異世界融資屋 オルヴェルグ

@kouzaki

邂逅の書

融資屋オルヴェルグ





「ひっ……はっ、はぁっ、はぐぅ、い……いやっ、いやだ……嫌だ……ッ!」


 肌を裂くような、鋭い雨の降る夜。


 一人の年若い、彫刻のように整った目鼻立ちの青年が、何重にも恐怖を塗り固めた面持ちで、村の外れの泥道を駆けていた。


「クソッ……何だよ、何なんだよあのクソ野郎……ッ! せっかく、せっかく全部、上手くいってたんだ……ッ!」


 厚ぼったい雨雲が月の光を遮り、辺りは海の底を覗き込んだかのような闇に包まれていた。


 泥に足を取られて、つんのめるようになりながらも走り続け、ようやく山間に小屋を見つけた青年は、飛び込むようにそこへ転がり込んだ。


「はぁ……はぁっ……! ど、どうする……? 俺はどうすればいい……! こ、この、このまま、隣町まで逃げるか……それとも……っ!」


「はは。素直に【代償】を清算するのが一番じゃないでしょうか」


 額に貼り付いた髪を鬱陶しそうに掻き上げていた青年が、不意に投げかけられたその声に凍り付く。


 恐怖に引きつった面持ちで、錆びついたような音を立てる首を持ち上げ、青年が視線を正面へ向ける。


 そこに、一人の少年がいた。


「ひっ……ひぃぃぃいいいいいいやァぁああああああああああああッッッ! あ、あぁッ、嫌だッ! い、いやっ、いや、ひぃやだっ、ぁ、ぁあっ、ぁああああああッ!」


「えぇ。そんな悲鳴上げないでくださいよ。まるで私がワルモノみたいじゃないですか」


 涙と鼻水をまき散らし、青年は入ってきた扉を押し開けようとするが、それはまるで壁の模様の一部と化してしまったかのように、びくとも動かない。


 そんな青年の様子に、少年は――フードを目深にかぶり、明確な表情は窺えないが――どこか別の場所から取って貼り付けたような、柔和な笑みを浮かべていた。


「かッ、返さないッ! 俺は返さねぇぞっ! この『顔』も『身体』も全部っ、俺が手に入れたモンだッ! テメーなんかに返してたまるかァッ!」


「いえいえ。何度もお伝えしているように、私は差し上げたものを返せと言っている訳ではありませんよ。その『顔』も『性器』も『富』も『力』も、すべては貴方のものです。勿論、私の提示した【代償】をきちんと清算して頂ければ、の話にはなりますが」


「っざけんじゃねえッ! あんな無茶苦茶な要求、呑める訳ねえだろうがッ! 他人の弱みに付け込みやがってッ!」


「ですが、それが【契約】の条件です。ちゃんと説明して、貴方も同意したじゃないですか。やだなあ。契約書を見ますか? ええと、たしかここに……」


 少年が懐を漁る。その隙を見て、青年は足元に転がっていたスコップに手を伸ばした。


「ああ、これですね。暗いですけど見えま――」


 ぞぶっ。


 少年の身体を、紫電の如く投擲されたスコップが貫く。


 勢いを殺さず、それは少年の身体ごと小屋の壁に突き立った。磔にされた少年の口から、墨を融かしたような赤黒い血が溢れ出る。


「……は……、……はは……。…………ざまあ、みろ」


 青年が、渇いた笑みをこぼす。


「ざまぁああああああああああああああああああみろぉおおおおおおおおおッ! ハハッ、ひハはははハハッ! 皮肉なもんだなぁ! テメーが俺に与えた『力』で、テメーがやられちゃあ世話ねえってんだよ、ッばァアアアアああああああああかッ!」


「いやあ、まあ商売柄よくあることですよ。お気になさらないで下さい」


 青年が、愉悦に満ちた表情のまま固まる。次第に、塗装が剥がれるように笑顔が崩れ、青年は笑いたいのか泣き出したいのか、どちらともつかない顔で少年を見遣った。


「……なんで……生きてんだよ、……てめ、ばっかじゃねえの……?」


 少年が柔和な笑みを崩すことなく、傷口から滑らせるようにしてスコップを抜き取る。壁に突き立ったままのそれを一瞥し、そこから血を指で掬い取ると、少年は契約書に大きくバツの字を描いた。


 契約書を、へたり込む青年の眼前に差し出す。


「はい、よーく見て下さい。 ……契約違反の場合には、どうなるのか」


「…………は、……はは、へ・……へへ……」


 青年は、眼前のそれではなく、虚空を眺めていた。


 彼の頬を伝い、透明な粒が流れ落ちる。


 少年が、赤子に向けるような穏やかな笑みを湛え、最期に、青年へ囁いた。


「【融資屋オルヴェルグ】をご利用頂き、ありがとうございました」


 鋭い雨が地面を打つ。


 ひとつの悲鳴が、雨音の向こうに掻き消えた。

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