死者の書

死者の書 第1節



 ――群青の空が、どこまでも続いている。


 ナルキア=オードネイは、時計塔の頂の物見窓から身を乗り出すようにして、雲ひとつない青空を仰いでいた。


 この街の象徴ともいえる時計塔は、冒険者たちの間では【導の塔】と呼ばれ、街の周囲に果てなく広がる平原を頼りもなく往く者たちにとって、古くから旅の指針とされてきた。


 その頂からは、遥か彼方の地平線が一望でき、平原の方々に散在する幾つかの村々が確認できる。


「……ふぅ」


 この街に生まれて十七年。思えば、この塔に上ったのは、五歳の誕生日以来だ。ナルキアは自嘲するような笑みを浮かべると、視線を眼下の街並みに移した。


「……もう、逝かないと」


 物見窓のガラスは、いつからか割れたままになっている。隙間から身体を滑り出すようにして、ナルキアは時計塔の壁面にある、僅かばかりの出っ張りに足を下した。


 途端に、強風がナルキアの華奢な身体を打ち付けた。窓のふちに添えている手を離せば、今にも落ちてしまうだろう。


 ナルキアは、奈落のようにも思えるほど遠くに見える地面を一瞥し、そして再び空を仰いだ。


「……お母さん」


 ナルキアの頬を一筋の滴が伝う。


 これまでの人生が、走馬灯のように瞼の裏側でチカチカと輝いていた。溢れ返る感情を噛み殺すように、ナルキアは唇を噛み締めた。


「……今、いくから」


 ふっ、と口元に一瞬の笑みを湛え、虚空へ足を踏み出そうとしーー。



「――へっくしゅ!」



 ――そして、横合いから飛び出した声に、宙へ足を放り投げたまま、凍り付いた。


 ナルキアの全身が硬直する。


「……へぅ」


 思わず間抜けな声がこぼれ出た。筋肉が強張り、身体が思うように動かない。ざぁっ、と。ナルキアの身体中から冷たい汗が噴き出した。


 石のように硬い唾を飲み込み、ナルキアは離れかけていた指先でもう一度、しっかりと、倒れ掛かるように窓のふちを掴んだ。


「――ぁ、はぁ……っ、はぁっ……!!?」


 筋肉が錆びついたような音を立てながら、ようやく声の方へ顔を向ける。


「……うー。昨日、雨に打たれすぎたかな」


 そこにいたのは、彫刻のように整った目鼻立ちの、自分とそれほど歳も変わらないような、1人の少年だった。


 銀糸の如く澄んだ輝きをたたえる髪と、風に揺られるそれの下に、幼子のように純粋な瞳が見え隠れしている。


 その少年は、時計塔の壁の僅かな出っ張りに、平然とした顔で座り込んでいた。そして、何事もなかったかのように鼻をすすり、まるで今気付いたかのように、不意にナルキアの顔を見上げて言った。


「やあ、こんにちは」


「…………こん、にちは」


 少年が、まるで鈴を鳴らしたような心地よい声を発する。この不可思議な状況と全く噛み合わない、とぼけた言葉に、ナルキアの頭は余計に混乱した。


「……あ、なた……は? ……や、そんなことっ、より! そ、そんなところにいたら危ないわよ! 何してるの!?」


「この時計塔が有名な観光名所と聞いたもので、せっかくなので立ち寄ってみました。ここはいい街ですね。昨日の仕事でちょっと疲れたので、少しの間ここで休ませて頂こうかと。……だめでしょうか?」


「え、いや、それは全然いいんだけど、……いやいやっ、なんでわざわざこんな場所で!?」


「貴女こそ、どうしてこんな場所に?」


 ナルキアは、はっとして口を噤んだ。


「……」


「勘違いならすみません。ただ、もし自殺をお考えだとしたら、いい選択だと思います。地上までおよそ250メートル。一瞬で絶命できるでしょう。ただ、脳みそとかいっぱい飛び散って全身がスライムみたいにぐちゃぐちゃになるので、あまり綺麗な死に様は期待できなさそうですが」


「えっ…………そ、……うなの?」


「試してみればいいじゃないですか。えいっ」


 少年が、ナルキアの服のすそをくいっと引っ張る。


「い、いやァああああああああああああああああああっっ!!!? バッ、やめっ、あっ……あなたばっっっかじゃないのっ!!? ばか! 本当に頭おかしいんじゃないっ!!?」


「あれ? でもさっき、飛び降りようとしてませんでしたか」


「ああいうのは思い切りとか勢いみたいなのが大事なのっ!!! 押すなよ!? って前フリする前に押しちゃうみたいなのやめてよ! ……って、なんで自殺の心得みたいなのを私が語らなきゃいけないのよ! ああ、もう、もうっ……なんなのよぉ……っ」


ナルキアは、視界がぐるぐると回転する感覚を初めて味わった。足場もないような場所で、思わずへたり込み、子供のように泣き出してしまいそうになる。


「……、……だれか……たすけて……」


 もう自分が、何を言っているのかもわからない。吹き抜ける風の音が、自分を笑っているようにすら聞こえる。


「……もし貴女が望むなら」


 しかし不意に、少年の声色に変化が起こったのを、ナルキアは聞き逃さなかった。


 心の湖面に石を投げ込んだかのように、その声は波紋を広げて、不思議とナルキアの胸の底に染み渡った。


 少年が、その場にすっと立ち上がり、柔和な笑みを浮かべる。


「先ほど、貴女は死を選びましたが、もし原因となる障害を取り除くことで、それを考え直すことが出来るのだとしたら……。叶えて差し上げましょう。どんな願いさえも」


 ーーナルキアは、ふと昔話を思い出した。


 この世界のどこかには、どんな願い事も叶えてくれる、神様がいるのだと。


 その神様の名はーー……。






「申し遅れました。私は【融資屋】オルヴェルグ。ーー貴女の願いを、お聞かせ頂けませんか?」



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