死者の書 第2節
「オルヴェルグ……」
ナルキアは、その名前を繰り返した。
この国に住む者なら、老若男女を問わず、一度は聞いたことのある名だ。伝承とまで言ってしまうと、些か大仰だが、子供の頃に聞かされた昔話に現れるその神様は、幼心にいつも興奮を与えてくれた。
ある者は、見上げても果ての見えない、黄金の山を。
ある者は、地上の誰しもが振り返る、絶世の美貌を。
そしてある者は、愛する者を守るために、世界最強の力をーー。
神様は、どんな願いも叶え、そして見返りは一切求めなかった。純粋な心を持ちながらも、不幸な星の下に生まれ落ちた人々を、その不思議な力を持って救い出す。
いつか私もーーと、幼いころに願い事をしたためた神様への手紙は、今も戸棚の奥にしまい込んでいる。
この人が、神様ーー。
ナルキアは、しばし呆然とし、言葉を失っていたが、不意にーーふっ、と嘆息した。
「……バカじゃないの」
目の前の少年に、侮蔑の意を含んだ笑みを向け、鼻で笑い飛ばす。ここはおとぎ話の世界じゃない。あまりに、馬鹿げている。
「……あなたが、本当に、……オルヴェルグなら」
ふつふつと、腹の底から怒りが込み上げてくるのを感じる。なおも崩れない少年の微笑みを受けながら、ナルキアは、ならばと吐き捨てるように言った。
「…………死んだ、私のお母さんに……少しでいいから……会わせてみなさいよ……」
それを口にした瞬間、何かが瞳から溢れそうになったが、ナルキアはぐっと堪えた。泣いてなんかやるもんか。こんな、ふざけた奴の前で。
しかし、そんなナルキアの心情を知ってか知らずか、少年は「なるほど」とこともなげに頷いた。
「【亡くなられたお母様と少しの間だけでも会いたい】と。間違いはありませんか?」
「え……? ……そ、そうよ。やれるもんなら、やってみなさいよ……!」
「わかりました。では、少しの期間、お母様を生き返らせる方向で。具体的な期間や場所の指定は必要ですか?」
「……き、期間は……い、いちに……や、……やっぱり三日間……で。場所は……家、がいい」
「承知しました。では、契約の説明に移らせて頂きますね。まず、これから私たちは【願い事】と【代償】を繋ぐ契約をーー」
少年がよく回る口で、ペラペラと語り出したところで、ナルキアは我に帰った。
自分は、何を真面目に受け答えなんてしているのだろう。かぶりを振り、少年に言い放つ。
「いいからっ、無駄話なんてしてないで、やれるものなら早くやってみてよっ!」
「え? ですが、契約内容はしっかりと確認された方が……」
「そんなの必要ない! どうせ出来もしないくせにっ、人をバカにするのもいい加減にして!」
「そうですか? ……うーん。そうですかぁ。……わかりました。仕方ありませんね。それでは、これより【願い事】を叶えて差し上げましょう」
ナルキアの心臓が、どくんと跳ねる。ーー出来るはずがない。そんなこと、わかっているのに。
少年は、危なげない足取りでナルキアに歩み寄ると、その手を取った。
「な、なによ……?」
「では、行きましょうか」
ーー瞬間。
ナルキアを支え続けていた足場の感覚が、消えた。
「……へ?」
何が起きたのか、ナルキアは理解するまでに、数秒の時間を要した。
そして、ようやく気がついた。
少年と共に、自分の身体が、空中に投げ出されていることに。
「ーーい、いやぁああああああああアアアあああああああああああああああああアアああああああああッッ!!!?」
「いやあ、本当に風が気持ちいいですね。地面まで何秒くらいかかるんでしょう」
「お母さんに会わせるって、結局こういうことなのぉおおおおおおおッッ!!!?」
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