ちで見つめていた。

 扉が開いただけで、その向こうから血の匂いがするような気がした。実際に鼻を刺激している腐臭は、自分が運ぶ荷台からのものだとわかっていたが、もっと別の何かがマクラーンから吹いてくるように思える。その何かが、クラウスの肌をあわだたせた。ふいに、馬車を荷台ごと置いて家へそのまま帰ってしまいたい衝動を覚える。

 自分の躊躇を感じたのだろうか、長が険しい視線を向けているような気がした。実際にはその顔の殆どがフードの下の陰に隠れて見えなかったが。早く門を閉めてしまいたいのだろう。長はクラウスが仕事を終えて、帰ってくるまでこの門の前で待っていなければならない。「当番」の次に嫌な役割だとクラウスは思う。それでも「当番」よりはずっとましだ。

 しぶしぶ手綱を操り、馬を前へ進めた。背後で重い鉄の扉が閉まっていく音を聞くと、小さな子どもに戻ったような心細さを覚えた。一人、こちら側に取り残されたような気がする。実際、その通りだ。これから魔物に食べられにいくのだという子ども染みた考えが浮かんで来る。馬鹿げた妄想だとわかっていたが、体の震えは抑えようがなく、壁で隔てられた向こうの平和な村がひどく遠くに感じられた。

 村の決まりにしたがって、男は十八になると年に一度の割合で「当番」が回ってくるようになる。「当番」とは、週に一度マクラーンへ魔物の「食事」を運ぶ仕事だった。クラウスにとって、「当番」は今年で十回目になる。それでも慣れることはなかった。

 魔物の住む「家」へと続く一本道を馬車で進むにつれ、肌があわを吹き、首筋の毛がちりちりし始めた。歯の根が合わなくなり、冷たい汗をかいた手足はどうしようもなく震えた。どんなに気持ちを落ちつかせようとしても叶わない。自分が勇気のない臆病な人間だなどと思いたくはなかったが、この場所にいて恐れを抱かない人間はいないだろうと思う。

 そうして、毎年やるように、今年もクラウスは同じ恨み言をつぶやくことで、恐れを怒りにすり替えて乗り切ろうとした。

 ヴァールさえいれば。

 昔はこんなおぞましい「当番」などなかったのだ。かつては魔物の住む「家」へ「食事」を届けにいく「世話係」がいた。ところが、十五年前にその男が死に、仕事は村人が負担しなければならなくなった。公平を期して当番で行われた仕事は「世話係」の息子が成人するまでということだったが、結局その息子ヴァールが十八になる前に村を出ていってしまったために「当番」は今も村の男たちの手で続けられている。

 ヴァールさえいれば。

 クラウスは毒づいた。

 気狂いヴァール。嘘つきヴァール。卑怯者ヴァール。

 子どもじみた罵詈雑言を繰り返す。ヴァールがいた当時から陰で、或いは遠慮なく本人に向かって、誰もが口にした様々な悪口を思い出しては呪文のように唱える。しかし、効果はなく、馬車が確実に「家」へと近づくにしたがい、悪寒は増していく。いつしか言葉も喉の奥で固まってしまった。

 まだ「家」が見えないうちからカラスの耳障りな鳴き声が聴こえてきた。再び引き返したいという衝動が強くクラウスの体を走った。いっそ荷台にあるものをどこかに捨てて、帰ってしまおうか。一度、「食事」が抜けたぐらいでは、あれは死なないに決まっている。もう数百年を越える時間を生きているのだから。そう思うと、他の人間も同じように考え、実際そうしているのではないかという気がしてきた。それで魔物が飢えて死ねばむしろいいではないか。そもそも、このおぞましい「食事」なるものを、本当に魔物が食べるのかどうかもわからないのだ。

 ふいにカラスの甲高い鳴き声がして、クラウスはびくりと体をすくませた。荷台の匂いを嗅ぎつけてきたのだろう、巨大な黒い鳥が数羽、頭上を旋回している。まるで自分の考えを読んで、見張りにきたようだった。その嫌らしい鳥たちの無数の小さな瞳はクラウスにとって、マクラーンの魔物の瞳に等しく思えた。

 恐ろしさのあまり考えること自体を止め、ただ黙々と仕事に徹することにした。結局、いつもそうなるのだ。まるで何かに操られるように、荷台に荷物とクラウスの恐怖と悪寒を乗せて、馬車は彼の意思を離れて進んでいく。

 そして、クラウスは一年振りにその異景を目にし、心臓が一瞬止まり、それによって全身の血が冷たく凍っていく感覚を覚えた。

 ゆるやかな丘の頂に、その「家」はあった。遠くから見ると黒い陰のような色をしている。四角い形をしていたが、天井部分だけが不定型に見えるのは、そこに屋根を覆い尽くすほどカラスが群がっているせいだった。その上にも空を黒くする程、カラスが飛んでいる。まるでそこだけ、黒い雲がわき出ているようだった。

 クラウスはいったん馬を止め、興奮したカラスから身を守るための、鎧を利用した鉄製のガードをつけた。兜の中は自分自身が発した恐怖と嫌悪の匂いに洗浄剤の刺激臭が混じり合って耐えがたいものだったが、それでもこの土地自体に染みついた猛烈な悪臭に比べればましだった。

 魔物の住む「家」に近づくにつれ、悪臭は呼吸できないほど凄ましいものになった。この匂いは村に戻り体を洗い、草木で作った消臭剤を全身に浴びるほどふりかけてもしばらくは消えない。けれど今や、匂いよりも体の中から湧き上がる恐怖にクラウスは全身を震わせていた。

 馬車を「家」の裏手に止める。群がってきたカラスを杖で払いのけながら、魔物の「食事」が詰まった樽を下ろす。王都からはるばる運ばれてきたというそれは、全部で四つあった。クラウスは思考を止めたまま、機械的に黙々と樽をリフトの荷台に運び、最後に自らの震える体をどうにか乗せた。鎖を引くにつれ、リフトが樽と彼を乗せて「家」の壁面沿いに上昇していくと、心臓が激しく打ち、骨を割って胸から飛び出してきそうだった。

 天井の高さに荷台が到達すると、カラスが侵入者を見て騒ぎ始めた。天井を覆いつくした無数の鳥はまるで黒い炎のように見えた。翼から抜けた羽や羽毛がさながら火の粉のように舞っている。うごめくカラスの群の間から、瘴気のように悪臭が吹き上がっている。「食事」から発生する有害なガスに混じって腐敗の匂いが、まるで悪意のように近づくものを目に見えない力で打ちのめした。

 すーっと全身の血が下がり、めまいを覚えた。小さな子どものようにうずくまりたい衝動を覚えたが、そうしてしまえばそのまま動けなくなるに違いない。

 クラウスは天井を渡らせた管の先の革袋を樽の口にはめた。なえた腕に気力を振り絞って力を送り、震えながら樽を傾けた。樽の中身が革袋にそそがれ、じょうご状に下がっている天井の中心部へと管の中を流れていく。

 ぼこぼことおぞましい音を立てて半固形のそれが管を通っていく。カラスが興奮して甲高く鳴きわめきながら、天井に突進する。しかし彼らは目当てのものにありつくことはできない。「家」の天井は厳密には無いも同然だった。そこには頑丈な鉄の格子があるだけで、風雨や日光を遮ることも、暑さや寒さを遠ざけることもない。ただ、貪欲で攻撃的なカラスを退けることはできた。

 濡れた重い音が、かすかに、しかしはっきりと聴こえた。

 頭部全てを被った兜を通して、クラウスはそのぞっとする音を聴いた。それは、半固形の水っぽい樽の中身が管を伝い流れて「家」の中央まで運ばれていき、そこから垂直に下へと伸びた管から、床へと落ちていく湿った音だった。

 ぞわぞわとクラウスの全身が総毛立った。その管の真下、その「食事」が下り落ちる場所に、魔物はいる。

 王都で集められた魔物の「食事」とは、動物の死骸であり、血や内臓であり、その中には人のものも含まれているという噂だった。この辺境の地へ運ばれる間に腐敗し、どろどろになったその汚物を、魔物は全身に浴びているのだ。

 見たくはない、見るつもりはない、けれどクラウスの視線は引き寄せられるように、その場所へ動いた。火と氷に同時に触れたような感覚に、ぞおっと体が震える。狂ったように羽ばたく鳥たちの闇色の翼の間から、格子越しに、流れ落ちる汚物を全身に浴びる黒い陰が見えた瞬間、クラウスの脳はそこから入る情報を瞬時に遮断した。

 体のどこかが機能を失ったように、感情が消える。それでもおこりを起こしたように震える手で、残りを素早く管の中に押し流すと、クラウスはからの樽と共にリフトで下に降りた。感情と思考のスイッチを切ったまま馬車に乗り込み、おぞましい魔物の「家」から逃げだした。

 クラウスの心の機能が回復したのは、それからしばらくたってからだった。麻痺していた感情と思考が徐々に回復していくにしたがい、手綱を握る腕が激しく震え、まともに馬車を操ることができなくなった。

 一旦、馬を止め、激しい動悸をなだめているうちに猛烈な吐き気を覚え、馬車から転がり落ちた。慌ててガードを脱ぎ、その場で嘔吐する。数日前から食欲がなく、昨日から何も食べてはいなかったが、体の中に悪いものが詰まっているかのように、嘔吐が止まらない。激しい悪寒が治まるまで、かなりの時間が必要だった。ようやく嘔吐感が去り、ぐったりと地面にへたりこんだクラウスは涙と汗に濡れた顔を拭った。

 ただ、汚物を捨てただけなのだと自分をなだめる。どこにでもある動物の死骸や、食料には使えない臓物の処理など、どうということはない。そう思ってみても、激しい嫌悪感と恐怖は消えない。ただそれだけのことではないとわかっているからだ。その汚物を捨てる場所に、何かがいることが恐怖の根源だった。

 生まれる前からそこにそうしている魔物が、実際に自分たちに災いを及ぼしたことは一度もなかった。少なくとも彼が物心ついて以降。あの存在が魔物と呼ばれる理由をクラウスは知らない。何故、それがそこにいるのかも知らない。本当はそれが何なのか、誰も知らない。

 それが「何」であるかよりも、そこに何かが「いる」ことが、あの恐ろしい場所に誰かがいることが、そしてその場所を作っているのが自分たちであることが、恐怖の源だった。

 だからこそ、あの存在は「魔物」でなければならないのだということを、クラウスは無意識の中に押さえ込んだ。

 よろよろと立ち上がり、馬車に乗り込んだ。振り返らず、平和な世界に戻る道を急ぐ。門の向こうの村へ帰れば、考えなくともすむのだ。少なくとも次の「当番」までは。

 マクラーンの脅威から村を守るための高い壁が見えてくると、クラウスは心の底から安堵を覚えた。まだそこまで達しないうちに、門が開き始めた。いつも、クラウスが呼びかけるまでもなく、まるで帰ってくる時を知っているかのように長は門の鍵を開ける。馬車の音が聴こえるとは思えないが、いつも早く帰りたくて気がはやっているクラウスに、そのことを不思議だと思う余裕はなかった。

 門が開き、その向こうに森の緑を背景にして長に小さな姿がある。後はそこを通って、いつもの生活に戻ればいい。

 何も考えず、全てを忘れて。

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