魔物の物語

来間仮名

1.ブロカーデ

 マクラーンには、魔物が棲む。


 村の大人たちから繰り返し聴かされたその言葉は、フライハイトにとって、疑ってみたこともない真実だった。

 少なくとも、十二の歳までは。

「お父さん、マクラーンの話って本当?」

 息子のバルトが、妻と同じ湿った土色の瞳で真っ直ぐに自分を見つめ、そう訊いてきた時、フライハイトはほんの少しためらったあと、静かな声で言った。

「本当だ。マクラーンには、魔物が棲んでいるんだよ」

 バルトの幼い顔に動揺が浮かんだ。友だちの間で何度か耳にしていた噂が真実であったこと以上に、それを口にした父の厳しい気配に驚き、おののいたのだ。

 それは、ブロカーデの村で繰り返されてきた光景だった。父から子へ、そのまた子たちへとマクラーンに対する恐怖と嫌悪が受け継がれていく。

「だから、あそこへ行ってはいけない」

 普段穏やかな父のいつにない厳しい声に、バルトは口をきゅっと引き結んで、おずおずとうなずいた。その幼い仕種にフライハイトは表情を和らげ、自分によく似た癖のある薄茶色の髪を撫でてやった。

 幼子は緊張を解いたが、小さな顔には物思わしげなものが浮かんでいた。何事か考え込んでいる瞳の中に小さな翳が生まれるのを、フライハイトは見た。

 この世には、決して見てはいけない、知ってはいけない、触れてはいけないものが存在することを、幼子は気づき始めている。やがて、その翳が瞳に棲みついて、子どもは大人になるのだ。

 友だちに呼ばれて駆けていくバルトの小さな体が、背丈よりも高く伸びたトウモロコシの群の中へ吸い込まれるように消えるのを見送って、フライハイトは長いため息をついた。体の力が抜けていくのを感じ、自分が息子と同じように緊張していたことに気づいた。

 さわさわと、秋風が葉を揺らす音が渡っていく。遠くから風に運ばれてきた子どもたちの笑う声が彼の周囲に漂っては消え、また漂う。

 フライハイトは空を仰ぎ見た。

 薄い雲のベールに覆われ、儚い色をした青い空。胸の奥が風に鳴る葉音に共鳴して、ざわめいた。遠く近くなる子どもたちの声のように、「魔物」の記憶が不確かに揺れる。

 本当はマクラーンに棲むものが何であるのか、フライハイトは知らない。人々が言うように魔物であるのかもしれない。けれど魔物という存在自体が何であるのか、わからない。おそらく、それを知っている者は誰もいない。それ故に、村の歴史の中で受け継がれてきたマクラーンに対する感情だけを、人々が当然のように受け入れていることを不思議に思う。

 けれど、その正体のわからない困惑を息子に伝えるつもりはなかった。マクラーンに棲む存在が何であれ、あの地に建つ巨大な檻に似た建造物の中にある恐怖を、幼い息子にはまだ知ってもらいたくはなかった。その光景そのものが魔であり、人々の心の深い部分を傷つけ凍らせる恐ろしい力を持っているが故に。

 それとも、皆そうなのだろうか。マクラーンに棲む存在よりも、あの光景をまだ柔らかな心を持つ子どもたちから遠ざけておくために、恐怖という禁忌で戒めているのだろうか。

 しかし、いつか息子もあの建物の中を見ることになる。それが村の男たちに課せられたしきたりだからだ。その時、皆がそうであるように、畏怖と嫌悪が息子の心に楔のように食い込んで、その存在について考えることを止め、胸の奥の決して開くことのない暗い場所に封印してしまうだろうか。

 それともあの魔物に惹かれるだろうか、自分のように。

 さわさわと風の音が渡っていく。少し深みを増した空の青い色は、マクラーンに棲む魔物の瞳の色に似ている。

 もしも、あれが本当に魔物であるのなら、魔という存在はひどく美しく、そして哀しい。

 心の奥底が震え始める感覚に、フライハイトは恐れを覚え、ひき剥ぐように視線を空から離した。

 結局、自分も同じなのだと、思った。

 美しい青い瞳を持つマクラーンに棲む魔物の存在を、胸の奥深くに震えと共に封印し、心の中から追い出した。

 平和に生きるために。

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