死者の書 第5節
ヴェルグが、一歩後ろへ下がる。
待っているって、誰が――そう尋ねようとして、ふと。胸の奥にじんわりと染みるような、懐かしい香りがして、ナルキアは我が家を振り返った。
「…………」
「三日後にまた会いに来ますので。それまでは、ごゆっくりどうぞ。……あ、この串は別にしゃぶったりしませんので、安心してくださいね。ほんと」
そう言うと、ヴェルグは街の北へ向かって再び歩き出した。それを呼び止めることも出来ず、ナルキアの視線は、ただ目の前の家にのみ注がれている。
――そんなはず、ない。
指先がじんじんと痺れる。呼吸が震え、頭の中が殴られたようにぐらぐらと揺れている。気が付けば、ナルキアは家のドアノブに手をかけていた。
(……違う。……そんなわけない)
期待するなんて馬鹿げている。何度も自分に言い聞かせながら、まるで他人の家にお邪魔をするかのように、玄関先をくぐる。
――リビングから、人の気配がある。
額から、一筋の汗が流れ落ちた。震える指先で、リビングへ続くドアを押し開ける。
途端に、古いアルバムを開いた瞬間のような、懐かしい感覚が、全身を包み込んだ。
そこは、いつも通りの部屋だった。脱ぎっぱなしの服や、今にも崩れそうなほど積み上げた本の山。日差しが僅かに差し込むだけの、薄暗いリビング。
そして、台所には、いつも通りの背中があった。
「…………」
皿の擦れあう音が聞こえる。足が床に縫い付けられたように動かない。
「……どうしたの。そんなところでぼうっとして」
どくん、と。心臓が跳ねる。
「今日もお仕事、疲れたでしょう。もうすぐご飯もできるから。ーーごめんね。今日、おかしな夢を見てたの。長い、長い夢で……不思議な気分だったわ。おかげで、こんな昼まで寝坊しちゃったみたい」
声の主が、振り返る。
その顔を目にした瞬間、ナルキアは、胸の底からあふれ返る感情に耐え切れず、駆け出していた。
ーー母の胸の中に、飛び込む。
「ーー……っ……」
「あら? ……まあ、どうしたの」
すっかり肉の薄くなった手のひらが、頰に添えられる。
……あたたかい。
ぽろ、と。大粒の雫が、ナルキアの瞳からこぼれ落ちた。
「…………っ、……ぅ、…………っ」
「……仕事で、いやなことでもあったのかい?」
ナルキアを、包み込むように抱きすくめ、栗色の癖っ毛を撫でる。
「いつまでも甘えんぼうで、しょうがない子だねえ……どうしたの。お母さんに話してごらんなさい」
「ーー……おか……、さ…………っ……」
か細い母の身体を、そっと抱きしめて、ナルキアは何度も震える声を紡いだ。
「おかあさん……おがあざん……っ……!」
何度も口を突いて出るのは、その言葉だけだった。
「……さてと」
街の中心街に位置する広場で、噴水を背に腰を落ち着けていたヴェルグは、新たに屋台で買い求めたドーナツを咥えながら、両手には"仕事道具"を構えていた。
一方には、血文字の塗りたくられた契約書。
一方には、先刻ナルキアから拝借した、焼き鳥串を。
「……三日は長過ぎたかなぁ」
指先でくるりと串を回しながら、ヴェルグは大きなあくびをこぼした。
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