No.3『Scaly-tale』
いつか、どこかで聴いた歌。月光に照らされ、銀色に輝く砂漠の歌だ。王子様とお姫様がラクダの背に揺られ、静謐なる夜の砂漠を往く…… そんな歌だ。もちろん、現実はそんなに優雅なものではない。林は途切れがちになり、草原の中では乾燥した蟻塚と岩山だけが立ち尽くしている。天頂に輝く太陽がサバンナの大地をジリジリと焦がす。乾期を迎えた大地は幾度も火災に見舞われたようで、岩壁には黒い煤がこびりついている。
その時。甲高い叫び声を上げながら、ヒヒの群れが滝のように山肌を駆け下りてきた。幼子を背に乗せたヒヒの親が見つめる先は岩山の一段高い頂。その向こうから、2人の人影が躍り出た。
「ニシキヘビの言うとおり、今年は“狒々山”に水が湧いたみたいですわね。ヒヒたちがこんなに残っているなんて……」
「わあっ、遠くまで見渡せますよ。すごい……」
コモドドラゴンとかばんは頂に腰を下ろした。2人はニシキヘビからの“お詫び”として水場の情報を得たのだ。目的地が分かっているというだけでも足取りは軽くなるというもの。ここまでかばんが着いてこられたのも、ある意味ニシキヘビのおかげということだろうか。
平らな草原を歩いていたときは見えなかったが、小高い岩山の頂からは眼下に広がる緑のオアシスを一望できた。青空の下に緑が広がる光景は、生まれたてのかばんでさえも胸を躍らせるものだった。岩肌を吹き上げる風に髪を揺らしながら2人は青いウリを齧る。溢れる汁は青臭いが、それが逆に頭を冴えさせた。
「さあ、そろそろ行きますわよ。これから山を下りますが、先程のヒヒのように急いで駆け降りてはいけませんことよ」
『歩幅は小さく、膝を柔らかく』と、コモドドラゴンの講説が始まった。彼女は自ら先頭に立ち急峻な山道を下りはじめる。かばんも見よう見まねでそれに続く。それにしても、かばんは飲み込みが早い。コモドドラゴンの伝えたことをひとつひとつ噛み締めつつ、そして楽しそうにコモドドラゴンの話に耳を傾けている。楽しめるということさえも彼女の才能であったかもしれない。いつの間にか戻ってきたヒヒの群れが、灌木の影から物珍しそうに2人を眺めていた。
――
――――
ふたりは山道を降り、ついに緑の回廊に足を踏み入れる。
かばんの目に映るものすべてが、彼女を迎え入れるかのようにその腕を広げていた。白い綿毛を散らしながら穂を大きく揺らす草原。茂みの中を跳ね回る小鳥たちが、鈴を振るような声で鳴き交わしている。それらをすべて睥睨し、まるで天を削るように立つ巨大な樹木。磁石に吸い寄せられる鉄のように、かばんの心はあちらこちらへと飛び回っていた。
「ふふっ、楽しそうですわね。そろそろキャンプに着きますから、ご挨拶の用意をしておいてくださいね?」
「は、はいっ。……なんだか、ドキドキします」
かばんにとって、これがはじめての“まともな”アニマルガールとの対面だ。はやる心を抑えながら、まるで門のように立つナツメヤシの葉をくぐる。待ってましたと言わんばかりに、温い風が二人の体を包み込んだ。纏わり付くような水気を帯びた重い空気だ。
かばんの手を取り、コモドドラゴンは跳ねるように水際へ向かった。2人の後を追うようにパピルスの藪が風に揺れる。地下水が湧き出した湖の回り生える植物は、かばんが見てきた乾期のサバンナのものとは大きく違っていた。噴水のように広がるヤシの葉一枚一枚は一見かばんの羽根飾りにも似ている。その大きさはあまりにも異なっているのだが。
その立ち並ぶヤシの間を繋げるように、オアシスを覆い尽くさんばかりの巨大な布が張られている。風を孕み大きく揺れるそれは、森そのものが巨大なテントになったかと錯覚させるほどだ。
「すごい…… この下に、アニマルガールの皆さんが?」
「ええ。皆、私の古い友人ですわ。大丈夫。『チーム・噛んじゃうぞ』の方々は良い人ばかりですから」
『ほとんど、ね』と、コモドドラゴンは苦笑いしてかばんの手を取った。目の前で大きく口を開けているテントは薄暗く、こちらから中の様子を窺い知ることは難しい。だがそれは、足を止める理由にならなかった。かばんは意を決したように頷くと、コモドドラゴンと共にテントの入口へと足を踏み入れた。
かばんとコモドドラゴンは大きく口を開け待ち構えるテントに潜り込んだ。薄暗いテントの中の様子は、光に満ちた外界とはすべてが異なっているようだ。かばんは無意識のうちに、コモドドラゴンの背に貼り付くように歩いていた。テントの天井は思っていたよりも低く、それがより息苦しさを感じさせた。
暗がりの中で、何者かの気配が蠢いている。そして、それはひとりではない。侵入者の正体を見定めるように向けられた鋭い視線をかばんは感じ取っていた。
「……お久しぶりですわね、皆様方。コモドドラゴンですわ」
コモドドラゴンが不意に足を止め、暗がりに向かって呼びかけた。その途端、淀んだ空気がざわりと動く。冷や汗を拭うかばんの耳がどよめきを受け止めた。未だ目が慣れないせいなのだろうか、彼女らの話し声がやけに大きく響く。『あのコモドドラゴンが』、『戻ってきたのか』、『一体なぜ?』。ざわめきは波のように広がり、テントの中は一言で言えば“お祭り騒ぎ”だ。
「……天蓋を開けて! 明かりを入れるの!」
一際大きな叫び声がテントの隅々にまで響き渡った。ざわめきは水を打ったように静かになり、今度はガラガラと何かが回転する音だけが聞こえてくる。そのうちに天井の一辺を覆う布がゆっくりと巻き取られ、差し込む光芒が埃っぽいテント内を照らした。思わず目を伏せたかばんを庇うように、コモドドラゴンが一歩前へ出る。
『コモモさん、お久しぶりです……! また会えるなんて、夢みたい』。鮮やかな黄緑色の服に身を包んだブームスラングが、コモドドラゴンの元へいの一番に駆け寄った。彼女を皮切りに、アニマルガールたちが次々と押しかける。
『今までどこにいたんですか? 私も行けますか? 気になる!』と、甲羅を放り出したアカミミガメが矢継ぎ早にまくし立てる。『後ろに居る子、はじめましてですよね。……怖がってる?うう、やっぱり……』。そう言ったミシシッピワニは悲しそうに顔をしかめたが、逆にかばんが萎縮してしまった。
コモドドラゴンの元へやってくる彼女たちは大なり小なり鱗に覆われた尻尾を振っている。『やはり、自分は仲間外れなのかもしれない』と、かばんは少し気後れしているようだった。それを知ってか知らずか、コモドドラゴンは彼女たちをなだめるように両手のひらを胸の前に掲げた。
「……どの面を下げて、と仰る方もいらっしゃるかもしれません。今日は皆様に大切なお願いがあってやってきましたの。かばんさん、ご挨拶を」
「……は、はじめまして。僕、かばんといいます。えっと…… この名前はコモモさんに貰いました」
固唾を飲んで見守っていたアニマルガールたちから、『おお』と感嘆の声が上がる。無数の瞳が彼女の一挙一動を見守っていた。かばんは生唾を呑み込み、振り絞るように言葉を続ける。
「僕は、自分が何の動物なのか分からないんです。その…… 皆さんのなかで、僕が何の動物なのか、知っている人が居れば……」
『僕に、僕のことを教えてください』と、深々と頭を下げた。『私からもお願いいたします』。コモドドラゴンも続けて頭を下げる。アニマルガールたちは困惑しつつも、かばんから目を離そうとはしない。ざわめきがふたたび輪を描くように広がり、それぞれがかばんの正体を好き勝手に考察しはじめた。
『角もないし、耳もないし、翼もない。あなた、何が出来るのかなぁ?』
『うーん、でもそれは私たちも持ってないし……』
『じゃあ、トカゲやヘビの仲間! あたしたちと一緒だね』
「でも、コモモさんが尻尾がないって……」
『トカゲの中には、尻尾を自分で切るのもいる。きっと君も、知らないうちに切ったんじゃないか?』
『そうか、そうかも、そうに違いない』と、誰ともなしに納得の声が上がる。かばんもすっかりその気になり、『僕はトカゲだったんですね!』と嬉しそうに呟いた。コモドドラゴンが、かばんの肩にそっと手を添える。交わした視線に、どれほどの意味と心が込められていたのか。短い旅路ではあったが、遂に……
「違う。その子はトカゲじゃないのね」
暖まった空気が一瞬で凍りついた。その場にいた全員の意識が、未だ闇に包まれたテントの最奥に向けられる。かばんは『訳が分からない』と言いたげな顔で、コモドドラゴンの顔色を窺った。
「……この子には耳もない、翼もない、尻尾もない。“ただのヒト”なの」
その薄暗がりの向こうから、何者かが近づいてくる。薄い褐色のベールが揺れるたびに、浅黒く滑らかな素肌が露わになる。『あれはオオサンショウウオ』だと、コモドドラゴンがかばんに耳打ちした。白日の下に晒されたその姿は、かばんが今まで見てきた誰とも異なっていた。
「はじめましてなの、かばんちゃん。私は『オオサンショウウオ』なの」
「はじめまして、オオサンショウウオさん。それで、僕がトカゲじゃないって、一体……」
オオサンショウウオは何も答えずに艶やかで巨大な尻尾を揺らしながら、ともすればかばんに触れてしまうほど顔を近づけた。彼女の深い栗色の瞳に、狼狽えるかばん自身の顔が映る。そこに映る姿からは、砂漠に独りで放り出されたような深い不安が見てとれた。
「……僕があなたの言う『ただのヒト』なら、僕はコモモさんや、ここにいる皆さんとは違うってこと、ですよね」
「哺乳網、霊長目、ヒト科、ヒト属、サピエンス種。確かに、爬虫類のコモモちゃんたちとはちょっと違うのね」
「そんな……」
かばんの目から輝きが消え始める。近くに居たはずのコモドドラゴンでさえも、影が差したかばんの表情を窺い知ることはできなかった。あれほど騒いでいた他のアニマルガールたちでさえも萎縮してしまい、その静寂がますますかばんの心を孤独で締め付けた。皆と違う、ひとりきりだということが、これほどまでに恐ろしいなんて。
その重苦しい沈黙を破ったのは、オオサンショウウオだった。そっとかばんの頬に手を添え粛々と言葉を紡ぎだす。テントの中はいよいよ静まり返り、オオサンショウウオの発する言葉は隅々にまで響き渡るようだった。
「……かばんちゃん。よーく聞いて欲しいの。あなたの正体がヒトだろうと、トカゲだろうと、あなたは変わらず『まっさら』なままなのね」
「……」
「いろいろなものを見て、いろいろなことを感じて、思ったことを大切な人に伝えてみて欲しいの。言葉に出せば、それは形を得ることができる。
「自分の種族は関係ないのね。私たちアニマルガールの姿形は決まっていても、心はもともと決められてる訳じゃない。ひとつひとつ積み上げてきた『形』、たとえどんな体を持っていても、本当の『あなた』はそこにあるの」
「かばんちゃん、私は応援しているのね。あなたが自分自身の形を持った時には、きっとその鞄が思い出でいっぱいになっているはずなの。そうしたら、またみんなに自己紹介に来て欲しいのね♪」
かばんの頬が熱くなる。彼女が力強く頷いたその途端、固唾を飲んで見守っていた『チーム・噛んじゃうぞ』のメンバーたちが思い思いの歓声をあげる。だが、オオサンショウウオの目線はすでに後ろに立つコモドドラゴンへ向けられていた。
「さて。……もっと、きちんとお話しなきゃいけない子がいるのね。ね、コモモちゃん?」
「……私、ですか?」
突然の指名に狼狽えるコモドドラゴンに、オオサンショウウオはそっと歩み寄った。彼女は思わず身をのけぞらせたが、人混みに遮られ逃げることができない。オオサンショウウオの澄んだ瞳が、コモドドラゴンの胸中を見透かすように光った。
「あなたは気付いていないかも知れないけれど。自分のかたちが分からなくて悩んでいるのは、かばんちゃんよりも、ここにいる誰よりも、コモモちゃん自身なの」
「『自分がここにいていいのか』、『そもそも、自分は何者なのか』。コモドドラゴンちゃんはきっと、ここに戻ってくるまでに何度もそう考えた、でしょ?」
「……そうですわ。私は、自分のかたちが分からなくて、恐ろしくて。見ないように逃げ出してばかりで……」
『何物でも無い』かばんとの出会いと、『何者にもなれず』チームを離れた自分への後悔。ニシキヘビとの戦いで湧いた、制御できないほどのかばんへの執着心。自分というかたちが上書きされてしまうような、心の奥深くから湧き出すあの恐ろしい感情。コモドドラゴンは目を閉じ、苦しげに唸った。オオサンショウウオは、それでも微かな笑みを崩さない。それは皮肉でも嘲笑でもない。永らく生を紡いできた生きた化石が持つ、全てを受け止める柔らかな笑みだ。彼女はゆっくりと振り返ると、背後に歩み寄ってきたかばんに声を掛けた。
「だってさ、かばんちゃん。あなたはどう思う?」
「コモモさんは素晴らしい人です。何もできなかった僕のことを見捨てず、逃げ出したりなんかしないで、ここまで連れてきてくれたんです。僕が大変な時には、体を張って助けてくれました。自分の名さえも知らない僕に、しっかりと向き合ってくれました。優しくて、強くて、僕の道しるべです」
かばんはきっぱりと言い切った。それを聞いたオオサンショウウオは嬉しそうにより顔を綻ばせる。開けた空から射す光が、かばんとコモドドラゴンを照らし出した。2人が息苦しさを覚えることはもう無いだろう。
「コモモちゃん。あなたはもう、居るべき場所、やるべきことを見つけられていたのね」
「でも、もし迷いそうになったときは…… 大切な人の瞳を覗いてみて欲しいの。その瞳の中の自分は、どう映っているのか。きっとそれがコモモちゃんの道しるべになるはずなの♪」
「……はい!」
わあっと弾けるような歓声が湧いた。いつの間にか現れたカメの楽隊が、祝福の音楽を奏ではじめている。アニマルガールたちが鱗に覆われた尻尾を揺らすたび、雲母のように煌めく光がテントの中を満たした。その中心はもちろん、かばんとコモドドラゴンだ。
「……これから、どうしましょうか。僕たち、どこにだって行けるし、なんだってできるんですよ」
かばんはコモドドラゴンの手を取る。はじめて出会ったとき、コモドドラゴンがそうしてくれたように。小さくも大きな夢を抱いた手が冷たく大きな手を包んだ。柔らかな手のひらの熱と共に、抱いた希望さえも伝わってくるようだった。
『つまりは、これかもどうかよろしくね』
2人の世界は、これからもまだまだ続きそうだ。
SCALY-TALE リタ(裏) @justice_oak
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