第45話 ならばイエスの罪を答えよ
キリスト教の原理は「罪」を原因として機能する。
罪に対しての三つの対応。
罪への裁き。
罪へのあがない。
罪への許し。
誰もが罪を背負っている。
「おれは気に入らないやつをぶちのめした」
そういう経験は誰もが少しづつもっているだろう。
その罪をどうあがなうのか。
それを考えるのがキリスト教だ。
神は、全人類の罪の対価としてのあがないを集めている。
神は、全存在の罪の対価としてのあがないを集めている。
キリスト教は、罪人からのあがないを集めることで成り立っている。
問題は、誰が人類の罪のあがないを受け取るかということだ。
教会があがないを受け取るのはおかしいと考える人は大勢いるだろう。
なぜ、教会が人類の罪のあがないを受け取るのだ。
人類のあがないの行き先はどこなのだろうか。
それを知りたければ、運送業者にたずねるといい。
人々のあがないを神へ届けるのが運送業者の究極の職務なのだ。
そうやって集めたあがないを神はどのように使っているのだろうね。
イエスが王であると僭称した罪は、どのようにあがなわれたのか。
罪を裁き、罪をあがない、罪を許すというのなら、まず、イエスの罪をどう裁くのか、イエスの罪をどうあがなうのか、イエスの罪をどう許すのか。それをまずは答えよ。
イエスの罪は、イエス自身による苦役を課すことによって裁くべきだろう。
イエスの罪は、イエスが復活して世界を救うことによってあがなうべきだろう。
(おれもわたしも、復活して世界を救いたいという人がいるなら、本当に心からそう決意している人がいるなら、別にあなたたちがイエスではなくても、復活させて、世界の救済に挑戦してもらってもいいんだよ。やってみてよ。本当に世界が救えるのなら。世界が救えなくても、まさか、十字架刑にされることはないだろうからね。)
イエスの罪は、おお、お許しください。
わたしには、イエスの罪がどのように許されるのか、ひとつの方法も思い浮かばないのです。
許されることのない者、イエスなのでしょうか。
そして、イエスの番が終わったら、次はあなたたちの番です。
あなたたちの罪がどのように裁かれ、あがなわれ、許されるのか。
神は、人類からあがないを受け取るために、わざと人類が罪を犯すように作ったのかもしれません。
(知恵の実神話とか考えると、関係があるかもしれないと思ってしまいますね)。
すると、神が人類を裁くのは、始めから罪を犯すように作って、その当然の運命として、みなが有罪として裁かれるのかもしれないですね。
罪を犯さないわずかな変人もいるような気がするのだけど、
「わずかな変人とは何だ。不公平だぞ」
とみんな怒るかもしれません。
でも、わたしには、罪を犯さない変人が時々、いるような気がするんですよ。
そして、おまえたちの罪の許しの話だ。
ああ、もちろん、おまえたちの罪は、おまえたちのあがないによって償われる。
世界各国の裁判官は、罪人のあがないを計量する方法が知りたくて、法学を研究しているのだ。
人類のあがないを集めた場所。
人類のあがないを集めた場所の名前は、「つぐなわれた都」という。
おまえたちも、罪をあがなえば、つぐなわれた都へ行ける。
ただひとり、罪を許されなかったもの、イエス。
イエスの罪とは何か。
よく考えると、わたしはイエスが何の罪で十字架刑になったのかまったく知らないのだった。
もう一度、おまえたちに問う。
ならばイエスの罪を答えよ。
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