第14話 楽欲と求道
華のことは華にとえ、紫雲のことは紫雲にとえ、一遍は知らず。
by 一遍上人
悟りなどという不調法、いたしたる覚え無之候。
by 一休宗純
自宅にこもって書物を読みながら暮らしている。仏教とは何なのかとんとわからない。高名な仏僧がいう如意庵(意のままの住居)やなすことなき悟りの宮殿に住んでみたいと思うが、それも叶わない。
これは仏教に限ったことではないが、ヒトが生きるには、楽欲(らくよく)と求道(ぐどう)が必要だ。
ぼくが哲学書や宗教書を読んでいるといっても、悟りが何なのかはとんとわからない。聞いてくれるな。
悟りとはあれかなと思うことは二、三あるけど、それが一つではないので、おそらくぼくの想像している悟りは悟りじゃない。悟りの種類が複数あるということも当然あるだろう。仏僧は一生のうちに何度も大悟するという。みんな好き勝手に悟ればいいじゃないか。
まだ道半ばとはいえ、ぼくが経典を読んで知るところによると、どんな高僧だといっても、ずいぶん仏道は頼りないものだ。
禅僧は禅を知らずとみずから笑う。
六字の念仏も、ぼくが仏教書を読んで解釈するには、無念仏でも阿弥陀はやってくる。悪人だろうと救われるという悪人正機は当然のこと。それくらいでぼくたちを見捨てる仏教じゃないさ。
さっき読んだ「大乗仏教概論」でも、「愛を肯定する明治仏教」を鈴木大拙が述べていたぞ。
「日常の努力は、俗っぽいことばかりである。」と一休宗純もいっていた。悟りや仏教なんてものも、聖人の生き方などではなく、日常生活を埋めてこそだろうなあ。
やる気のある仏僧がいても、師匠が教えるのが方便では、悟りを開くのはたいへんだろう。
どれだけ経典を読んでも、仏道の極意が教外別伝にあるというなら、それはどの師匠を選ぶかで悟れるかどうかが決まってしまいそうだ。
ぼくはこれからの日本には、楽欲と求道が必要だと思う。楽欲と求道は、仏教に限ったことではない。
如来とは、あるがままにあるという意味だ。あるがままにあるまま幸せになりたかったが、やはりそれは難しいようだ。
この文章も、仏教を説明しようと書いているわけではなく、宗教にこだわらない現代思想を語りたくて書いているものだ。そうなると、みんなに主張したいのは仏教の教義ではなく、別のことになってしまう。それは、次のようなことだ。
本当に賢い人は、神とか悪魔ということばにとらわれずに、事実の確認を把握しているものです。そのためにはメモが必ず必要です。
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