No.2『Scaly-intruder』

 天蓋には青空が映り、白い綿雲がゆっくりと流れていく。太陽はいまだ天頂に至らないが、それでもその輝きは力強い。


 サバンナは乾期を迎えようとしていた。草原の中を這うように流れる川すらも乾ききり、ひび割れた泥の塊がかつてここが水底だったことを示している。木々は地下に残る水脈を求め、深く根を張り立ち尽くしている。


 乾いた葉が擦れ合うかすかな音だけが、風に乗って運ばれてきた。動物だろうか? いや、違う。動物たちは水を求め、とうにここを去って行ったはずだ。だとすれば、残されたものはひとつしかない。


「……ふう、やっと川に出ましたわ。……いいかしら、かばんさん。涸れ川は歩きやすいですけれど、いつ上流の方で大雨が降るかわからないのですわ」


『鉄砲水に用心しろ』と、コモドドラゴンが藪を払って林の中から顔を覗かせた。その豪奢なフードやスカートには棘だらけの小枝や蔓が絡みついているが、まったく意に介していない。さすがはオオトカゲと言ったところだ。


「コモモさん、ちょっと待ってください……! あ、痛っ。枝が……」


 そのコモドドラゴンの後ろからは細い声が聞こえてくる。体中に小枝や枯れ葉を纏ったかばんが藪をくぐり抜けながら着いてきているのだ。必死に着いてくるその様子はコモドドラゴンにとって愛おしさを感じさせる類いのものだ。だが、『彼女は“自分たち”とは違うものなのではないか』ということも薄々と感じはじめていた。


「……そろそろ、休憩にいたしませんこと? だいぶ歩いてきたことですし」

「すみません、助かります……」


 彼女たちは水場を目指して歩いてきた。そこに集っているであろう他のアニマルガールならば、かばんについて何か知っていることがあるのではないか? そう考えての行動であったが、それは希望的観測であったようだ。サバンナでの水場探索が長丁場になることはコモドドラゴンにとっては承知の上だったが、かばんの消耗が予想外に早い。


「かばんさんは大丈夫? 辛くはありませんこと? 空腹だとか、喉が乾いたとか……」

「はは…… 頑張ります」


 蔓草を体に絡ませながら、かばんは力無く笑ってみせた。つまり、相当辛いということだ。何とかしなければ、水場にたどり着く前にジャッカルやハゲワシの餌食になることだってあり得る。ただ、コモドドラゴン自身もなぜここまで彼女に“執着”するのか分からなかった。そうさせるように突き動かす衝動のようなもの、としか言い様がない。


(……今はそんなことを考えている場合ではありませんわ。不本意ですが、一旦休ませるしかないようですわね……)


「……かばんさん。少し早いですが、今日はここで休みましょう」

「そう、ですか。分かりました……」


 かばんの口ぶりはいかにも不本意そうだが、瞳には安堵の色が浮かんでいる。それを感じとり、『これで良かったのだ』とコモドドラゴンは自身に言い聞かせた。だが、不安は次々に湧き上がる。敵からの逃げ方・隠れ方は早く教えなければ。毒のある植物はどんな色なのか。進むべき道を見失ったときはどの星を頼りにすればいいのか……  教えるべきことはまだ多い。


「……かばんさん。何か分からないことや知りたいことがあれば、いつでも相談してくださいまし。 本当に、遠慮はいりませんことよ」

「コモモさん……!  ええと、それなら…… この紫の蔓草、何でしょうか? さっきから体に絡みついちゃって」

「紫の蔓……?」


 次の瞬間。悲鳴を上げる間もなくかばんの体が蔓と共に藪の中へ引き込まれた。やられた。一体誰に。かばんは何処へ。その答えを出す前に彼女は動いた。コモドドラゴンは目の色を変え、彼女が消えた藪の中へ突進する。


 何も見えていなかったのはかばんではなかった。誰の縄張りとも分からぬ場所で隙を見せてしまうだなんて。あまりに迂闊すぎる。彼女は自身を呪いながら、先の見えない藪を力任せに薙ぎ払った。


「かばんさん!どうされたんですの !? 返事をして、かばんさん……!」


 竜の慟哭が青空に響いた。


――

――――


「かばんさん! 今、今助けに行きますから……!」


 バリケードのように張り巡らされた木々の幹さえも、コモドドラゴンは紙屑のように薙ぎ払う。巻き込まれた昆虫や小動物たちが、ギィギィと鳴きながら無残に踏み潰された住処の上を右往左往している。


 もちろん、コモドドラゴンに彼らの嘆きは届いていない。彼女が持つ五感のリソースはそのほとんどが動物由来の嗅覚器官、つまりヤコブソン器官に注がれていたからだ。薄暗く入り組んだ林の中、視覚は当てにならない。連れ去られたかばんの匂いとかつて彼女に打ち込んだ毒の残り香が地図代わりだ。目には見えない道しるべを辿り、コモドドラゴンは林を駆け抜けていく。


 ――

 ――――


「そんな。匂いが、見えないなんて……」


 揺らめく木洩れ日の下で、コモドドラゴンは大きく肩を落とした。ここまで続いてきた“匂いの道”が急に途切れてしまったのだ。急に匂いが消えてなくなるということは、普通ならばあり得ない。ついにヤコブソン器官が駄目になったか。あるいは…… すでに、かばんを攫った何者かが、その胃袋の中に彼女をすっかり収めてしまったか。


『そんなはずはない』とコモドドラゴンは焦燥しきった声で呟く。コモドドラゴンは溢れそうな涙を抑えようと、木々に覆われた空を見上げた。ツンとした傷みが鼻の根元にこみ上げる。


「……! ああ、そうだったのね」


 コモドドラゴンが見上げる先。彼女にしか見えない匂いの道しるべが、樹冠から垂らされた糸のように続いている。先ほど空を見上げたときの痛みはこれだったのか。まだ、望みは潰えていない。コモドドラゴンは大きく息を吸うと、蔓が絡み合う逆光の樹冠を睨みつけた。

 

 刺すような視線を受け、身じろぎするようにずるりと木々の梢が動いた。コモドドラゴンは目を逸らさない。脈動する範囲は次第に大きくなり、ついにはまだらの木洩れ日さえも渦を巻きはじめた。もちろん、幻覚などではない。


「……貴女なのね、アフリカニシキヘビ」


 正解だと言わんばかりに、ほの暗い藪の中で4つの光が瞬いた。太い蔓が、いや、アフリカニシキヘビがその尻尾を枝に絡ませながらコモドドラゴンの眼前に姿を現す。彼女は金色に輝く髪を揺らしながら、わざとらしく紫色の瞳をしばたたかせた。


「コモモ。久しぶりねぇ。どうしたのよぉ、そんな怖い顔をしちゃって……」

「……ふざけないで。かばんを攫ったのは貴女ですわね」


 コモドドラゴンは眉をひそめ、悠々とぶら下がったままのニシキヘビに詰め寄る。林は痛いほどの静寂に包まれている。あれほど騒ぎ立てていた虫たちでさえも、息を殺して成り行きを見守っていた。


「……かばん? ふぅん、あの女の子のことかしらねぇ? あの子なら……」

「どうしてかばんさんを攫ったの?早く、あの子を返していただけないかしら。でないと私……」

「“あのコモドドラゴン”が、見たこともないアニマルガールと一緒に歩いているところを見ちゃったんだから。私が知らないうちに何があったのか、気にな……」

「今すぐかばんさんを返しなさい。私の愛しい人に手を出して、ただで済むとは思わないことね」

「大丈夫よぉ。あの子を傷つけたりは……」

「『傷つけた』……? 傷つけた、傷つけた?」


 剥き出しになったコモドドラゴンの憎悪を受け、さすがのニシキヘビもたじろぐ。竜ならぬドラゴンの逆鱗に触れてしまった、ということなのだろうか。彼女は滲む冷や汗を隠しながら、それでも『気心の知れた友人』として、コモドドラゴンに向かい啖呵を切った。


「……あの子を返して欲しいのね? だったら……」


 その刹那、アフリカニシキヘビの体が真横に吹き飛んだ。コモドドラゴンが勢いよく身を捩り、丸太のような尻尾でニシキヘビの脇腹をしたたかに打ちつけたのだ。地面に投げ出されたニシキヘビは、苦しげに咳き込みながらも立ち上がる。その右手には紫色の鞭が握られていた。


「かばんさんを取り返すわ。力尽くでもね」

「熱くなりすぎよ。少し、頭を冷やした方がいいみたいねぇ……」


 ニシキヘビのピット器官が土煙の向こうにコモドドラゴンの熱を捉えた。不敵な笑みを浮かべ、彼女は鞭を振りかぶる。空を切る鋭い音と共に打ち下ろされた鞭の先が、生きもののようにコモドドラゴンの右腕へと絡みついた。ニシキヘビは好機と見てとり、鞭を勢いよく打ち下ろす。繰り出された衝撃波が鞭の波に乗り、一直線にコモドドラゴンへと襲いかかる。耳をつんざく破裂音が響き、コモドドラゴンが呻き声とともに片膝をついた。


 ニシキヘビは鞭を引き戻すが、攻撃の手を緩めたわけではない。回転に乗せた勢いを殺さないよう、続けて2発、3発と鞭を振るう。鞭の切っ先がひるがえるたび、コモドドラゴンの体が小さく跳ねた。


「ここで遊んでる場合じゃない……!」


 不意にニシキヘビの手が止まった。だが、これは彼女の意思ではない。鞭の先端をその手で受け止めたコモドドラゴンが、歯を食い縛りながら立ち上がる。 


「……ずいぶんタフね、昔を思い出すわぁ」

「覚悟してくださいまし」


 コモドドラゴンの手には血が滲んでいる。それでも、両者の間で張り詰めた鞭を掴み力一杯引き寄せた。ニシキヘビの体勢が一瞬崩されたが、引き倒すまでにはいかない。だが、それで十分だ。瞬きよりも速く、コモドドラゴンの両足が地を蹴った。


 放たれたコモドドラゴンの拳がニシキヘビの胸を撃ち抜く。衝突しそうなほど近づいたニシキヘビの口から、空気が漏れる微かな音が聞こえた。ニシキヘビは弾かれたようにもんどり打って倒れ込む。コモドドラゴンはさらに腰を落とし反撃に備えたが、さすがのニシキヘビさえも2度目の打撃からは立ち上がれないようだ。青息吐息のニシキヘビを一瞥し、コモドドラゴンは煙る空を見上げた。


「……かばんさん!私はここです! 返事をしてください……!」

「コ、コモモさん! 大丈夫です、僕は生きてます……!」


 入り組んだ枝葉の中から、弱々しくもはっきりとした呼び声がコモドドラゴンの耳に届いた。鳥かごのように入り組んだ枝の中で、青緑色の羽根飾りが揺らめく。


「かばんさん! そこにいらしたのですね。ああ、良かった……」


 コモドドラゴンがいかにも待ちわびたように両手を伸ばす。かばんもつられるように枝先から身を乗りだした。感動的な再会だ。だが。


「……やめなさい! それ以上進んだら、枝が……」


 叫んだのはニシキヘビだった。彼女は赤い唾を飛ばしながらも2人へ呼びかけたが、身を乗り出しすぎたかばんの体がぐらりと揺れた。言葉にならないかばんの悲鳴が、枯枝が裂ける破裂音に掻き消される。コモドドラゴンは傷だらけの両手を目一杯伸ばしたが、かばんまで届くはずもない。恐怖を帯びた2人の視線だけがスローモーションの世界で交錯した。


「待ってて、今助けるから!」


 ニシキヘビが震える足で立ち上がり、力の限り鞭を繰り出す。鞭は他の枝葉に絡みつきながら、かばんの体に何重にも絡みつく。『助かったか』と確認する間もなく、落下枝が轟音と共に土煙を巻き上げる。残されたニシキヘビとコモドドラゴンは、祈るような心持ちで立ちこめる土煙が収まるのを待った。

 

 土煙が晴れた後、そこには蓑虫のように吊されたかばんが居た。気が抜けるほど呆然とした顔つきで、ぶらぶらと風に揺れている。コモドドラゴンとニシキヘビは顔を見合わせ、一緒に安堵の溜息をついた。


 ――

 ――――


「……コモモさんとニシキヘビさんはお友達だったんですね」

「でも、あんなに興奮したコモモははじめてよぉ。はぁ、怖かったわ……」

「貴女があんなことをするからですわ。反省していただかないと」


 コモドドラゴン、かばん、アフリカニシキヘビの3人が、揺らめく木洩れ日の下で憩う。先程までの剣呑な雰囲気は何処へやらといったところだ。


「かばんちゃん、ですっけ? 本当にごめんなさいね。小さくて可愛いから、つい、ちょっかいを出したくなっちゃって……」

「ああ、いえ、大丈夫ですよ。襲われるのは2回目ですし……」


 屈託なく笑いながら、かばんは濡れた口を拭った。ニシキヘビの放った疑惑の目がコモドドラゴンに刺さる。


「コモモ、貴女は何をやったのよ……」

「話せば長くなりますわ」

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