死者の書 第6節






 西日が街を焔色に染め上げる。


 通りの喧騒も、潮が引いていくように落ち着き、夕餉ゆうげの香りが家々から立ち昇る、夕暮れ時。


 ナルキアは、ぐすぐすと鼻をすすりながら、母がテーブルに並べた料理に手を伸ばしていた。続々と魔法のように出てくる料理を、端から平らげては、次の料理に手を付けていく。


 病床に伏してから、すっかり家事には手をつけられなくなった母の、手料理を最後に口に入れたのは、八年前。


 そして二年前。母が亡くなってから、自分のバカ舌を頼りにそれを何度も再現しようと努力したが、一向に満たされることのなかった充足感が、今この瞬間に感じられる。


「……おいしい」


「よかった。最近寝てばかりで、ごはんも作ってあげられなかったものね。今日は、不思議と調子がいいから、食べたいもの、何でも言っていいからね」


「…………うん」


 母は昔から、ひとつの料理を作るごとに、手順から味付けまでを必ずナルキアに説明する癖があった。話半分に聞き流していたそれも、今は心が素直に聞き入れている。


 ……何て尊い時間を、自分は無下に扱っていたのだろう。過去の自分を苛んで仕方がない。


「さて。お母さん、裏で洗濯してくるから。遠慮しないで、全部食べちゃってね」


「えっ……!? あっ、ま、待って! お母さん!」


 ワイルドボアの香草焼きが乗った皿を置き、前掛けを畳もうとした母の手を、ナルキアがはっしと掴む。


「行かないで……!」


 目を離すと、母が消えてしまうような、そんな気がしてならない。


 そんなナルキアの手に引かれるように、椅子に腰を落ち着けた母が、困ったように微笑んだ。


「本当にどうしたの。こんなに病気の具合がいい日もないんだから、今日くらい、お家のこと手伝いたいな」


「その……お、お母さん……」


 ――母は、何も知らない。


 自分と同じ栗色の髪の下で、黒曜石のような瞳が心配そうにこちらを覗き込んでいる。心の内を見透かされそうになり、ナルキアは椅子を蹴り飛ばす勢いで、その場を立ち上がった。


「お風呂! お風呂入らない? 背中流してあげる!」


「え? ……どうしたの、急に」


「えっと……せっかくお母さんの調子がいいんだから、やれるうちにやりたいこと、全部やっておきたくて!」


「そう? ……そうね。それじゃ、入ろっか。お風呂」


「うん! ……あ、でも油が切れてたかも」


 薪さえあれば着火は可能だが、面倒を嫌うナルキアは、粗悪な油を薪に添えて火をかける方法をよく取っていた。


 そのために貯めておいた油が、いつだったか、ある日突然家の中から姿を消したことがあり、それからは少量ずつ保管するようにしていたのだが。


「いいわよ、そんなもの必要ないから。ほら、お母さんにはよく燃えるこれがあるし」


 母の指先に、ポッとか細い炎が点く。


「あ……お母さんの火炎魔法。……久しぶりに見た」


「魔力もすっかり無くなったと思ってたのに。今日は本当にどうしたのかしらねえ」


 一見すると、それはマッチの炎と大差ない。ただ、ヒュームの中で、貴族でもない人間が、僅かでも魔法を使えるというのは非常に稀な事例だ。下手に目を付けられないように、母は幼いころから、外では魔法を使わないよう言い聞かせられてきたらしい。


 ナルキアも、実際に母の魔法を見たのは年頃になってからのことだが、初めてそれを目にした日、まるで――母の命を燃やして輝いている宝石のようだと感じたものだ。


(――本当に、お母さんなんだ)


 ナルキアは、あの頃と変わらないその炎を目にして、もう目の前にある現実を、夢と疑うことはなかった。








 その日は、ひとつの布団の中で、母の華奢な身体をしっかりと抱きすくめ、ナルキアは深い眠りに着いた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る