死者の書 第8節





 ――それからは、まるで子供の頃に戻ったかのように、ナルキアは母の傍について離れずに、残された時間を過ごした。


 瞬きの間に、時が過ぎてしまったかのようだった。ぼんやりしている暇もないくらい、あまりの速さで通り過ぎていってしまい、過去の柵や何かを、その時の中に置き去りにしてきてしまったかのように、清々しいほど充実した時を過ごした。


 思い残すことが、何一つなくなるくらいに。


 そうして、無慈悲に時は過ぎ――残された猶予は、両手の指で数えるほどの時間しかなくなっていた。


 あの日、街で「明日話す」と。


 そう約束した話は――未だ、母へ伝えられていない。











 日が落ちる様ですら、あたかも燃え尽きる蝋燭ろうそくを眺めているかのような錯覚に陥る。


 昨日までは美味しかった母の料理も、今日は不思議と、味がわからなかった。


 ――月が、西の方角へと泳いで行く。


 眠りにつき、朝日が昇れば――間もなく、【融資屋】と約束した時間になる。


 それだというのに、妙に、ナルキアの気持ちは落ち着いていた。


 この数日間。魂に火を点け、命を燃やすように生きた。


 だからだろうか。


 今日まで、話すことを躊躇っていたあのことも。今なら、母に伝えられる気がする。


「――はい。紅茶。砂糖は2つでよかった?」


 ソファに座り込むナルキアに、母がティーカップを差し出す。


 ナルキアも母も、お互い風呂から上がったばかりで、肌からはほのかに湯気が立ち上っている。栗色の髪を耳の方へ流しながら、紅茶を受け取るナルキアの隣に、母が腰を下ろす。


「ありがとう」


「……それで。今夜こそ、話してくれるのかしら」


 ティーカップに口を付けながら、ナルキアが小さく頷く。


「うん。ようやく、覚悟が出来たから」


「そう……どんな話でも、ちゃんと最後まで聞くから。安心して話してね」


「うん」


 ――これが、本当に最後の、心残りだ。


 死に逝く母に、最後の最期まで伝えられなかったこと。


 ――そっと、ティーカップを膝の上に乗せ、ナルキアは一度天井を仰ぎ見ると、そのまま視線を母へと移した。


 遠くで、グランドウルフの遠吠えが聞こえる。音すらも呑み込むかのような、深い闇に覆われた街を駆け抜けたその声が、暗夜に融けてかき消えたとき。


 ナルキアは、静かに語り始めた。






「――私ね。人を殺したの」


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