第40話 観音姫とか

 観音とは、般若心経の般若の知恵を考えた人です。

 観音は女性です。

 観音は、手を増やしてみたこともあったり(千手観音)、顔を増やしてみたこともあったり(十一面観音)、馬の頭にしてみたこともあったり(馬頭観音)したけども、それでも、女の子です。

 地獄では聖観音、餓鬼道では千手観音、畜生道では十一面観音、修羅道では馬頭観音、人間界では救世観音(ぐぜかんのん)、天上界では如意輪観音として現れることが多いです。

 解脱すると会えるのが観音姫です。

 観音は女性哲学者です。物理法則を心と一体化するとどうなるのか。とか、しかし、自分の心ですら意のままにならないのはわかっているではないか。だから、物理法則を心と一体化しても、物理法則は意のままにできない。とか考えます。

 観音はけっこう人気のある女性哲学者なのですが、ブサイクな自分の顔を見て、がっかりする客もいるのではないかと悩んでいます。やっぱり、みんな、美人の女性哲学者がいいらしいので。観音も、美女への憧れはあります。美しさにとらわれるのは煩悩なのでしょうか。

 観音は、仏僧より彫刻家に人気があるようで、本当にたくさんの観音像を作ってもらってます。観音の仏像、アレンジされすぎなんじゃないかと思いますけど、どうなのでしょうか。

 観音は、美術より存在論に興味があるのです。

 物理法則が誰かの心だとしたら、その心は苦しんでいるのか、喜んでいるのか、とか考えます。

 存在を確証するのは、六識です。六識とは、視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚、意識のことです。六識が身体にバラバラに配置されているので、存在はバラバラな根拠によって成立するはずです。大塩平八郎なんかは、「心は体の外にある」とすらいいました。存在の根拠はバラバラに散らばっているもので、存在の確証もバラバラに散らばっているものなのです。

 二つの原理がひとつにまとまっていく。やがて、すべての多様性がひとつに統一されるというのを、ヴェーダンタ哲学といいます。インドのシャンカラさんの宗派ですね。

 シャンカラはすべての存在がひとつに統一されるという教えの人なんですけど、観音は、存在と非在がひとつになるとどうなるのかを考えた人なのです。

 存在には、非在が欠けている。存在は非在を内包して初めて、究極存在になれる。

 存在と非在が統一されること、それは空なのです。「色即是空、空即是色」なのです。

 六識は、存在か非在かにとらわれずに認識する。存在しないものを感知することはよくあるので、六識は非在も感知しているのです。意識は、非在を認識しています。

 また、存在者がわたしたちの意識を感知しているとすると、存在者も、存在と非在とを感知しているはずです。

 観音はこんなことを考える女の子なのです。

 観音は、存在の妻です。

 ブサイクな観音ですけど、旦那の権力を使って遊んでいます。いろいろと、存在を動かしていますね。

 精神の比重を増やしてみようかとか、物質の比重を増やしてみようかとか、存在の根拠をなくしてみようかとか。

 存在の根拠をなくすと、みんながびっくりして面白いですよ。

 そして、存在の根拠を固めると、今度はみんな、「存在の根拠はゆるぎなし」とかいい始めるんですよ。

 観音姫は存在の妻です。解脱すると会えます。

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