死者の書 第9節






 母は、「……そう」と頷いた。


「殺したのは……この街の市場を統括してる、偉い人。それ自体は、あとで知ったんだけどね。その人……私の、職場の友達のね、旦那さんだったの」


 母は、黙している。


「……殺すつもりなんてなかった。ただ……私の安い善意が、何もかもぶち壊しにしたことだけは、よくわかってる」


 母が、言葉の続きを促すように、ナルキアの瞳を見据える。


「二年前ね。何か……本当に何か、特別理由があったわけじゃないんだけど。……仕事帰りに、ちょっと急いでて。裏路地を通って、家まで近道しようと思ったの」


 その時のことを思い返し、ナルキアは遠い目を見せた。


「そしたらね。その旦那さん……あの、焼き鳥屋の、竜族のにね……。ーー……暴行してるとこ……たまたま、見ちゃったんだ。……何か、脅してるみたいだった」


 ティーカップを握る手が、小さく震える。


「……私ね。よく、のろけ話聞いてたんだ。優しい旦那さんだとか、家のことよく手伝ってくれるし、よく気が付くし、子供のことも大事にしてるって。……それまでは、よかったねーって、ただ聞き流してたのに……その頃から、その子の顔も、あの竜族の娘の顔も……なんか、まともに見れなくなっちゃって……。……何とかしてあげなきゃって、思ったりしてさ……」


 ナルキアが、大きく嘆息する。


「ほんと、バカだよね。……変な正義感かざして、旦那さんが一人になるところを見計らって、待ち伏せして、もうあんなことやめなよって、説得したところまではよかったけど、なんか逆に口封じにされかけてさ。逃げ込んだ廃屋の中で、暗闇に乗じて、レンガでパッカーンって頭に一撃入れたの。暗殺者みたいでしょ?」


 あはは、とわざとらしく笑いながら、大仰に身振り手振りを加えて、ナルキアが説明を続ける。


「そしたらね……旦那さん、動かなくなっちゃった」


「――……」


「……まだ助けられたかも知れないのにね。もう、自分のことしか考えてなかった。怖くなって……結局、全部ぶち壊して、一人で逃げ出したの」


 ティーカップの中に映る、自分の表情に目を落とし、ナルキアは続けた。


「……偶然その日、どうしてか、その廃屋に火が点いて、旦那さんの遺体ごと、証拠は全部灰の中。……友達の、悲鳴みたいな泣き声が……ずっと耳から離れない。竜族の娘は、あの夜のことなんて、なかったことみたいに、心の底から楽しそうに、毎日、嫌になるくらい、笑顔で働いてる……」


 ぽた、と。


 ナルキアの瞳から、滴が流れ落ち、膝を濡らした。


「……私のやったことって……なんだったんだろうって……」


「――……ナルキア……」


「……。それで私、ね。――……もう、全部嫌になって……逃げたかった。あの時計塔から飛び降りて……全部、終わらせようと思った」


 涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を、母へ向ける。


「………ごめんなさい……おかあさん……っ」


「……ばかね」


 そんなナルキアの目元を、指でそっと拭い、母が微笑む。


「誰もあなたを責めたりしないわ。……ずっと一人で抱え込んで、辛かったでしょう。……話してくれて、ありがとう」


「――……っ……」







 ――闇が、すべての音を呑み込む。


 ナルキアが、子供のように母の胸の中で泣きじゃくる声すらも、今は、二人だけのものだ。



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