2011/3/11
詩野
2011/3/11
最初に記しておくと、この話を最後まで読む必要はありません。
というのもこの文を目にしてくれた時点で十分、私が望んだ通りになっているからです。
これは盛り上がりも何もない、終わった、あまり救いもない話。
もしもあなたが感受性豊かで他人の悲劇、不幸に自分の事のように心を乱すようなら尚更読むべきではない。
この先は曖昧な記憶を書き殴っただけ、誰かに訴えたい内容があるわけでも、教訓めいたことも書かれてはいません。
このページを開いてくれた、それだけで十分です。
2011年3月11日。
私はまだ学生で、当日は創立記念日だったか何だったかで学校が休みだった。
八つ当たりで、想像するだけ無駄なことだけど、もし休みでなかったのなら、また違ったのだと思う。
その日の前日から友人二人と恋人が私の家に泊まりに来ていた。
学生らしく益体のない話で盛り上がり、借りてきたDVDを数本垂れ流しながら、日付が変わっても騒いでいた記憶がある。
騒ぎ疲れて誰ともなく眠りについて、太陽が昇りきった頃に目覚めて、やることもない、解散しよう、と三人を駅まで見送った。
いくら若く、幼いとはいえ、一人で家に戻れば残った疲れは出る。
着の身着のままでベッドで眠りに落ちて数時間。それは来た。
がたがたという揺れ。目覚めるには十分だったけれど、その時はまだ分かっていなかった。
それが今日に至っても語られるようなものであるなんて。
暫く揺れが続き、ある時、その揺れが変わった。
今まで経験したことのない大きな揺れに、やばいやばいと馬鹿みたいに一人で騒ぎながら食器棚を押さえに向かっていた。
幸いにして家が崩れる事はなく揺れは収まった。
世間は大騒ぎだろうとテレビをつけようとしたが反応はない。長い停電の始まりだった。
ガラケーを取りに戻ってもそちらも充電は満足にされていない。寝る前にしておけばよかったのに。
どうしたものかと悩みながら、まあそのうち復旧するだろうと深くは考えなかった。
あれだけの揺れを経験しながら、家が無事だから大丈夫、そんな程度にしか考えていなかった自分の愚かさが嫌になる。
家の中を歩き回り、物が散乱しているだけで大した被害はないことも私の気を緩ませた。
人心地ついた気でいる私のケータイが鳴る。残り少ない充電が一気に減る。
今思えばこの時電話が通じたのは奇跡的だったが、その奇跡が奇跡であると私は気づけなかった。
電話の相手は父と同じ会社に勤める母だった。
揺れが大きかったけど家は大丈夫か? 仏壇の様子はどうか?
そんな会話。両親もまだ事の大きさに気付いてはいなかった。
仏壇の様子は既に確かめた。写真が倒れてしまったのと、花瓶が倒れ、畳を濡らしただけ。固定された仏壇は無事だと伝える。
ならよかった、と会話は終わる。充電がなくなりそうだという事を伝える事もなく、通話は母の方から切れた。
両親と再会するのはそれから一週間近く経ってからになる。
私たち家族は呑気過ぎた。
異変に気付いたのは二階の部屋の窓から外を眺めていた時だ。平日の昼間という事もあり、近くの民家にはほとんど人がいないのだろう。外に出ている者はいなかった。
私の部屋は川に近く、二階からは防風林の向こうに流れる川が辛うじて覗ける。
その川の流れが目を疑う程に激しくなっていた。
白い飛沫が見えた時には何かの間違いかと思った程だ。私は視力が低いし、何かの見間違いだろう、と。
けれど繋留されていた船が小舟のようにあっさりと流れていくのを見て、ようやく私は異常さに気付いたのだった。
何かマズい事が起きている。何か普通じゃない事が起きている。
そんな焦りと不安が生まれる中、ついに川が氾濫した。
木をなぎ倒し、車を押し流して迫る濁流に思わず窓から離れた。
だがもう遅い。一階に下りれば諸共に流されるだけ。ただこの場所に留まり、家の無事を祈ることしか出来ない。
もう一度窓から外を覗く。
濁流の勢いは止まらない。あっという間に地面は見えなくなり、水位はどんどんと上がり、玄関の方からばきばきと音が聞こえる。
階上から様子を窺えば玄関の扉がひしゃげ、水が浸入してくる。買ったばかりのブーツが呑み込まれた。そんな事を気にする辺り、まだ異常性が理解できていない。或いはもしかすると現実逃避だったのかもしれない。
水が迫ってくる。一階へと繋がる階段が一段一段見えなくなってくる。
濁流は階段の上から二段目で、窓からは手を伸ばせば触れられる辺りで止まった。
家は健在、溺死はせずに済んだ。
とはいえ家から出る事は出来ない。完全に閉じ込められていた。
私が最初に取ったのは、またも家捜しだった。
電気が止まっているのでまずは懐中電灯とカセットコンロを探し出した。
次に中学時代に授業で作った手回し充電が出来るラジオの存在を思い出し、それを。
なんの危機意識もなかった、家に一人きりで閉じ込められた子どもにしては冷静だったと思う。
食べるものはある、一日二日で飢えることはない。そう思えば少し安心出来た。
ラジオをつけたはずだが、何を発信していたのかは覚えていない。
ただ一変してしまった景色を窓から眺めていた。
そして目前にまで迫っている水に落ちる雪を見て、今度こそようやく、とんでもないことが起きているのだと理解した。
それこそ世界が終わってしまうんじゃないか、なんて冗談でなく本気で。
◇
ケータイの充電はいつのまにか切れ、夜が来た。
ラジオが被害を伝えている。
「●●市の■■には無数の死体が浮いているとの情報もあります」
そんな事を言っていた気がする。●●市は両親の会社がある所だ。けれど■■という地名を聞いてもそこが会社から近いのか遠いのかも分からない。
もっと幼い頃は長い休みの度に両親に連れられ、会社で休みを過ごした。その頃の記憶を辿ると近くに川や海はない。きっと大丈夫だと言い聞かせる。
……友人や恋人の心配はしていなかった。
私が大丈夫なんだ、だから大丈夫。そんななんの根拠もない安心があったからだ。
窓の外に明かりが見える。暗くてよく見えないがゴムボートに乗った大人だった。
懐中電灯を振って合図を送る。救助してもらえるかもしれない。
だが返ってきたのは「水が引いたら家を出なさい」、そんな言葉。
私はその言葉を聞いて逆に安心してしまった。
もしも焦った調子で「大丈夫か! 今助けてやる!」などと言われたら、事の大きさを思い知らされ、さらなる不安にかられていただろうから。
大丈夫。私が怖がりなだけだ。夜の暗闇の中でそう言い聞かせる私の耳に、爆発の音が届く。
窓の外に目をやれば、川の向こうのコンビナートに火の手が上がっていた。
どん、どん、どん、何がそんなに爆発しているのか、何度も何度も爆発音が聞こえ、その度に夜空を照らす。
後から聞いた話だが、一歩間違えればその爆発とは比にならない爆発が起き、辺りが火の海になっていたのだという。
それを知る頃には、私の心は動じなくなってしまっていたが。
◇
夜が明ける頃には水は引いていた。
部屋から以前買って、しまい込んだままのスニーカーを履いて、泥とヘドロに塗れた一階に下り、天井にまで届きそうな程に歪んだ玄関の扉の下を潜る。
一日ぶりの外の景色はやはり、一変していた。
崩れた家、流された家、あるはずのものがなく、ないはずのものが流れ着いている。
正直なところ、はっきりと思い出せるのはこの辺りまでだ。
それから思い当たる避難所、小学校や中学校、母校を訪ねて、知り合いがいないか探しながら転々として夜を明かした。
会えた人数は少なかったが、それでも無事だった知人たちを見て、安心した。
これならきっと自分の知り合い、家族は無事だろう、と。
すっかり無精髭が伸び、一気に老け込んでしまった頃に避難所を尋ねてきた両親と姉と再会した。
ほら、無事だったと笑みが零れた。
父が用意してくれた電池式の充電器でケータイを充電する。一週間ぶりに文明の利器に明かりが灯る。
不在着信もメールもない。今となっては懐かしい、センター問い合わせを行う。不着メールは、やはりない。
この一週間でナリを潜めていた胸騒ぎがした。いや、きっとずっとしていたのだろう、それが当たり前になり、気づけなかっただけで。
恋人に電話をする。繋がらない。
友人に電話をする。繋がらない。
他の友人たちに電話をする。一人、二人、三人。何人目かでようやく繋がった。
互いの無事を確かめ合い、他に連絡が取れた友人がいないかを確認する。
私の家に泊まっていた三人の無事を知る者はいなかった。
◇
ここからはもっと時系列が曖昧だ。
何日後だったのかも覚えていない。
比較的被害が少なく、停電も復旧している父方の実家へと避難した。
その時、警察かどこかが安否確認を行っている事を知り、そこに電話をかける。
三人の名前を告げる。長い沈黙の後、安と否、どちらも確認されていないことを報された。
もしも無事が確認できたら連絡をくれ、と伝える。
連絡が取れた友人たちにも電話で私の名前で三人の事を伝えたから、無事が確認できたら連絡がくる。そうしたら報せる、と。
一人、二人、三人。みんなに同じように伝えた。
それを繰り返して何人目だったろう。
遺体が見つかった。
家が近いから家族と会い、直接聞いたと言っていたような気がする。
そっか、わかった。
多分、そんな返事をしていた気がする。
一体その時の自分が何を考えていたのかは思い出せない。
30分もせず、もう一度、安否確認センターへと電話をかけた。
三人とも見つかりました。
そうですか、では三人とも無事、と。
いいえ、そっちじゃないです。
そんな会話をしたのは覚えている。
遺体とか死とか、直接的な言葉を使わなかったのは覚えている。
それ以上は何も覚えていない。
それから数年の記憶はほとんどない。本当に、よく思い出せない。
それなりの日常を取りもどし、気付けば卒業を迎えて、社会人になって、成人していた。
趣味の創作活動も続けながら、今日もまたのうのうと生きている。
◇
語れるのはこれぐらいだ。
震災に見舞われた時、どう動くべきか、どうすべきか、なんて、役立つ事は何も伝えられない。
ただ私は生きているから、運が良かったのか、取った行動が良かったのかしたのだろう。
どういうわけか、私だけが生きている。
前日、一つ屋根の下で夜を明かした中で私だけが。
もしも。
もう少し遊ぼうとみんなを引き留めていたら。
もう少しゆっくりしてからにしようと提案していたら。
みんなは死なずに済んだのかも知れない。
もしかしたら私が彼女たちを殺したのかもしれない、なんて考えたこともある。
友人たち、恋人。彼女たちの中には最後に会ったのが私だという人もいた。
家に戻っても家族は仕事で、私が最後に会った人間だった。
私だったら彼女たちを救えたのかもしれない、そう思ったこともある。
そうではない、という人もいるだろう。
その通りだ、という人もいるだろう。
多分、そのどちらも正しくて、そのどちらも正しくはない。
私個人の考えとしては、多分私は悪くない、のだと思う。
災害が起こるなんて予知できるはずもなく、ただの子供に、数十キロと離れた恋人たちをどうこう出来るはずはない。
もう終わった事。もう過ぎた事。今更何が出来るわけでもない。
死んだ人に生きている私が出来る事は何もない。
冥福を祈ることすら、生きている私の自己満足にすぎない。
いつからか、私の中には生きなくてはならないという願いが生まれた。
彼女たちの分まで生きなくてはならない。
彼女たちの死を理由に、死んではならない。
前向きな願いのようで、それは後ろ向きな呪いだ。
死にたくない、ではなく、死ねない、という呪い。
もしも、私が死ぬとしたら、きっとようやく会いに行ける、と思うことだろう。
死後の世界など信じてもいないくせに。
それは駄目だ。それは生きることを諦める事だ。
それは彼女たちに理由をおしつけ、生きることをやめる言い訳にしてしまうことだ。
そんないつ芽生えたかも覚えていない思いを抱いて、今日も私は生きている。
◇
ここまで読んでいただきありがとうございます。
もう十分です。
これ以上は本当に読まない方がきっといい。
時の流れというのは残酷だとか、時間が解決してくれる、というのは良く聞くフレーズではあるけれど、本当にその通りだ。
彼女たちの死を知ってから一年ほど(記憶は曖昧だからもしかするともっと短かったのかもしれない)は毎晩夢を見て、常に寝不足だった。
夢といっても悪夢らしい悪夢というのはほとんど見ていない。
ただのありふれた日常の夢、みんなが無事で、当たり前の日常を送るだけの、つまらない夢。
けれどそれからどんどんと夢を見る頻度は減っていった。
週に一度、月に一度、半年に一度。
やがて年に一度、3月11日だけになり、記憶が鮮明になる頃、五年も過ぎた頃、今はもうほとんど夢に彼女たちが出てくることはない。
心の傷が癒えたのかと言われれば何も変わっていないはずだ。
考え方は前向きにも後ろ向きにも変化していない。
ただ、曖昧な記憶が曖昧なまま風化していっているだけ。
人はまず声から忘れていくらしい。ああ、確かに彼女たちの声は思い出せない。
かすかに残った記憶を辿り、くだらない会話の情景を思い浮かべれば自然と再生されるけれど、数年前と比べれば記憶は薄れてしまっている。
顔は写真を見返せばまだ忘れてはない。
確かに覚えているはずなのに、確かに記憶は薄れている。
健在だった頃に思いを馳せる度に訪れた胸の痛みが、今はほとんどしない。
もしかしたらそれが時間が解決するということなのかもしれない。
けれど私はそれが受け入れられなかった。
忘れることでしか辛い記憶を乗り越えることが出来ないのなら、乗り越えなくていい。
辛い記憶を抱えたまま、苦しいままでいいと思う。
忘れることが恐ろしい。
記憶が風化することが恐ろしい。
ここまでのうのうと生きてきたけれど、忘れることだけはしなかった。
忘れることだけはしたくなかった。
彼女たちは心の中で生きているなんて言うつもりはない。彼女たちは死んだ。
それに忘れてしまえば心の中でも死ぬのと同じだろう。
思えば記憶が薄れる前からずっと忘れることを恐れていたのだと思う。
だから私は創作活動において、自分に言い聞かせてきた。
どんな作品を書いても、作っても、それを作る自分は彼女たちの死を通り過ぎた自分だ。
あの日が、彼女たちの死が私の性格や思考に大きな影響を与えたのは間違いない。
だから私の創作物たちは彼女たちの死の先、死の上で成り立っている。
彼女たちが死んだから、私は私の創作を作ることが出来たのだと。
自己満足の自罰心だとしても、生きている限り、創作を続ける限り、そう思っていれば胸に痛みが走る。
その痛みがある限り、記憶が薄れても彼女たちを忘れることはない、そう思ったから。
だが、この文章を公開したのはその痛みすら薄れてきてしまったからだ。
だから私はこの文章をこうして公開した。
これならば自分の創作は彼女たちの死とは関係ないなんて言い訳は出来ない。
最初に書いたようにここまで読んでもらう必要はなかった。
誰がどこまで読んだのかは私からは分からない。
ただ閲覧数が、ブックマーク数が、或いは評価ポイントが、どれか一つでもつけばそれでいい。
その数字は間違いなく彼女たちの死が生んだ数字だ。
私は彼女たちの死を売り物に、食い物にしている。
そう思える。
そう思うだけで胸が痛む。苦しくなる。
自分が最低な人間だと嫌でたまらなくなる。
この痛みがある限り、目に見える数字という形である限り、きっと私は忘れないで済む。
記憶が薄れても嫌悪感と罪悪感が残る。
それが残る限り、きっと私は忘れずに済むと、そう思いたい。
この最後の部分は書く必要はなかった。
意味ありげに読む必要はないなんて書く必要もなかった。
数字さえ得られれば良かったのだから、その理由を記す必要はなかった。
それでもこうして書いているのは、未だに誰かに助けてもらいたいからなのかもしれないし、ただ単に私の性格が悪いからなのかもしれない。
これを読んだ、彼女たちがいない今を生きている人たちの気分を害したいという身勝手な八つ当たりなのかもしれない。
そんな自分が醜いと思う気持ちも、痛みとなってくれる。
彼女たちを忘れずにいられる。
全部、自分の為だ。
恋人や友人たちの死を、思い出を忘れてしまうような薄情な人間にはなりたくないという、どこまでも自分勝手で自分本位、自己中心的、自分第一な考えしかない。
どうしてこんな風になってしまったんだろう
2011/3/11 詩野 @uta50
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